30歳になり、2010年になり、忘年会も新年会も終え、今更ながらではあるが、明けましておめでとう。
間接的には色々と知っていたが、ずっと触れる事のなかったレヴィ・ストロースの原著なんかも読み始めるようになった30歳。真平です。
まあ、そんな事はさておき。
眼鏡や腕時計や靴といった、末端的な御洒落に懲り始めたら、オヤジへの階段を昇り始めた証拠ではあるが、まあ、それがZoffやCasioやConversなので、まだまだオヤジへの階段には踏み出していないと思って止まない真平である。
まあ、興味はあるが経済力が無いだけで、オヤジに足を突っ込んでいる事に変わりないのだが、そういった拘りを持ち始めたという事は、私なりに生きていた証を遺したいということでもあるのだろう。
つまり、その証とは、生よりも死に近づいているという証でもある。
まあ、そんな、オヤジに片足突っ込んだ私ではあるが、今年もどうぞよろしく。
これまで、なかなか床屋が定着しなかったのだが、去年から、とある床屋に通い始めている。
いつも、自分の思い通りにならないので、本当にどうしようもなくなるぐらいまで髪を切りに行かなかったのだが、今の床屋に定着してからは隔月ぐらいのペースで、こまめに通っている。
注文通りの髪型にしてくれるのはもちろんなのだが、散髪中の会話もあまり気を遣わなくて済むので、本当に気軽に行けるのだ。
こんなにも、散髪というものが楽しいものだと、初めて知った。
ちなみに、そんな私の髪を切ってくれている床屋さんは、中学時代、私が恋に落ちた人なのだ。憧れの先輩ってやつだ。
30歳にもなると、憧れの先輩に髪を切ってもらえるのである。
今、NNN系列で放映されている「君に届け」というコミック原作のアニメーションがある。純文学以上に「純」を探求した恋愛アニメである。
「純」という、ある種のKY的な立場を設定することで、現代社会の逆KYっぷりを、高校生特有の純(KY)な恋愛感情を通して露にする優れたアニメ(コミック)であると、私は感じている。
「純」をもって「純」を制す。
おじさんとしては、そこが面白い。
ちなみに、そんなおじさんは、今日、焼肉屋に携帯を忘れてきた。焼肉も食わず(食えず)、上記のアニメ話に没頭しているうちに、何もかも忘れてきてしまったのである。
本当に「純」なおじさんである。
今朝、出勤途中、駅で友人に会った。
その友人とは、頻繁ではないが酒なんかも飲みに行く仲なのだが、予期せぬ遭遇に、特に話題も無く、車内では終始気まずい時間が流れていた。
大人の付き合いとはこういうものかと、少し実感するのだった。
「サブカルチャーとしての文学」と「アンダーグラウンドとしての音楽」に関する本を読みつつ、レヴィ・ストロースの原著を並行して読み進めている。
文化と政治と習俗とが絡み合いながら、何らかの形でその時点を表現してきた人間の認識を読み解けるのではないかと、個人的に興味を持っていたコンテクストである。
しかし、おじさんになった私は、読書に費やす時間がなかなかとれず、ようやく落ち着いて読書に勤しめるのが、就寝前のささやかな時間しかない。
その為、取り急ぎ、読み進めることだけを目標にしていたのだが、読書と言うものは、読んでいるだけでは味気ないもので、やはり思索の時間というものを欲するのである。
まあ、そんな欲望を満たすために、毎日、どんなに遅くなろうとも、どんなに疲れていようとも、家の近くにあるバーに寄って、1杯のビールを飲むまでに、その日までに読み進んだ地点の総括し、零れ落ちていた興味を再確認するようにしている。
何だつむはってか?そうです、私が変なおじさんなのであろう。
金曜日の夜。給料日前の侘しい週末。脇目も振らず家路を急ぐ。
ふと空を見上げる。都会の雑踏でも、空を見上げればひとつぐらいは星が見えるものだ。儚くも力強い輝き。数万光年離れた太古の輝き。
星じゃなく、飛行機だった。
金の無い大人は哀しい。缶ビールをあおる。
となり町で夕食をし、少しお酒を飲んだ帰り道。小さい方を催したので、繁華街から少し外れた公園の公衆便所に入った。
男子便所には二つの小便器が並んでいた。奥の小便器を選び、チャックを下ろそうとした、その瞬間、男が駆け込んできた。
「おい、てめぇ!」
男と目が合う。酔っ払いではない。一瞬で感じる暴力の臭い。
「てめぇ!?暴走族じゃねえよな?」
私の間抜け面を見て、人違いに気がついたようだ。
「この辺で、あんたみたいな黒いニット帽かぶった奴ら見なかった?」
んなもん知らん。
「見つけたら、教えてくんない」
誰に?どうやって?
そうして、男はその場を立ち去って行った。
特に危ないことは無かったが、久々の暴力との接近に、戦慄というよりは感動を覚え、少しちびってしまった。
今でも町は暴力で渦巻いているのだ。 うぅ~む。
世の中とは、本当に下らない理由で動いていると感じても、まあ、仕方ないと諦めるようになってきた。
それはそれ。俺は俺。
意味も無く嫌悪され、意味も無く尊敬され、意味も無く侮蔑され、意味も無く賞賛される。
下らない。
お陰様で、最近は私の腹も下らない。
下るほどの場面に遭遇しないのだ。そういった意味では良いことだ。
このサイトにはアクセスログ解析機能を付けている。
これだけ小規模で、無目的で、内容の無いサイトにアクセスログ解析機能など必要ないのだが、まあ、興味本位で付けている。
アクセスログ解析には、このサイトの来訪者がどんなキーワードで到達しているかが分かる機能がある。今日、その解析結果を見ていたら下記のキーワードでこのサイトに到達している方がいた。
「ハムスターをパンツの中に入れて遊んではいけない」
確かに、いけない。しかし、それは心情でもある。
何というか、私はもっとこのサイトを充実させなければいけないと感じた。
冷たい朝の空気をコートの襟に顔を埋め遮る。朝の町に潜るようにして同化する。今日もまた都会に埋もれた匿名の一人として一日を過ごすのだ。
さて、先日、久しぶりに現代アートのイベントへ行って来たのだが、前々から感じていた現代アートへの違和感が顕在化した。
ポストモダンとかデコンストラクションとかアブストラクションとかコンセプチュアルとかを通り越して、やはり、洋の東西を問わず現代アートはテロリズムに陥っている。
今後、その表現がどういった方向に昇華されてゆくのかは分からないが、現状、残念ながら若い作家でテロリズム的な手法以外で目を引くような作品は見当たらなかった。
悪いとか良いとかではないのだが、まあ、あまり面白くはないように思う。
私の手法と同じではないか。
風向きが良いと、高層ビル群が共鳴し、何とも心地よい低音の響きが町を包み込む。昼休み、私はその音を聞きながら職場の屋上で昼寝をする。
さながら、音の揺りかごである。
まだまだ、私も世界を感じ取れるのである。
世界は脆く、儚く、美しいのである。
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「古代少女ドグちゃん」
とても面白いので見てください。
先日、横浜の運河沿いにあるちょっとした遊園地のちょっとした乗り物にちょっと乗ってみたのだが、あまりの恐ろしさに、ちょっとチビってしまった。
昔は豊島園(木馬の会ってまだあるのか?)なんかで、かなり慣らしたもので、大概の乗り物は屁とも思わず乗っていたが、やはり歳なのか、あまりの恐ろしさに絶叫が止まらず、身体の穴という穴から、いろんなものをチビってしまった。
頬に感じる 冬風に 三十路感じて ちとチビる
掲示板を見て頂いた方はお分かりだと思うが、英語の書き込みがある。
香港のギターポップミュージシャン、ThePanCakesのdejayさんからの書き込みである。ライブ活動で世界を飛び回り、各国のCFなどにも自らの楽曲を提供する、ワールドワイドな香港ガールだ。
私のこんなしょうもないサイトに書き込みを頂けるだけるなんて、光栄の極みなのである。この場を借りて、感謝と感動の意を述べておきたい。
さて、しかし、香港と東京。
歴史的背景は重々承知だが、大きい括りで言えば、同じ極東に生活圏を持つ者同士が、遥か遠くの英語という言語を通じて意思疎通をはからなければならないというのは、実際にやってみると、なんとなくナンセンスだ。
そして、それすらも儘ならない私は、更にナンセンスなのである。
まったくもって、申し訳ない限りだ。
スズキからアオシマを経由しイシハラへと功名に引き継がれた計画は、確実に首都東京を経済的メガロポリスへと劇変させていた。
そんな、膨張する混沌の中で、私たちは青春時代を過ごしていたわけだが。健気で無知な若き私たちは、その後の首都の行く末など一切危惧すること無く、多少の問題は抱えつつも、取り急ぎ、目の前にある音楽や映画やバイクや女の子に没頭していたのである。
まあ、そんな訳で、最近、高校生を見ると、複雑な気分なのである。
フーテンがのさばる、かつての姿を思い浮かべながら、新宿の街を歩く。
東側には路上を舞台にしたセクト的な新劇闘争が盛り上がる一方、西側ではゲリラを名乗るフォーク集団が歌による政治占拠を試みていた。そして、その東と西を分かつ新宿駅は平和を望む実力派学生によって封鎖されていた。
私たちには俄かに信じられない事だが、当時の新宿の街はそういう事になっていたようだ。
そんな事に思いを馳せると、今の新宿は何でも有りそうで、何も無いように感じる。うむ。きれいさっぱり何も無い。
ちなみに、私が夜に出かけようとすると、今でも婆ちゃんは
「フーテンには気をつけなよ」と、心配をする。
そんなものはもういないのだよ。婆ちゃん。フーテンすらいない世の中の方が心配だよ。婆ちゃん。
河馬の貯金箱を貰ったので、何気なく500円玉を貯めていた。5ヶ月ぐらいになるだろうか。中身が一杯になってきたので、数えてみると、10万円近く貯まっていた。
うぅ~む。
使うようなあても特に無いので、貯金でもしようかと思うのだが、それもそれで、なんだか切ない。土曜の夜である。
情けない男である。
「土曜ソリトン SIDE-B」
知っている人は知っている。知らない人は知らない。
そう。緒川たまきである。
90年代中盤に放映されていた、どちらかと言うと、サブカルチャーに焦点をあてた番組ではあったが、現在の「サブカル=オシャレ」といったようなマイナーな図式に至るにあたって、大きな影響力を持ったNHKの深夜(?)番組である。
その要因として、ナビゲーター役の緒川たまきの魅力が大きく起因するわけだが、私の動機もそこに起因した。
可愛い。いや、可憐なのである。何の取り得も無い私にとって、希望ある幻だったのである。
そんな緒川たまきに、本日、私は直面した。むろん、可愛い。いや、可憐であった。15年前とまったく変わらず、可憐であった。そして、15年前同様、私は高揚し、動揺し、翻弄された。
あんな可憐な人は他に無い。なんというか、やり場の無い動揺である。誰か今から一緒に呑んでくれ。私のこのやり場の無い動揺を往なしてくれ。抱きしめてくれ。
右のポケットから2000円。鞄の底から3000円。抽斗の中から4000円。
いろんな処から、金が出てくる。
はて?
私の記憶は日に日に曖昧模糊になってゆく。モヤモヤ。モコモコ。
しかし、少なくとも、得した気分にはなれる。
前から持っていたのだが、なかなか上手くできなかった為、あまり練習せずにいたのだが、以下の先生達の動画を見てから、俄然やる気が出てしまい、口を血だらけにして毎日特訓している。
カッコいいぜ!口琴!完全にトランスじゃんか!
しかし、特訓のしすぎで、さっき口琴が壊れてしまった。
また新しいのを買わなくては。
しかし、先生達は上手い。そして、上手い。
成人してから10年にもなる。
煙草も吸うし、酒も飲むし、女も抱く。最早、どこからどう見ても大人だ。
しかし、実際、大人になったという実感があまり無い。結婚や家の購入といったような大きなイベントごとがあれば、少しは感じるかもしれないが、そういう事にも恵まれず、のんべんだらりと10年が過ぎてしまった。
ただ、さっき英文でメールを打っている時にふと感じた。
今まで何気なく外国人の友人達と交流していたが、外国人の友人達!これって凄く大人なことじゃないか!
大人に対して夢や希望を抱いていた小学生の自分に対しても、恥ずかしくない大人性を私は既に身につけていたのだ!
かつての俺よ。俺は今、外国人の友達がいる大人になったんだよ!
なんだかよく分からないけども、そんな訳で、私は今、ひしひしと大人を実感しているのである。健全なる大人の実感である。
この日記でも何度も書いたことがある。理不尽な体験である。
大人になれば、様々に理不尽な目に遭わされ、それに対して、様々に応用力を身に付けていく。ガラスの少年時代を送った私でも、三十歳にもなれば自己防衛として、陶器ぐらいには強化されたハートを獲得している。
ただ、どうしても我慢ならないのは、個人的な感情による意図的で直接的な嫌がらせである。笑えないようなことを平気でやるのだ。
私もこんな人間なので、他人から色々と反感を買うことが多いが、自分の行いの上でそうなってしまったのなら、仕方ないことである。
しかし、個人的な経験や境遇の鬱憤晴らしのためだけに標的にされるような、本当に謂れの無い嫌がらせだけは我慢ならないのである。
どこへ行こうとも、いくつになろうとも、そういった事をしたがる下らない奴がいるのである。
しかし、そんな理不尽な目に遭い、憤りを通り越して、虚しくなる俺。
俄かに浮上した3月インド渡航計画。具体化するかは別にして、突拍子もない、驚きの計画である。
ただ、そんな計画を聞いて、私の下らない悩みはぶっ飛んだ。
インドだろうがどこだろうが、行こうと思えば、我々はどこでも行けるのである。細かな人間の細かな事でくよくよしている場合ではないのだ。
インド。ちょっくら行って来るか。
給料日まであとちょっとのところだが、既に金が無くなってしまった。
何に使ったかなんて憶えておらん。
必死に生きていたら無くなっていた。ただそれだけだ。
明日の昼飯はどうしたものか。
そういえば、弁当男子とは、私のように必死に生きた結果、職場になけなしの米を持ち込まざるを得なくなった男子のことだろうか?
明日から弁当おじさんにでもなるか。