2007年 2月
2月1日(木)

なんと言うか。怠慢である。

2007年も12分の1が既に過ぎ、ちらほらと西の方角より花粉が舞い散る時期である。幸い、私は花粉症とは縁遠いのだが、季節は陰であろうが陽であろうが刻々と移り変わるのに、私自身は梅雨前線のように停滞気味である。まあ、季節先取りと言えば聞えは良いが、停滞は停滞である。

そう言えば、先日モツを食いに行った。以前、足を運んだ「鳥小屋」という中目黒の有名店で、素朴な味わいながらも良質のモツを提供してくれるツウ好みの店である。まあ、モツ初心者(ビギナー)ぐらいでは「鳥小屋」の良さは分かりにくいかもしれないが、モツでは中級者(ナイスミドル)ほどの手練れ揃いだったので、私も「鳥小屋」ならばと予約を取ったのだった。

しかし、今更言うのも何なんだが、酷かった。予約を取った手前、同席した皆さんには言い難かったのだが、以前行った時とは天地の差であった。良質のモツであるからこそ、あの素朴な味わいのだし汁と見事なハーモニーを生み出すのだ。その微妙なバランスの妙、そして、ある種の緊張感がまさに「鳥小屋」の売りなわけで、私もその絶妙な調和を皆さんに味わって頂きたくて予約をしたというのに、あろうことか、その全ての点において欠いていたのだ。何と言うか、怒りを通り越して、とにかく残念だった。

飲食業。とりわけ、有名店と言われる店に「たまたま」という文字は無い。あってはならない。たまたま美味しいものを出されても困るし、たまたま不味いものを出されたらもっと困る。一定品質の料理を提供するから飲食店なのだ。有名店ともなれば、むしろそういった所に最も気を遣わなければならない筈であるし、その道で有名であるのだったら、ある種の責任も負わなければならないと思う。

つまり、「たまたま」とは怠慢の極みである。こと「鳥小屋」において、私の評価は「たまたまの店」である。飲食店としては最低の評価を下すよりほかあるまい。まだ近所にある常に不味いラーメンしか出さないラーメン屋の方がましだ。

こんな残念な気分を味わったのは初めてだ。

2月2日(金)

以前、NintendoDSかIPodを買うことに悩んでいると言ったが、今度はそこにPlayStationPortableが参戦してきた。

NintendoDSは「Mother3」というソフトがどうしてもやりたかったのだが、そんな1つのソフトの為に、品薄商品を必死になって手に入れるというのも馬鹿らしい。しかも、「Mother3」はアドバンスやミニでも出来るらしいというのだから何とも。

IPodのほうは皆が持っているので、つい欲しくなってしまった。あまり深い理由は無いが、ポータブルで音楽を再生する機械が今無いので、まあ、必需品といえば必需品なのだが、今やDSやPSPでもmp3を再生できるらしい。もちろん、DSやPSPならば動画も再生可能とのことだから何とも。

そして、いよいよPlayStationPortableだが、こちらはやりたいソフトがいくつかある。「FainalFantasyTactics」や「GundamBattleTactics」は絶対にやりたいソフトの1つだ。あまりにもどうにかしたいのでRomを探したりもしているが、できれば純粋にやりたい。ただ、このDS時代。そろそろDSに移植されたりしないものか。とも思うのだが何とも。

まあ、とにかく、この3つをいっぺんに手に入れれば話は早いのだが、そんな金は無い。そして、私には分かる。この中の1つでも手に入れたら最後。私は廃人となるだろう。全てポータブル機だが、外になど持ち運ばず、私は確実に部屋のベッドに横になり、一日の大半をその攻略に無駄に使うことだろう。

さて、話は変わる。昨晩、偶然幼馴染に会ったのだが、遠くアラバマの難民キャンプで苦難の時代を過ごしていた彼が、なんともうら若き女の子と中睦まじく楽しそうに車から降りてきたのだった。噂には聞いていたが、21歳。若いぞ!若すぎるぞ!とも思いつつ、DSやIPodやPSPよりも賢明な選択かもしれないとも思う今日この頃である。

そう、俺はもう27歳なんだよな。ゲーム機に現をぬかしている場合でもないのかもしれない。27歳の現はもう少し別のところにあるようだ。

2月3日(土)

午前中、病院へ行く。持ってきた荷物の整理をし、持って帰る荷物の整理をし、しばし、じいちゃんと談笑していると昼飯の時間になる。今日のメニューは白粥・ミネストローネ・サラダ・リンゴ。給食を思い出す。1時間かけつつも、ゆっくり完食。食事の後はもちろん歯磨き。もちろん、いつものように歯磨き粉大盛。そして、今度は食後のインシュリン注射。痛みに弱いじいちゃんは、もちろん大暴れ。大暴れするじいちゃんの横で、看護婦さんは大弱り。そんな可愛い看護婦さんの困った顔を見て、私は密かにじいちゃんを応援。もっと暴れろ。

昼食が終わって一段楽したら、私の役目はおしまい。お腹はペコペコ。病院から程近いラーメン屋で味噌ラーメンを注文。ラーメンが来るまでしばし読書。司馬遼太郎「この国のかたち

三巻」。10ページ足らずの小論集なので、短い時間で読みやすい。でも、その10ページが侮れない。一項を読み終わるか終わらないかのところで、味噌ラーメンがやってくる。それでは、いただきます。

ん?デジャブ?

いや、先週の土曜日も全く同じく過ごしただけだったのだ。

しかし、じいちゃん。おかげで休みの日も家で悶々としなくて済むよ。可愛い看護婦さんとも話せるしね。

2月4日(日)

物語の前半で銃が出てきたら、後半で必ず火を噴く。

ロシアのミニマリズムの作家が言っていたような気もするし、まったく別の誰かが言ったのかもしれない。まあ、でも、誰の言葉だったかなんて、それほど問題じゃない。

問題なのは、そこに銃があることだ。

今頃、銃があることに気がついたとしたなら、アメリカっていう国はずいぶん呑気な国だ。もし気がついていて、見ない振りをしていたんだったら、そうとう怠惰な国だ。とにかく、副大統領まで務めた政治家が今更こういう形で言うことではない。

彼曰く、環境問題はモラルの問題だそうだ。まったく、どこまで呑気な奴なんだ。腹立たしい限りである。

実は、今日、観に行ってやろうと思ったのに満員で入れなかったのだ。もう、観る気もしない。しかし、あんななものが満員だなんて、この国もずいぶん悠長だ。

2月5日(月)

本当にどうでもいいことだが、オタクのOLのことを「ヲタージョ」と呼ぶらしい。本当にどうでもいい。飲みの席で恋愛について語り始める奴ぐらいどうでもいい。でも、まあ、そういうことになっているのだから、仕方が無い。そういうことがみんな面白いのだろう。

私だって、ヲタージョでも恋愛の話でも、楽しければ何でもいいのだが、ヲタージョも恋愛の話も特に面白味を感じない。というか、むしろ、気に食わない。イライラしてくる。どこに面白味を感じれば良いのかサッパリ分からない。

結局、社会的な差異に対して、あーだこーだ言う面白さなのだろう。その差異を肯定的に扱うか否定的に扱うかはそれぞれだが、貧しい嗜好であることは否めない。もし、話題にするならば、私だったらそんなちまちました話題は持ち出さない。もっと包括的で躍動的な話題を提供する。

例えば、「口からウンコが出てきた場合の対処法」とかだ。

究極にして最悪の状況ながらも、その奇跡の対処法を提示しようではないか。

どうでもいいことだったら、本当にどうでもいいことの方が楽しい。

ヲタージョや恋愛の話題よりは面白そうでしょ?

2月6日(火)

本日は休日であった。最近、職場での人員配置の見直し、及び、合理化によって、不定期な出勤しかできない私に休日が多くなってきている。学生ながら窓際族という新たな光景もそう遠くないかもしれない。

しかし、やはり、休日というものは適量でないと意味がない。無制限にある休日や、あまりにも少なすぎる休日などは、最早、休日ではないってことだ。私が考える理想的な休日は、週休2日、乃至、3日といったところだろうか。絶妙なバランスだと思う。今や週休2日も難しいような時代であるから、夢物語のような話ではあるが。

さて、話は変わる。

以前、金魚の話をしたと思う。名前のある金魚と名前のない金魚を育てているという話である。憶えていらっしゃるだろうか。一方は流金型の丹頂、名は「ブリュシケトゥ」。もう一方は流金型の白和蘭、名は無い。双方とも、見ているだけで頬が緩む可愛いさである。ただ、もし、この名前という社会通念上の差が、何らかの形でこの2匹に影響を与えたとするならば、その一切は私を通じた何らかの作用、言いかえると、私がこの2匹を差別しない限り、この2匹にとって、名前のあるなしは何の意味も持たない、と。そんな話だった。

もちろん、私は、名前のあるなしで一方を敬い一方を蔑むような気の小さなことはしないし、彼らが我が家にやって来て早一ヶ月、常にありったけの愛情を注いできた。彼らも、その愛情に応えるかのように仲睦まじく健やかに育っている。名前のあるなしなど全く関係ない、申し分のない生活をおくっていたのだ。

だが、この春の陽気を思わせる気持ちの良い昼下がり、私は衝撃的な光景を目撃してしまったのである。なんと、ブリュシケトゥが名無しに対して執拗に頭突きをしていたのだ。死角からの不意打ち的頭突き。真正面からの闘牛的頭突き。仕舞には、金魚鉢から押し出さんばかりの相撲的頭突きである。それはもう酷いものだった。あまりにも酷かったので、2匹を別々の鉢に分けたほどだ。

まさか。これは名前があるかないかの確執なのか。私は金魚の世界にまで人間社会の負の原理を持ち込んでしまったのか。いや、そんな筈は、そんな筈はない。いや、しかし、もし原因が別のところ、例えば、この暖冬が影響しているのだったら、それはそれで、我々人間社会の負の影響なのだ。しかし、それ以前に、最早、金魚そのものが人間の手を経て生み落とされたという事実。

我々は、我々のみならず、我々が愛すべきものすらも犠牲にして生きていくのだ。何と罪深きことだろう。呪われた種族である。しかし、いくら強固な呪いであろうとも、私はこの呪縛を解く方法を探し続けるであろう。呪われっぱなしじゃ気分悪いからね。

2月7日(水)

小さな水槽で魚を飼う場合、その水は常に新鮮な状態に保っていなければならない。少し怠けただけでも、あっという間に死の水と化す。水量が少ないぶん腐敗も早いのだ。

同じように、私のような凡庸な人間の思考も、常に、新しい知識や視点を取り入れていないと、すぐに澱んでしまう。思考が澱むと、その思考はやがて硬直し、最終的には思考不能の状態を生み出す。

器さえ大きければ、その器の中で流動が起こり、わざわざ外部から何かを持ってこなくても、充分にその維持ができる。いや、維持どころか、何か新しいものさえ生み出してしまう。この奇跡の地球のように、循環機能すら携えることも可能なのだ。

しかし、残念ながら、私にはその資質も経済力も無い。だから、せっせと水槽の水を取り替え、自らの思考に新鮮な知識や視点を取り入れなければならない。そうしなければ愛すべき金魚も、私自身も仲睦まじく酸欠で息絶えることになる。

ちなみに、私自身に至っては、思考の酸欠状態になっていた自覚も無く、つい先ほどまで酸欠特有の悦楽に浸っていたほどだ。無呼吸症候群の患者のように、忘れていた呼吸を突如として取り戻したのである。

危なかった。

とりあえず呼吸を整えよう。そして、新鮮な空気をたらふく摂取しよう。思考においては、意識的でなければいくら知識や視点を摂取しても無意味なのだ。呼吸は自意識だ。そして、自意識こそが流動を及ぼし、命を育むのだ。我が地球が硬直し酸欠状態に陥っている今、自意識こそが地球の流動性を取り戻す鍵だ。

2月8日(木)

言葉が話せればそれはそれで申し分のないことだ。ただ、言葉が話せるからと言って、すぐさま異文化コミュニケーションになるとは思えない。

例えば、私はゼミの初めに、英語が堪能であるというような風評を得て、フランスからの留学生(ジヌー)の前での自己紹介で注目を集めたことがある。おそらく、私がヨーロッパへ行ったことがあるとか、アメリカへ行ったことがあるとかいう話を聞きつけて、海外=英語堪能と思い到ったのだろう。私の英語力といえば「アイ アム ア ペン」ぐらいの英語力である。最早、要領を得ていない。

しかし、風評があるぶん、貧乏性の私は何とかしなければならないという意識が空回りし、ゼミのクラスメイトが「マイ ネーム イズ ・・・ 」と英語で自己紹介をしている最中、「私の名前は真平です」といった、徹底的な日本語で通したのだった。ただ、その寒いお節介が、能ある鷹は爪を隠す的な誤解や妄想をかきたて、やはり、私は英語が話せるんだ、というレッテルを貼られたのだった。

実のところ、我がゼミには帰国子女とアメリカ留学帰りの海外猛者がいたので、そのレッテルも上手く解くことができたのだが、まあ、日本においての異文化コミュニケーションとはその程度のものなのである。

つまり、外国で過ごそうがどこで過ごそうが、そこにいるのは人間なのであって、宇宙人ではない。コミュニケーションとは言語ではなく、人間の生き様のぶつかり合いなのだ。もちろん、そこに共通言語があれば申し分ないことだが、生き様が伴わなくては言語は何の役にも立たない。

その証拠に、私は英語も仏語も全く喋れないけれど、私の所属する「銀河・L・ベンダー」というバンドで、フランスのアートイベントへの出演をジヌーさんより打診されている。

まさに、生き様がぶつかり合ったのである。

まあ、でも、むしろ、言葉が無かったから、功を奏したような部分も、ないことはない。

2月12日(月)

3連休。皆様はいかがお過ごしでしたか?

私は未だに年末年始の酒宴のつけが響いており、給料日までは動こうにも動けないので、この好天続きの連休も、日陰の中でひっそり暮らしておりました。

しかし、そんな連休ではあまりにも寂しいと、熱帯魚屋で10匹250円に値引きされていた可哀想なミナミヌマエビを購入し、3日間、その生態観察に費やすことにしたのでした。

が、水質変化に弱いミナミヌマエビ達は新しい環境にうまく馴染めず、私が観察している目の前でバタバタと死に逝くのでした。私の連休は更に寂しさに拍車をかけたわけなのです。

しかし、今日、その死骸だらけの陰鬱とした水中を覗くと、生き残った数匹が、見違えるような美しいアクアブルーに肢体の色を変化させていたのでした。そう、彼らは環境に合わせ自らの肢体色を変化させるのです。自然界にはありえないようなアクアブルーの透明バケツ(砂場遊び用)に移住した彼らは、多くの犠牲を払いながらも、繊細かつ大胆に、生きる道を自ら切り拓いたのでした。

なんと言うか。ミナミヌマエビ。感服です。

 

 

ミジンコほど簡単ではありませんが、ミナミヌマエビも丁寧に飼えば爆発的に増えるらしいので、頑張ります。

2月15日(木)

フランスからの留学生、ジヌーさんが、半年間の日本生活を終え、今朝、フランスへ帰っていった。残念ながら、僕はアルバイトがあったので見送りに行くことはできなかったけど、まあ、ジヌーさんのことだから、今頃、ロシア上空あたりで涎をたらしてグーグー寝ているんじゃないかと思う。

冗談はあまり面白くないけど冗談のような女の子で、ちょっと気質は荒いけどとても気立ての良い女の子で、例えるなら、生命感溢れる突風のような、まさに春一番のような女の子だった。今年の春一番が例年にまして早かったのは、もしかしたらジヌーさんのせいかもしれないと、僕は本気で思っている。

sayounara Jennifer san

matane!

↑ジヌーさん作の通称「白玉ソング」

本当に音痴なんだ。ジヌーさんが。

2月18日(日)

2月18日。日曜日。生憎の空模様。アラームで目覚めるも、しばらく布団の中で雨音に耳をすませる。アルバイトのシフトが朝から入っている。憂鬱な日曜日の朝。

思い切って、起き上がる。軽い眩暈。起き抜けの朝の一服。憂鬱な朝は煙草に限る。友人のバギィ松木が言っていた。決断は「よいしょっ!」という掛け声と共にやってくる。でも、掛け声すら億劫な、緩慢な決断。

リビングへ下りると、休日はいつも昼近くまで寝ている母親が、珍しく日曜日の朝から騒いでいる。耳元でまくしたてられても、無声映画のように現実身が無い。雨?排水溝?水浸し?また、我がボロ屋の新たな欠陥が発覚したようだ。

母親の口から発せられる無数の言葉。一つ一つが心地よく耳から耳へと抜けてゆく。空気のような言葉の羅列。ただ、その無意味なメロディの中の、あるセンテンスに私の心が妙な共振を見せる。

アァnAタァ.[”ニi・~|()(・ヮaデ・ンコ・@.sHi・・ナk・あttuタ・・?

なんだろう?暖かな夜。よく知っている風景。しゃがみ込みながら。夜空を見つめている情景。

ダa)'/カラ;;ァナタァ.[”・ニiヮaデ・ゥ・ンコ・@.sHiナkあttuタ・・??

勇気ある選択。危険な冒険。確固たる決断の象徴。非現実的な言葉が何かしらの実感を伴い私に進入する。体の芯からみなぎる妙な温かさ。なんだろう?

ア(=Oンta.[”・ヨツOIJパラ・@ッテニ'/ワデゥ・ンコ[]^シナ|()(カッタ・・??

もう少し。もう少し手がかりがあれば、私はその答えに到達できた筈なのだ。しかし、タイムリミットはいつも早い。バイトに行く時間だ。

雨の街をバイクで走り抜ける。メーターの針がどんどん上がる。

むしろ、それは到達できなくて良かったのかもしれない。現実は常に危険を孕むものだ。だからこそ、人間の脳は時として非常に曖昧なのだ。記憶という曖昧な揺りかごの中で、ずっと起きずに眠っている現実があっても良い。

2月20日(火)

「今度何か言ってきたら、絶対にアイツは殺す」

穏便とは言いがたい発言である。ただ、何でもない普通の女の子が、こないだ渋谷の飲み屋の向かいの席で終始口にしていた言葉だ。特に酔っ払ったような様子もなかった。

「殺す」という感情にまで至る経緯を彼女はベラベラとまくし立てていたけれど、そこまで思いつめるような深刻な理由はなく、私が聞いていた限りでは、あまりにも稚拙な八つ当たりにしか見えなかったが、その勢いは尋常ではなかった。まあ、しいて言えば「父親」という存在そのものに対する嫌悪なのだろう。反抗期もなく、のほほんと育ったお気楽男子の私には理解しがたい感情だった。

ただ、異常な自尊心の高さや自意識の過剰さは、若い頃に良く見られる流行り病といって良いかもしれない。特にその矛先は身近な人間に向けられる。大学生ぐらいだと、まだまだそういう病を患った若い子が多くて、閉口してしまう場面もあるけれど、そんな私も類に漏れず、流行病の患者の一員だった時期がある。ただ、誰かを殺してやりたいと思うほどの過敏な感情は持たなかった。

時代がそうさせているのか、若さがそうさせているのか、女性という性別がそうさせているのか、そんなことは私には分からないが、何はともあれ、人を殺してよい理由など、この世の中にはあってはならない。

しかし、目の前でそんな胸糞悪い話をされ続けるのも癪だったので、私と一緒にいた友人の得意の爪楊枝手品を強制的にその女の子に披露したのだが、彼女の冷たいプレッシャーを前に、友人は見事に手品に失敗した。

実に情けなかった。

ただ、人を殺す気位よりも、手品に失敗する脆弱さのほうがよっぽどマシである。

2月21日(水)

ホームページやブログを運営している人なら一度は脳裏を過ぎるだろう。俗に言われる「炎上」や「荒らし」のことである。

その大部分は「2ちゃんねる」に上がったスレッドが発端となり、対象となったホームページやブログに多数のコメントが集中する状態を指す。しかし、ただコメントが集中するなら良いのだが、その殆どが批判や誹謗中傷のコメントなのである。

対象となったホームページやブログが閉鎖に追い込まれることも多々あるが、まだ、そんなものは序の口のほうで、実際的な被害を被ることも大いにあり得る。

特に、個人で運営し、自らの個人情報を公開しているホームページやブログなどは、目も当てられない状況に追い込まれることが多い。

まあ、つまり、不特定多数の人が見てる事を忘れて、個人を特定できるような情報を載せている私のホームページなどは、それはもう酷いことになるだろう。むろん、私のホームページの場合、私自身がその対象となる。

ただ、今まで「炎上」や「荒らし」の対象となったホームページやブログなどは、まあ、批判をされても仕方ないような、困った内容を載せている場合が多く、火の無いところに、といった感は否めない。

以前に、私の日記も「2ちゃんねる」に上げられたことが何度かあって、冷や汗をかいたことがあるが、もちろん、見向きもされなかった。まあ、2ちゃんねらーの人たちも、こんな下らないサイトに目くじら立てているほど暇でもないのだろう。

ただ、そろそろ私も歳をとってきて、無駄なリスクも増やしたく無いわけで、それより何より、このホームページを末永く、自由奔放に、且つ、健やかに続けてゆきたいわけなので、このホームページを改編することに決めた。

とても残念なことではあるが、そういう世知辛い世の中なのだ。

私を特定する情報は徐々に減ってゆくと思う。如何せん、ここまで内容が多くなると、いろいろ作業が面倒なのだ。だから、ごく緩やかに、私、真平はいなくなる。

もう少し、優れた世の中になったら、また、お会いしましょう!

さらば!

2月22日(木)

言わずと知れたことだが、デザインという作業は難しい。

時代や世相によっても大きく左右されるものでもあるし、その趣旨や用途によって大きく左右されるものである。だから、デザイナーはそのデザインの背景にある、あらゆる事象を理解・解析し、そこに最も合った「かたち」を与えてやらなければならない。

つまり、この世の中に、普遍的なデザインというものは存在しないのだ。例えば、今の時代、この世相において、一般家庭で水や麦茶を飲むような、手軽なコップをデザインするとしよう。おそらく、縄文土器のようなコップをデザインするデザイナーはいないと思う。縄文型のコップはこの場合において良いデザインとは言えない。アウトだ。だが、場面を変えれば、縄文型コップが良いデザインとなる場合も大いにありうる。

ただ、その時代や世相や趣旨や用途を同じくした場合、普遍的なデザインは存在する。むしろ、その普遍性から逸脱したものは良いデザインとは言えない。例えば、似たような構成のCMが同じ時期にバッティングしてしまう事故がよくあるが、あれは、ある意味、考え抜かれたが上での不幸といっても良い。良いデザインは似てくるのだ。だが、その良いデザインの表面だけを拝借してしまうデザイナーも、世の中には少なからず存在し、その差異を見分けるのは大変難しい。

アートとデザインを混同する人が多くいるが、以上のことも含めると、クリエイティビティにおいて、一方は私的、一方は公的と考えるのが簡単かもしれない。ただ、その距離は驚くほど遠い。

さて、そんな、デザインではあるが、私も美術大学のデザイン科に通って、そうした勉強をしている。だから、簡単なデザインを頼んできたりする人がよくいるのだが、そういう人に限って、趣旨も用途もすっ飛ばして、美的センスだけを求めてくる場合が多い。

よく成金の方の豪邸拝見などの番組を見ると、様々な国の様々な様式の高級調度品を置いているお宅があるが、まあ、それと一緒で、デザインではなくて趣味なのだ。まあ、趣味にとやかく言うつもりはないので、その辺は好きにやってもらいたいものなのだが。

ただ、ああいう雑然とした贅沢さは、個人的に嫌いではない。

あの感じ、縄文的だ。

2月24日(土)

久しぶりに酒を呑んで吐いてしまった。それほど呑んではいないのだが、結果的に呑まれてしまったわけだ。女性の前で、とんだ失態である。

武勇伝ではないが、呑むたびに吐いていた時代もあったのだ。だが、この歳になると、吐くに至る前に、眠くなったり、家に帰りたくなったり、放尿をしたくなったり、まあ、つまりは酒に弱くなっているのである。

話は変わるが、学校の友人で、会うたびに「ヤッホー!」と挨拶をしてくるハーフのお転婆ガールがいる。ハーフの容姿をして「ヤッホー!」という挨拶が、なかなか可愛いじゃないかと日頃から密かに思っていたのだが、とうとう私もその「ヤッホー!」に対抗すべく、キュートでキッチュでダンディな挨拶を思いついたのだ。

「ジャンボ!」

ケニヤの挨拶からとったのではない。故ジャンボ鶴田氏から頂いた。

2月25日(日)

私はSafari社の動物フイギュアが大好きで、昔から色々と集めているのだが、うちのばあちゃんもそのコレクションに興味津々で、私の部屋に来るたびに、私のコレクションを眺めては、「へ~」と溜息をついて感心している。

四つ足のものが大嫌いなばあちゃんだが、こういう作り物には興味があるらしく、ばあちゃんの所有するコレクションにも、多くの動物フィギュアが見受けられる。どこで入手したのか、キリンやライオンやシマウマなど、アフリカの動物が好きなようである。不思議なことだ。

さっき、ばあちゃんの誕生日を祝った。83歳。昔から、口癖のように「私は早く逝く」と言っていたばあちゃんだが、大病もせず、痴呆にもならず、長生きといってよいのではないだろうか。めでたいことである。

ただ、じいちゃんのいない誕生日。どことなくばあちゃんも元気がない。じいちゃんと一緒になって数十年。毎年、一緒に祝ってきた人が、今年はいないのだ。それは寂しいことである。

そこで、私はとっておきの誕生日プレゼントを用意したのだった。

Safari社のカエルのフィギュア。

Safari社の商品の中でも私は水生動物が特にお気に入りで、その中でも前々から目を付けていたカエル。光沢感といい、サイズといい、色合いといい、申し分ない出来と言っていいだろう。

予想以上にばあちゃんは喜んでくれた。やはり、趣味を同じくする孫との絆は強い。母が止めるのも他所に、今晩はこのカエルたちと一緒に寝るとまで言い張っている。

別に、一緒に寝なくてもいいんじゃないかい?ばあちゃん。

2月27日(火)

悩みという個別的具体概念は、そう易々と他人に伝わるものではないし、だからこそ人は心底悩むわけだ。気の置けない親友であれば、まあ、僅かながらその相談は楽かもしれないが、やはり、悩みの相談はその本質を欠いた一般的抽象概念に変換しなければ伝わらない。極端なことを言えば、悩みは相談するような質のものではないし、結局、相談したところで解消はしない。つまり、相談するだけ無駄なもの、それが悩みなのだ。

なんて、悩みを呟いている人に対して片っ端から絡んでいた時期もあった。しかし、そんな暇があったら、目の前の悩める現状を何とかしろ、と。

さっき、じいちゃんの転院準備で荷物をまとめに病院まで行って来たのだ。荷物をまとめ終わり、車椅子に座って空を見つめるじいちゃんに、ふと訊ねた。

「じいちゃん、悩みはあるかい?」

「悩み?そんな難しいことはわからねえよ」

他人の悩みや、自分の悩みにかまけている暇があったら、目の前の現実に向かい合えってことだろう。そういうことにしておく。

来週から、じいちゃんは厚木の山奥の病院に転院する。方々手を尽くした結果が厚木だった。今までのように気楽に会いに行くこともできなくなるだろう。現実は予想以上に厳しく、嘆かわしいものなのである。それだけ病院が少ないのだ。

感受性が強く、悩むことが得意な日本人は、あらゆる状況を憂い、思い遣り、諦める。現実に対処する前に、我々はその想像力で物事に決着をつけてしまうのだ。この日本という国においては、現実は理想になり、理想が現実になる。政治においても同じだ。

もし、その結果として、じいちゃんが山奥に連れて行かれるのなら、日本人本来の感受性を捨て、悩むことを葬り去ろう。本来的な現実を見つめ、対処しよう。それがいくら理想論だと詰られようとも、空想的だと戒められようとも、それこそが現実なのだ。悩んでいる場合ではない。

2月28日(水)

ミジンコは、実際に飼ってみると分かるが、とても可愛い。泳ぎ方なんて、クリオネよりぜんぜん可愛い。しかも、面白いほどよく増えるし、コップで飼える手軽さがある。その姿は、まさに、コップの中の天使である。

そして、そんなとても小さなミジンコだが、彼らにも目がある。実際に肉眼で確認できるし、光にも反応する。ただ、ミジンコの目は1つしかない。これがなかなか格好良い。その姿は、まさに、コップの中のザクなのだ。

なんというか、そういった意味でも、超ハイブリッドな生物である。

ミジンコ。恐るべし。

ちょっとYouTubeを利用してみたんだが、凄いね。

インターネットって感じだ。