2006年が始まった。
よくよく考えてみれば暫定的に定められたヤクザな節目でしかないのだが、まあ、それも人類の栄えある到達として、今日という節目を私は祝福する。
そして、この暫定的時間概念を踏み台に、世界人類の更なる妥当な相互理解を願おうではないか。
今年もLOVE・真平は寛大にして優しい。
よろしく。
外で起きている事象は、自分とは別の事だし、何があろうとも、まあ、適当に、無責任に解釈でき、意見も出来る。ただ、問題なのは、その外で起こっている出来事をどれだけ自分にすり合わせる事ができるかなのだ。
どんなに、何かに精通していようとも、親身になっていようとも、その視点が傍観である限り、量や質がどうであれ、何の力も持たない。そういった視点での物言いは、その事をどう他者に訴えかけ、広めようとしても、他者を動かさないだろう。なぜなら、他者はそれを偽善と呼ぶし、申し訳ないが、私もそれを偽善だと思う。自らの血や肉になっていないものは偽りなのだ。
例えば、今流行の白いバンドを腕に巻いている人々を見ていれば一目瞭然であろう。与えられた想像力。まあ、そういった想像力も大事だが、その想像力では最早世界は立ち行かないのだ。どこか遠くの夢や希望を見るのではなく、自分の身の回りの切実な夢や希望を見る事が重要なのである。そして、世界の個々人がその小さな夢や希望を想像し創造してゆく力が無ければ世界は終わるだろう。
千年を尊び、百年を憂い、十年を危ぶみ、一年を望み、一日を大切に、今、目の前の一瞬を疑え!それが、世界と自分をすり合わせる力である。(ちょっとパクった部分あり)
そんな私、真平は今年も初詣には参らない。神に何かを委ねて生きているのなら、それは本当の生ではないと私は思う。
とどのつまりは、自分を生きよ!だ。
危ぶむなら己を危ぶめ!世界を危ぶむな!そして、神を危ぶむな!
ちなみに、私の祖母は神を捨ててほぼ50年になるらしい。その理由は、面倒だからというものだった。この孫にして、この祖母ありである。
このサイトの意匠および様式はこの状態に落ち着いてからもう2年ほどになる。最も腰を据えたお気に入りのデザインなのだが、さすがにそろそろ飽きてくる。私以外にもこの意見に「同感!」という方もいるのではなかろうか。
しかし、自分で言うのもなんだが、このサイトはそのデザインのみならず管理する上でもなかなか良く出来ている。いや、むしろ私のHTM知識の集大成的最高傑作といっても過言ではない。
ただ、このような何かしらの完成や達成の経験は、ある意味で有意義な財産として己の生涯の礎となると同時に、必ずある種の停滞を生み出してしまう。往きすぎると、己に甘んじてしまう事にもなる。
そして、こと私に関して言えば、上記したこのサイトの事も含め、己に甘んじる一歩手前の所まで来ているのではなかろうかという事なのである。それは、ここ最近の自身の日記の傾向を見ていても強く感じる。これは自惚れと慢心以外の何ものでもない!
このままではいくら虹を放つ男となっても誰もそこに夢や希望を見いだせないだろう。いや、むしろ彼等を不安のどん底に突き落とす事になるだろう。そうなのだ!今こそ私は迷い、悩み、混乱した純白の球を放たなければならないのだ!
昨晩、友人の家庭に年始のご挨拶にお邪魔したのだが、そこでは、あろうことか家族全員が泥酔していたのだった。おそらく、あの中で一番まともだったのは痴呆気味のお祖母さんだけだったのではなかろうか。
しかし、私はその一族の姿から己の矛盾に気が付いたのである。自惚れも慢心も、ましてや停滞もしない、変化を続けるこの貪欲な一族に私は心の底から胸打たれ魅せられた。
実は正月2日からバリバリ働いている真平である。もちろん、今日も元気に出勤してきた。貧乏暇無しとはよく言ったもので、働いていないと身体が鈍ってよく眠れないのだ。
しかし、そんな私の事情とは裏腹に、ここ2日間の業務はほぼ休止状態で、今日も特にすべき仕事はなかった。まあ、三箇日中は何かあった場合の非情要員的役割が唯一の主だった仕事なわけで、雑誌や本を読んだり、世間話をしたり、メールを打ったり、煙草を吸ったり、ウトウトしていたりしても立派な業務なのだ。率先してバリバリ仕事をしている人も見かけないし、第一そんなやるべき仕事もない。怠けているからといって特に注意を受ける事もない。何かあったら働けばいいのである。こんな状態がいつもだとちょっと困ってしまうが、たまにはこういう日があっても悪くない。正月限定業務である。
ただ、人間面白いもので、家でゴロゴロしている時と何ら変わりない業務内容でも、仕事を終えるとなんだか疲れているし、仕事終わりのビールも旨い。まあ、どんな仕事でも、仕事は仕事で、仕事以外の何物にもならないって事だ。
明日ぐらいから、いよいよ世間も動き出す頃だろう。そして、この街もあの狂乱的活気を取り戻すのだろう。正月ののんびりとした空気もそろそろ佳境である。そろそろ今年が動き出す。
今日から来週末まで、ようやく冬休みらしいまとまった休みを手に入れた。と言っても、これから年賀状を書き上げ、来週末までには相当量のレポートを書き上げ、試験対策の勉強もしなければならない。しかし、こんな半ば追い立てられているような時間でも、一応は自分で自由に構成できる時間である。嬉しいものだ。
ただ、全く自由が利く時間も好きなのだが、レポートを書かなくては!と思いつつもモジモジとしているような、制限付きのアンニュイなモラトリアムが私はけっこう好きなのである。つまり、今、まさにこの時間。早くレポートを書き上げて後でゆっくりすればいいのに、無駄に日記などを更新しているこの時間、この時間が私はたまらなく好きだ。このなんとも言えないモジモジ感。快感である。
今回はそのモラトリアムをたっぷり堪能できるように、ゆとりを持って10日間の休みを頂いた。おそらく、レポートや試験対策に要する時間は過去の私の実績から見て3日もあれば充分足りるだろう。つまり、残りの7日はずっとモジモジしていられるのだ。考えただけでも涎が垂れてきてしまう。あまりの快感に私は廃人と化してしまうかもしれない。
しかし、このモラトリアムは決して快感だけをもたらすわけではない。今までがそうであったように、この時間はモラトリアムが終わった後に待ち構えているであろう何らかの執行事項に対して、有効な物語を精製してくれる。
今はまだレポートなどの陳腐な制限にしか私は規定されていないが、ゆくゆくは全人類が最終的に向かわざるを得ない「死」という命題を意識できるモラトリアムに入門してゆきたい。おそらくその快感は想像を絶するものであろう。そして、今までのモラトリアムがそうであったように、私は「死」のモラトリアムに足を踏み入れることによって新たなる物語を発見する事になる。それを人は「神話」と呼ぶのかもしれない。
我々は常にこうした「神話」を探している。最近ではこういった「神話」さえも資本主義的貨幣価値の中での近代化に埋没しようとしているが、本来「神話」とは誰かに与えられるものでもないし、誰かに与えるものでもない。自らのモラトリアムから探し出すしか無いのだ。自分の中から発する物語こそ自分に最も有効な「神話」となる。
もう一つ付け加えると、その「神話」は享受したり強要したりはできないが共有する事は可能である。
さて、モラトリアムの中でひとつの物語が精製されたので私は年賀状を書くとしよう。
書いた!!
BMWのZシリーズはとても可愛いスポーツカーで、オープンタイプのものは特に可愛い。ただ、最新モデルのZ4、2.2Lタイプで423万円、2.5Lで478万円、3.0Lになると596万円になる。
実用性の欠片も無い車なのだが、そこはやはりスポーツカー。嗜好品である。高いのである。まあ、そんな訳だから、一介の学生が欲しいと願っても到底手が届かない代物なのである。いや、学生じゃなくてもけっこう厳しい代物だ。でもだからこそ憧れてしまうのだ。
しかし、そんな憧れのZに我が校の先生は普通にぷら~と乗って登校してくる。
が~っ!!
こんなブタ鼻のちっこい車は好かん!時代は業務用のハイエースじゃ!
はぁ~あぁ~、、、可愛いぃ☆
当然の事ながら、来週月曜に控えるレポート提出に関してはまだ何も手をつけず、毎日、モジモジしながら生活している至福の真平である。
まあ、その間にもちょっと早めに提出しなければならない文章があって、その原稿用紙2枚ほどの文章に4時間も費やすという狼藉ぶりを働いてみたり、リリー・フランキーのベストセラーを5時間かけて読破したり、江戸東京博物館で異国人夫婦の記念撮影を手伝ったり、時間を持て余すとは、なんという喜びであるのかを肌身で感じているところである。
さて、時間といえば、カントは時間を空間のメタファーとして捉えられていた。簡単に言えば、時計が動くとか太陽が動くとか、そういった空間的事象から時間を捉えていたのである。
それに対し、ベルグソンはその空間化された時間についての理解、認識を批判し、時間を純粋持続のものとして捉えた。つまり、時間を分割できない連続体として捉えたのである。
しかし、バシュラールは、逆に時間を瞬間の連続として捉えた。我々が感じる時間現象は常に現在、言い換えれば瞬間でしかない。記憶にある瞬間と現在瞬間が比較されるとき、時間概念が誕生するというのである。
とまあ、そんな事が簡単な時間認識の哲学史であるのだが、じゃあ、一体どれが正しいんだ?なんて思えてくる。しかし、私たちは実際、この全ての理論を様々に使い分けて時間を認識しているように思う。平坦な時間を過ごしている時はカント派だし、何かに集中している時はベルクソン派だし、何か劇的な事が起きればバシュラール派にもなる。
しかし、そう容易く問屋は卸してくれないのが世の中である。アインシュタインの登場である。
彼によれば時間と空間は同じもので、これを時空連続体と解釈し、この時空連続体には過去、現在、未来がすでに同時に存在しているとした。そして、この時空連続体の中を私たちが光速度で移動しているというのである。しかも、方程式上では時間は等方向、つまり、過去、現在、未来にも流れる事が可能だというのである。
最早、これまでと言った感じである。
そこのあなたも、もちろん私も、そして、目の前にあるこのコップも、今現在、時空間を超高速で移動中なのである。いくらモジモジしていようとも、いくら放尿をしていようとも、更に言うと、どんなに頑張ってジッと動かないようにしていても、我々は猛烈な速度で移動中なのである。これをロマンチックと言わずして何と言えばいいのだろうか。
飛行物体が音速を超える時に放つ衝撃波、その現象をとらえた写真である。その名もソニックブーム。我々は最早この速度も超えているのだ。もう時間とか何とか言ってる場合じゃなく、意味が分からん。
私は先ほど書いたアインシュタインの特殊相対性理論のおかげで、案の定、安らかな眠りにつくことができなくなった。
宇宙の始まりの事や、膨張の事や、ブラックホール、そして、私を取り巻く宇宙という時空連続体、いや、厳密に言えば私自身も時空連続体である事実。これを一定区枠化された言語や数字の論理としてなら大まかな構造は理解できるのだが、それを具体的事象として全体像をうまく想像することができないのである。考えれば考えるほどパラドクスにはまり込んでゆくのだ。そして、そのパラドクスは私の夜を長くしてゆく。
時空と呼ばれる連続4次元体を光の速さで駆け抜ける今現在の自分の姿を想像できる人がいるだろうか?五感をどれだけ駆使しても確認できない事が、数字の中では起きているのだ。しかも、最近では宇宙は10次元であったり26次元であったほうが数字的な整合性があるらしい。
こんなパラドクスは他に無い。しかし、この宇宙のパラドクスを1つ1つ丁寧に解明してゆこうという外への力は、同時に我々の内部に向かう力であることぐらいはかろうじて解る。
モジモジ5日目の私は、そろそろモジモジにも飽き、このあまりにも長かったモラトリアムにいよいよ終止符を打とうとしている。暫定的なその期日は、この日記を書き終えるであろう本日午後4時。予定より2日も早い始動ではあるが、早くて不都合な事は何も無い。
昔、書を捨て町へ出ようと、誰かが言った。
どんなに偉大な書物でも、どんなに優秀な方程式でも、どんなに崇高な芸術作品であっても、それは現実のメタファーでしかない。私はこのモジモジ5日間で様々な、そして、あまりにも整合性に富んだメタファーを確認し、その中から部分的で正確な現実を認識し、錯覚し、誤解した。
私は町に出る。ある時はこのメタファーを頭上一杯に掲げ、ある時はこのメタファーを何の躊躇も無く打ち捨て、私はこの現実の町を見渡す。するとどうだろう、私の中で新たなる整合性を持ったメタファーが生まれるのだ。その形は数字かもしれないし、言語かもしれないし、色や、匂いや、音なのかもしれない、しかし、それは着実に、私がどんなにモジモジしていようとも時空連続体の中を光速度で否応無しに移動しているように、どこかへ向かって行くのである。それが、どんな意味を持つのかは今の私には分からない。
しかし、これまたその昔、誰かが言った。
百年たったら帰っておいで 百年たてばその意味わかる、と。
世界のパラドクスは私たちに夢や希望といったメタファーを与え、そのメタファーはパラドクスを変化させてゆく。今の私のメタファーは何の力も持たないかもしれないが、いずれ世界に現実的な影響力を与えるのだろう。その為にも私はより豊かなメタファーを探すため移動を続けるだろう。
さらば、愛しきモラトリアムよ。私はちょっくら放尿しに外へ出る。世界に変化を与えるものとして、世界の変化の一部として。
いや、その前にまず風呂へ入ろう。
このサイトは、世界中のあらゆる第三者に配信されていると同時に、私、個人に対して配信されているものでもある。厳密に言えば、私という存在を一定度認識する第三者と、過去と未来の私自身に向けられたものである。
つまり、それ以外の、あらゆる人々にとっては何の役にも立たないし、何の為にもならないと、そういう主旨のものである。いや、私の事をいくら知っていようとも何の主旨も持たない場合も大いにありうると思う。
それだけ個人的なサイトである。
そう言った意味では、まあ、本当の日記と言っても弊害は無いだろう。ごく個人的であるにも関わらず、他者を意識するのが日記である。だからこそ、毎日20人程度の方々からしか注目してもらえないし、逆に言えば、毎日20人前後の人々から注目してもらえている。
そういった意味では、私、真平は幸福である。
クラスで20票を集める事ができたなら。それはクラスの主流となる。そして、人間1人の力で左右できるそういった信頼というものは20人ぐらいが限界なのである。それ以上の得票は何かしら胡散臭いものであるし、まあ、少なからず、きな臭い。
しかし、そういった膨大な意思を集めるものが、もしこの世にいたとしたならば、それはおそらく神の領域である。神はあらゆる整合性をこの整合性の無い世界に当て嵌める我々以外の唯一の第3者なのである。それが故に唯一の矛盾を孕んだ存在なのだ。それは神とは限らない。20人以上の意思を集めるものは常にそういう存在なのだ。私たちに則していない唯一の理想の存在。そこに私たちは共感している。それだから、私たちは闇夜を安眠できるのだ。
13日の金曜日が不吉な理由はなんだったか?何かキリストに関係していたように思う。キリストが死んだ日だったか?いや、何か数字に関係したものだったか?まあ、とにかく13日の金曜日は不吉な日で、その不吉な日にジェイソンはイチャついてるカップルを不条理なまでに惨殺する。
ジェイソン映画のように女の子とイチャイチャしていた訳ではないのだが、13日の金曜日、私は病に臥している。頭痛、発熱、吐き気、咳、くしゃみ。なんでもござれのオンパレードである。この大事な時期に、こんな重い病を患うとは。
この不幸が13日の金曜日という不吉な巡り合わせのせいなのかは私には分からない。ただ、人々が13日の金曜日という日を設定したのには、少なからずこの世の中には人々の平安をことごとく破壊するような不吉で不条理な事が起こり得る、そういう前提があったからではなかろうか。
ジェイソンとフレディをぶつけたのは、そんな不条理な現実を少しでも緩和して欲しいという人々の切実な願いからだったのではなかろうか。私たちが核という負の遺産から生み出したゴジラという存在を未知の怪獣たちにぶつけるように。
13日の金曜日、朦朧とした意思の中で、私はそんな事を考える。
レポートはどうなるんだろうか。。。
病の床に臥せながら、白昼夢を見た。
誰の家か分からないが木造のとんでもないオンボロの3階建ての家で、その2階の階段を上った突き当たりの和式トイレに私は駆け込む。おそらく前に何らかのストーリーが展開していたのだろうが、ちょっとうまく思い出せない。とにかく、トイレに入って、ポロディンを出して、いざ、放尿という所で、肝心の小便がうまく出せないのだ。
そこで私はハッ!とした。いかん!これは夢だ!
案の定、夢だったのだ。私は危くシーツに20年ぶりの宝の地図を描いてしまうところだった。病で朦朧とする意識の中でも、長年の経験と勘から、なんとか、パンツまでに流出を食い止めたのだ。
最早、俺はプロである。
トレジャー・真平はまだまだ宝の在り処は明かせない。
しかし、レポートの行方は何処に。。。。
風邪が治らない。もう結構な日数が経っているが、まだぐずぐずしている感じで意識も軽く朦朧気味、症状が重いわけではないのだが心配だ。
さて、私は今週の試験期間、基本的に実家から学校へ通う事にした。当初の予定では国分寺のアパートから通おうと考えていたのだが、こういった中途半端な期間での自活はなかなか面倒な事が多く、それに付け加えて体調の事があるので、ちょっと苦労をするがこの一週間は実家から学校へ通う事にした。つまり、事実上、国分寺アパートは来年度、私が無事に3年生になるまで閉鎖されることになる。まあ、部屋の風通しに、たまに1泊2日ぐらいで様子見には行くが、とりあえずのシーズンオフである。
そこで! どなたかにこの国分寺での生活を FOR
RENT!
国分寺での生活をちょっとだけ満喫したい方!親と喧嘩してちょっとだけ家出したい方!まだ、一人暮らしを経験した事が無いので疑似体験したい方!真平を好きで好きでたまらないファンの方!何だかよく分からないけど一人になりたい方!
そんな方々にこの国分寺アパートを開放する。もちろん破格の値段で提供しよう!!(応相談)
もし、本当に借りたい方がいらっしゃれば相談に乗りますよ!
どしどし!ご応募!
セックスはしちゃダメだぞ☆
初級フランス語だろ?初級なんだろ?それにしては、ちょっと難しすぎはしないか?私だってもう2年間フランス語を勉強している。中級レベルにアップしてもいいのではないかと思いつつも基礎が大事と初級を選んだのだ。いや、ちょっとは楽に単位が取れるだろうな、なんて気持ちもあった。認める!
ただ、語学の修得というのは、ある程度の基礎的な文法知識と、膨大な反復演習、これに尽きる!つまり、何回も何回も同じような例題をドリル的に解いていく。これは語学に限らず、初級勉学の心得だ!
小学校の頃を思い出して欲しい。私たちは毎日のように計算ドリルや漢字ドリルをやらされたではないか。今でも思うが、夏休みの宿題なんて、そういう意味では小学校の頃が一番大変だった。
ちなみに、小2の頃の夏休みの宿題をショートカットした私は未だに九九の七の段が苦手で「7×6」などの掛け算は「6×7」と逆にしてから答えをだしている。今でもだ。初級者にとって、それだけ反復演習は大事なのだ。
つまり、そういった反復演習無くして、初級を語るな!と私は言いたいのである!そんなもん中級だ!いや、上級だ!
というわけで、私はおそらく今期の初級フランス語の単位はほぼ絶望的である。ちなみに、去年の初級フランス語は前・後期とも「優」だったのに、この差は何なんだ。。。俺なりに猛勉強したんだよ~、進むのが速いんだよ~、まじで~、26歳の脳味噌じゃついていけないよ~。
俺だってもう一度パリに行って、今度こそカワイイ子にフランス語で語りかけたいんだよ。そんな夢がさ。。。
どなたか、フランス語のドリル的教材をご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。
酒には、良い酔い方と悪い酔い方がある。
良い酔い方の場合、二日酔いになろうとも私はとても幸せな気持ちでその朝を迎えることができる。特にそういった酒の場合、私はかなり饒舌になるので、往々にして喉を潰しているし、もう一つの指標として、放尿を遂げている場合が多い。
悪い酔い方の場合、その二日酔いは最悪だ。口の中は粘つき、目脂はたまり、寝坊をする。まず起きて思う事は、もう二度と酒は飲まないという切なる願いだ。何か悔やまれる事件を起こしている場合も多い。
さて、そんな訳で、昨夜の酒がそのどちらかと聞かれれば、それは恐らく後者のほうになると思う。主な理由は、試験期間中に酒を飲んではいけないという実に簡単な常識であった。最早、良い酔い方と悪い酔い方とか以前の問題である。
しかし、若い子達は元気だ。いくら酔いに任せても、私はもう二度と彼らと一緒にカラオケに行こうとは言うまい。おそらく彼らは何の制限もなければ死ぬまで歌を歌っているだろう。
ただ、ある意味、若さっていうのは、そして、青春ってのは、そういう永遠の無軌道さの事を言うのかもしれない。つまり、青い鳥がさえずりを止める時がその生涯であるように、歌を歌えなくなったその時、私たちの青春は終わるのかもしれない。
そういった意味では、私はもう上手くさえずれない。そういう段階に足を踏み入れ始めている。
ようやく試験が終了した。
最終日である本日は英語の試験で、ロフティングの「ドリトル先生月へゆく」という童話と、カフカの「流刑地にて」という小説の抜粋文を時間内でひたすら訳してゆくという、なかなか大雑把かつ実践的な試験であった。
まあ、読み物としては個人的興味をそそる逸品だったので、試験もなんなくパスできた。ように思っている。うむ。たぶん、大丈夫だろう。
しかし、ようやく試験も終了し、卒業までの単位も取り切り、手放して伸びができる。そんな感じでもある。
そんなわけで、私の大学2年生はようやく終わりを迎えた。若い子達は「もう2年なんだね!」と、その時間の早さに焦燥感を感じている風だったが、私にとってはまことに永い2年間であった。そして、あと、もう2年も後に控えているのかと思うと、なかなか、どうして、別な意味での憂鬱な焦燥感にかられるのであった。
少年老い易く学なり難し、老年老い難く学も職も恋もなり難し、といったところである。老年は難しい事だらけだ。
嗚呼、カフカよ。
世界はあなたの小説以上に不条理で不平等に進んでいます。
Zガンダムには強化人間と呼ばれる女性キャラクターが何人か登場する。視覚的にはなかなか魅力的なキャラクターなんだが、無理やり強化されたのが仇になり、精神的に相当な障害を負っている設定になていて、実際、その錯乱ぶりには目を覆うものがある。しかも、彼女たちはその精神錯乱状態でサイコガンダムなどの最新鋭殺戮兵器を操作するものだから、なかなか恐ろしい。
まあ、そんなキャラクターのせいもあって、Zガンダムは実に無軌道に、かつ、かなりの緊迫感をもってその物語を進めてゆく。カミーユが、アムロが、そして、シャアまでも、女たちに翻弄され、その女たちは常に大爆発の危険を孕む。もう、何がなんだかといった感じである。
しかし、私は今になって感じる。男女の関係について言えば、これほど現実的な物語はないのではなかろうか。女性とは何の前触れもなく突然爆発し、我々男子は、その爆発をなんとか上手くやり過ごすか、必死に耐えるしかない。しかも、その爆発の原因を我々は一生知ることはないのだ。
まさに諸行無常の仕打ちである。
Zガンダム。あんな猿のドラマなんかやめて、月9に持ってきてもらいたいものである。
暴れん坊将軍。現在、10時半よりテレビ朝日にて再放映中である。おそらく、現在再放映中のものは結構最新のもので、暴れん坊将軍XIではないかと思われる。残念ながら、このXIにはサブちゃんは登場していない。
暴れん坊将軍は私がもの心つく以前から約25年に渡って放映されていた人気時代活劇である。実は、何を隠そう、私、時代劇大ファンなのである。時代劇にも色々あるが、私は江戸時代劇にしかあまり興味が湧かず、NHKの大河ドラマなんかは消極的である。町民や越後屋や代官が出てこそ時代劇なのだ。
ここで私、真平の江戸時代劇ベスト3!
1位 三匹が斬る
主役三人それぞれの物語展開が最後には見事に一筋の流れにまとまってゆく構成の良さには幼心にもガツンと来るものだった。ブレイク前の役所広司演ずる千石(久慈慎之介)の痛快さも見物である。
2位 大岡越前
大岡裁きとはよく言ったもので、毎週の御白洲での慈悲溢れる名裁きには幼心も心揺さぶられた。ちなみに、同じ奉行でも遠山の金さん。あれはダメだ。あんな桜の紋々での奇襲じみた裁き方は幼心にもどうも解せなかった。
3位 暴れん坊将軍
いわずもなが、旗本、徳田新之助のあの物腰には幼心にもセクシーさを感じるものだった。大人になったら俺はきっとこういう大人になるのだと心に決めたものだった。まあ、その後、徳田新之助は私を置いて、ラテンの世界へ導かれてしまうのだが、ある意味では、今だに私の心を掴んで放さない。
ちなみに、その昔、うちのジイちゃんと暴れん坊将軍を見ている時に教えられたのだが、何を隠そう、実は私、サブちゃん演ずる町火消し・め組の組頭、新門辰五郎の末裔なのだそうである。新門辰五郎は歴史的にも実在する。ただ、実際は浅草十番組、を組の組頭であったそうだ。
「を」って。。。
こう見ると、確かに目元から眉にかけて、どことなく私と似てなくもないような気もするが、いやぁ!これはサブちゃんではないか!
椎名林檎の曲に「罪と罰」というのがある。おそらく、かのドストエ・フスキーの小説からとったのだろうが、それを熱心にカラオケで歌う彼女はドストエ・フスキーを知らない。まさに「罪と罰」
国分寺のアパートの便所は今人気の和スタイルで、造形的魅力に溢れる姿とは裏腹に、排便中のその空間の狭さはちょっとした拷問である。こちらも、まさに「罪と罰」
ただ、「罪と罰」というそのアンビバレンツな構造は、私たちの心を否応なく捉え、魅了する。
どうやら、このサイトには私が把握している以上に、私の知り合いが訪れているらしい。別に私もこのサイトを隠しているわけではないので、注目して下さる奇特な方がいらっしゃるというのは大変ありがたいことだし、できる事なら、これからも末永く閲覧して頂きたい。
ただ、まあ、他人に言えないような個人的性癖を赤裸々に語っているようなサイトでもないし、ましてや、こちらも実名で世界配信しているわけだから。ねえ。
まあ、何が言いたいのかというと、野暮なことかもしれないが、せっかく見ているんだったら、何かひと言、掲示板にでも書いていって下さいよ!ということだ。こんな事を書いてしまうと逆効果になってしまうかもしれないが、なんか、水臭いのが苦手なのだ。
私はこれからもコツコツと世界に向けてhtmを組んでゆく。今どきhtmサイトも珍しいもんだ。もちろん、mixiやblogの力など借りない。私は自分のでき得る限りのところで、たまに誰かと肩を組み合えれば、それで良いのだ。
だから、、
誰か、肩を組もうよ~!
簡単な荷物を持ってアパートの玄関を出ると、とても心地の良い初夏の風が頬をくすぐる。思わず、煙草に火をつけ、緑の香りに満ちた空気と一緒に煙を吸い込む。僅かな眩暈を感じながら、少し目を細め、青々とした楓の葉からこぼれる柔らかな光を眺めてみる。何の目的を持たない異国での朝日。まだ時間はたっぷりある。
この町には歩きながら煙草を吸う人はいない。いや、煙草を吸う人自体を見かけない、そういう町だ。でも、僕は火のついた煙草を片手に楓の木漏れ日の中を歩き出す。煙草を吸う人も見かけないが、煙草を吸って歩いていても、自分以外の人を見かけない、そういう町なのだ。
煉瓦づくりのアパート群を眺めながら歩いていると、2本目の煙草を吸い終える頃にはニューベリー通りに着いている。通りの角には、いつものように、初老の黒人ホームレスがダンキンドーナッツのドリンクカップに入った小銭で軽やかなリズムを刻んでいる。門番としてはいささかくたびれた感じもするが、僕は彼に5セントの通行料を払う。
ニューベリー通りを少し歩くと「Trident Booksellers」という小豆色の看板が見えてくる。本屋兼カフェのお店で、このお店の女の子はお揃いの黒いコスチュームを着ていて、この国にしては珍しく、愛想が良くてキュートな子が多い。いつものようにコカコーラを頼んでから、読みたい本を探しに行く。
本を見つけて席に着くと、スライスレモン入りの冷えたコカコーラが卓の上にきっちり置かれている。煙草に火をつけ、コカコーラをひと口飲む。本を一通り眺めて、何気なく窓の外の景色を眺めていると、お店の女の子が僕の持っているカメラを指差して何か声をかけてくる。発音が早すぎてよく聞き取れないけど、なんとなく返事を返す。彼女は微笑みながら僕の肩を軽く叩いて、また僕に何かを話しかける。
何もかもが同じようで、何もかもが違うような、そんなデジャブのような瞬間が連続するプールの中をゆっくりゆっくり泳いでゆく。それがボストンでの僕の生活だった。いや、生活というよりも、記憶そのものの中に生きているような、そんな毎日を過ごしていた。
知り合いがボストンへ行くらしい。だから、僕はこんな事を思い出した。
飛び込むまでは色々面倒だが、飛び込んでみるとなかなか心地良いものだ。ただ、入っている時間が長いと上がるのにもなかなか憂慮する。
ボストン。僕もまた行きたい。
小学校2年生の頃、キョンシー襲来を恐れた私は、町内中に自前のお札(その数500枚)を貼り、時には、自らの血をもって結界を作り、キョンシーの脅威から7丁目(庚塚町会)を救った事がある。
職場の同僚は同じくして、小さい頃、5円玉の束を腰から下げ、十手を片手に町内を巡回警備していたそうである。たまに悪猫などを見かけると、腰元の5円玉をすかさず投球していたそうだ。女伊達らに見上げた正義漢である。
町内にはそこかしこに小さな自警団がいて、悪の手から自分の町を救うため、日夜、目を光らしていたものである。しかし、残念な事に、私も、そして、この同僚も、この行過ぎた正義漢が原因で大人達からこっぴどく叱られている。私などはお札貼った家々に頭を下げて周ったほどだ。
少年、そして、少女とは、往々にして突っ走るものである。その極度の暴走を柔らかく修正してゆくのが大人の役目だ。なぜなら、この暴走の原因は至って単純で切実な少年・少女の願いであるからだ。
だから、私は町内に5円玉を投げている少女がいようとも、お札を入念に貼っている少年がいようとも、褒めることは無いまでも、怒りはしない。
逆に、ちょっと参加させてもらうかもしれない。
本日、職場の方々と、再びモツ鍋を喰いに行く。
今回の題名は
「豊かな味わいを忘れられぬ男たちのレクイエム(鎮魂歌)’06」
だそうだ。
ちょっと違ったかもしれないが、まあ、そんな事で、前回混迷を極めた醤油味に引きつづき、今回は味噌味に挑戦してみようという試みだ。楽しみである。
ただ、しかし、前回のモツ鍋の噂を嗅ぎつけた職場の女性陣が、なんと、かなりニアミスで、私たちとは別にモツ企画を計画していたらしいのだが、残念な事に、予約が取れず、この第二次モツ鍋大戦の最中、無念の挫折を味わったようである。
まあ、ある意味では戦歴の甘さが祟ってしまったわけだが、裏を返せば、それだけモツ鍋への道は過酷を極める厳しいものでもあるわけだ。
しかし、彼女達の意志は我々がしっかり背負い、心してモツ鍋に挑戦してこようと思う。
そして、モツを喰い終えた、その最期の瞬間には、我々の為、そして、ここまで辿り着けなかった者たちの為、声高らかにレクイエムを叫ぼう。
「モツかれさま~!!!」っと!
今「AKIRA」を読み返している。サイバーパンクの代名詞ともされる大友克洋の人気コミックスである。
私はこの「AKIRA」に出てくる金田という主人公に憧れて、高校生の頃、バイクの免許を取ったのだ。そして、特に湾岸の工場地帯など、ちょっと荒廃した未来都市を思わせる現場を目指して走ったものだった。もしかしたら、自分の存在が世界を左右することになってしまうような、そんな、何か大きな事件に巻き込まれることをいつも想定しながら走っていた。
しかし、もちろん、そんな漫画みたいなチャンスは一度もやってこず、むしろ、暴走族に遭遇して、必死になって身を隠したり、交通事故の過酷な現場を目の当りにしたり、まあ、自分の現実と漫画との、大きくかけ離れた距離感を嫌でも感じなければならなかった。
でも、私は思う。「特攻の拓」や「湘南爆走族」、ましてや「カメレオン」なんかに憧れてバイクに乗らなくて良かったな、と。いや、暴走族漫画は好きだけど、やっぱり、「AKIRA」に登場するバイクの象徴性とそれとでは価値観が違いすぎる。
あ~、バイクと若さが欲しくなってきた。
「私は肉が喰えない」と、周囲にさんざん言ってきたし、私自身、その事を信じてやまなかった。そして、おそらく私を知る多くの皆さんも「真平」イコール「肉が喰えない」という定説の中で今までやって来られたと思う。
しかし、ご存知のとおり、私、先日などはモツ鍋を喰いに行き、実のところ、普段も鳥の唐揚げやつくねなどは当たり前に喰う。ましてや、ソーセージやベーコン、コンビーフなどは好物と言ってもいいぐらいなのだ。
これは、もしや、私、肉が喰えないわけでもないのでは?
天動説は地動説に移り変わり、最早、進化論などは一般的な共通概念となり、相対性理論による物理的世界認識がごく当たり前の世の中で、今、真平肉食説が急浮上している。
とにかく、ここで一度ハッキリさせておこう。申し訳ないが、どうやら、私は肉が喰えるらしい。
この現実が世界にどのような影響を与えるのかは分からない。しかし、時代が更なるパラダイムを要求する限り、私はその要求に応えてゆく所存である。
だから、俺は肉を喰う!