何か、気分の乗らない午後。
景気づけに80年代邦画を見に行くが「子猫物語」を見て更に墜ちる。
ミスチョイス。
アパートに帰るも、なんだか停滞した気分。隣の関口君が今日もドタドタと生活している。そんなガサツな生活音が今日は妙に心地よい。そして、揺れる。関口君が何かしているのかと思ったら、地震だった。地震の揺れが心地よい。
気の乗らない日はそれでいい。
「面倒」
最近よく頭に浮かび、感じる単語である。
そして、僕は「面倒」を考える。どんどん突き詰めて考える。そして、「面倒」の先の、奥の、ずっと深くに、最後の最後に残っているモノを拾い上げると、それは「死」であった。
「面倒」とは死に至る病である。
今日は「はな金」だからとクラスメイトは教室を後にした。14時26分の出来事である。いくらなんでも早すぎだ。
確か、週休2日制が始まりだしたのは僕が中学の頃からだったから、金曜日が「はな」と呼ばれ出したのもその頃ぐらいからなんだと思う。実際はな金データランドなんて番組も鮮明に憶えているぐらいだから、死語のように扱われているが、そんな古い話ではない。と言っても12年前の話だが。
ただ、うちの大学は、いくら「はな金」と言っても、土曜まで授業がある。だから、厳密には「はな金」ではないのだ。と言っても話は始まらない。つうか、そんな事はどうでもいいのだ。とにかく僕は、なぜだか分からないが、この「はな金」という言葉を聞いて、今週のドンヨリとした気分から一気に解放された。不思議なものである。そして、そういった意味では、今日はまさに僕にとって「はな金」たり得る日となったのだ。
鈴木蘭々はわりと好きだった。
ちなみに、ポンキッキの収録後を狙って彼女に接近を試みたのだが、女子プロレスラーのようなマネージャーにいとも簡単に捻り潰された純情高校男子の俺の話は有名である。捻り潰される俺を見て蘭々はあっけらかんと笑っていた。可愛かった。あれもたしか「はな金」だった。
今日、小学校の同窓会があった。知っている人は知っていると思うが、例のごとく、僕は正式には招待されなかった。嫌われていたとか、あまり仲良くなかったとか、そういう理由があるならまだ納得できたと思う。しかし、真相はもっと酷いものだったのである。ある意味、同窓会に純粋に集ってきた級友すらも冒涜するような理由である。まあ、ココでその理由について書いても仕方が無いので書かないが、僕らは既に卑しい大人として充分相応しい年齢に達してしまったのだ。
嘆くべき事である。
昨晩のあまりの出来事にどうしてもやりきれず個人的に場所を変え僕は深い酒の中に溺れていった。
そして、今日、3時間遅刻した。仕事に。
福島さん。申し訳ありませんでした。福島さんは良い大人です。
とにかく、最近、あらゆる事に自分がかみ合わない。
憂鬱だ。
今日はいろんな人から「痩せたんじゃない?」と言われた。自分自身ではよく分からないが、これだけ多くの人から言われるんだから実際に痩せたんだと思う。
しかし、実質的な痩せた太ったという事よりも、痩せてしまった時の話題性が非常に問題である。痩せるという事は太った時のそれよりもはるかに深刻なシュチエーションを生んでしまうからだ。当事者としてはとても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。そして、そんな事に悩み、また痩せる。
痩せた原因は自分でも思い当たる事がある。先週の日記を見た人ならだいたい察しはつくだろう。そう。間違いなく心労が原因だ。心労が祟れば5キロ前後の減量はすぐできる。
つまり、夏に向けてダイエットをしようとしている婦女子の方々へ。心労ダイエットはオススメである。繊細な感受性を身につければ誰でも簡単にできる。本気でダイエットに悩んでいるだけでも充分痩せられるのだ。神経が太い人は身体も太い。
FatboySlimは悪くない
25年間生きていて、数多くの素晴らしい人に出会ってきた。なかなか面白い人にも出会ってきた。でも、ちょっとそういうのはないんじゃないかなあという人にも数多く出会ってきた。
その、ちょっとまずいんじゃないかと思えるような人に関して、その大部分が、昔、飲食店のアルバイトをした時の上司であったり社員であったり同僚であったりした場合が多い。
つまり、何が言いたいのかというと。
飲食店にはそのように、ちょっとまずい人間が集まり易い、乃至、そういう人間性を作られてしまうような環境なのではないか、という事だ。
もちろんこれはあからさまな僕の偏見であることは間違いないと思う。ただ、僕の経験ではこれが現実なのだ。だから、飲食店のバイトというのはあまり良い印象が無い。人間関係が大変で、肉体的な疲労も多く、給料も安い。良い事が無いのだ。
まあ、それだけだ。寛容さを感じられない。
こういう子がいれば話は別だが、まあ皆無だ
三年前の今頃、僕はボストンにいた。
ボストンには梅雨なんて無いから、今の季節は初夏の爽やかな日差しと風がなんとも言えず心地良くて、とても過ごしやすい季節なのだ。
朝、早く起きて公園を散歩なんかすると、爽やかな緑の香りに満ち溢れていて、たまに楓の実がくるくると回りながら落ちてくる。ちょっとこれは素敵すぎるんじゃないかと思ってしまうほどだ。
ヴァージン・スーサイズで主人公の5人姉妹が自殺したのは確かこの季節だったと思うけど、ふと死んでしまってもぜんぜん苦にならないんじゃないかと思えてしまうほど何かに満ち溢れた夢のような季節なのだ。
キャロル・キングのアルバムを聴きながらフェンウェイの公園でゴロゴロしたいものだ。
今の季節のボストンの香りがする少女だ
あくまでも僕の中で
深夜1時、帰宅すると部屋の扉の前に白い鉢植えが置いてあった。前に写真で紹介したから分かるとは思うが僕の部屋はエントランスの一番奥なので、何者かが故意に置かない限り、そんな所に鉢植えがある事自体、非常に奇妙な事なのだ。そして、鉢植えなんかを僕の部屋の前に置いて立ち去るような知り合など思い当たらない。実家であれば合格祈願ダルマや焼酎の一升瓶をポストの上に置き去っていく友人などが沢山存在するが、まだ、ココへ越してきて2ヶ月と少ししか経っていないのだ。そんな知り合いはいない。
狼狽した。
生まれて初めて使うような言葉で表現してしまうほどに、僕は今まで体験した事のない焦りを感じたのだ。深夜の白い鉢植えほど不気味なものはない。とっさに周囲を見回し不審な人物がいないかどうか確かめた。しかし、不審な人物はおろか、動くものすら見あたらない。更なる悪寒が背筋を走る。
何なんだ!・・?
投げ捨ててしまうんだ!そんな衝動にかられるほどに取り乱していた。しかし、その鉢植えを持ち上げた途端、焦りや不安が一気に消え去った。その鉢に植わっていたのはシソだったのだ。なぜなら、僕は前からシソが欲しかったのだ。
しかし、どこの誰がこんな所にシソの鉢植えを置いたのか?まさか、隣りのガサツな関口君が植物を育てられるとは思えないし、ましてやその植物をおすそ分けするようなタマでもない。まあ、気持ちの悪さは残しつつ、その日は疲れていたのでそのまま就寝した。
そして、次の朝、寝惚け眼で家を出ようとすると、ドアポストに手紙が投函されている事に気が付いた。封を開け中を見ると、一行「大事に育ててください 大家より」と書いてあった。
まさに捨て鉢である。
昨日、実技課題の講評を終えた。
ウェアラブル(Wearable)「身に付けることができる」というテーマで4週間以内に何か作って来いという、こちらも捨て鉢な課題だったが、僕はこのテーマを「思想を身にまとう」という個人的なテーマに置き換えて、現在の世界宗教につきものの救世主を題材にした「お告げマッシーン」という啓示的機能を備えたマシーンを作った。
十戒に勝るとも劣らない、仏足跡に勝るとも劣らない、ハンムラビ法典に勝るとも劣らない、威厳と神秘に満ち溢れたマシーンである。
しかし、今日、その威厳ある「お告げマシーン」がある少女の手によって、いとも簡単に破壊された。神は殺されたのだ。
ある意味、非常に啓示的な瞬間であった。まさに、僕が表現したかったのはこういう事だったのだ。
ちなみに、「お告げマッシーン」を破壊したのは、以前紹介した健忘娘である。我がクラスの真のカリスマである。
神を殺したといえば、やっぱニーチェだ
遅ればせながら今日「バトルロワイヤル」を初めて観た。
当時は残酷なシーンが大変な問題として取り上げられていたが、別に、ビジュアルにしても話の流れにしても、そんなヒステリックになるほどのシーンは全く無かった。深作欣ニでいえば「仁義なき戦い」のほうがよっぽど残酷で過酷で不条理だ。むしろ、この「バトルロワイヤル」なんかはとても爽やかな青春映画と言ってもいいほどだ。
社会というのは変な所で変に反応するのに、ココは!という場面では全くの無関心であったりする。ぜんぜんアテにならん。
制服がなかなか可愛い
ここ一ヶ月ほど大学で署名活動という地味な活動に取り組んでいた。内容は履修登録に関したシステム上の問題で切り捨てられてしまった授業の再履修登録を求めるもので、まあ、内容的にもなかなか地味なものである。
実はこの度その署名活動が実を結び、めでたく改善される事になったのだ。まあ、そこまでは良かったのだ。
実は、この署名活動を始めたのは僕であって、代表者も僕の名前であって、まあ、仕方ないのだが、今回の報告を授業中に学生の前でしなければならないのだ。まあ、別に報告ぐらいだったらぜんぜん問題はないのだ。問題はその報告の為に与えられた時間が問題なのだ。今、その授業内では悪名高きヒットラーの「我が闘争」の映画を観ている。そして、僕の報告にあてがわれた時間はその「我が闘争」を見た後なのだ。否が応でもヒットラーに勝る報告並びに演説が要求される事だろう。
いかに、この地味な勝利を扇動的かつ抑揚的に報告するか大問題である。キング牧師風な演説も悪くない。さて、どうするか。
いい顔してんな!おいっ!
敬愛する師匠、ビヨンセ・ノウウェル氏の所属するR&Bユニット、ディスティニーズチャイルドが解散する事になった。
僕の中では「ゴージャス」の代名詞のような存在だっただけに、ある意味において「ゴージャス」はこの世から消えてしまったと言ってもよい。
日本においてもゴージャス姉妹などと呼ばれているメカニカルな姉妹がいるが、あれが「ゴージャス」ならば僕は「ゴージャス」など侮蔑していただろう。
つまり、真意の「ゴージャス」が消えた今、僕の存在指針も消え去ろうとしている。ゴージャスとは?俺とは?
岐路に立たされた俺の「ゴージャス」さは今まさに試されようとしている。
地下の喫茶店で何度かバイトをした事がある。そして、僕は地下の喫茶店の客席で繰り広げられる人間模様を観察するのが大好きだ。ちなみに、今バイトしている吉祥寺の喫茶店も地下の喫茶店だ。
例外なく地下の喫茶店という所は一般的な喫茶店よりは少々値が張る。その為、あまり若いお客は来ない。客の回転も立地の特質上それほど激しくない。そして、これが一番特徴的なのだが、少々怪しげな客が来る。
怪しいというのは、言動とか、容姿とかではなく、関係の怪しい客が数多く訪れるのだ。まあ、早い話は、不倫、乃至、浮気である。まあ、そこまで決定的ではなくても、そちらの方向に発展しそうな関係を見る事は多い。あと、キャバレーの同伴出勤の待ち合わせにも使われるし、怪しげな打ち合わせにもよく使われる。
ちなみに、今のバイト先でとても気になる客がいる。
「先生」と呼ばれる中年男性と、その中年男性を「先生」と呼ぶ20歳前ぐらいの女の子のペア客だ。
まあ、それほど決定的な関係ではないまでも、僕の長年の経験からすると、肉体関係ぐらいはありそうな、確実にキャバレーの同伴というわけではない、そんな関係だと思われる。ちなみに、病院の先生というわけでもなさそうだ。
いつも、女の子の方が一方的に「先生」に他愛ない不満や愚痴を話し、「先生」のほうはとても優しくかつ的確に相槌をうつ。ある時間が来ると女の子がトイレに行き、その時を見計らって「先生」がカウンターに支払いにやってくる。そして、30分もすると店を出て行くという感じだ。
店を出て行く時、女の子のほうは必ずカウンターに向かって愛想良く「とても美味しかったです」と言っていく、その光景を「先生」は優しく見守っている。なかなか趣きある光景である。
地下喫茶店。
優しくも複雑な糸が絡みつく場所である。
傘がなくて一歩もアパートから出られなかった。
まさに、井上陽水の詩のようなな状況だ。
やらなくてはならない事がある。
しかし、それを術く手段が決定的に失われている、もしくは、それを自分の怠惰な気持ちの言い訳にしていたりする。
まあ、雨の日っていうのは、そういう日なのだ。
そんな僕の気持ちを察したのか、さっき大屋さんが紫陽花の切花と茹でたトウモロコシを持ってきてくれた。こんな日はそんなお節介がありがたい。
色々あったけど、実家を離れてとても良かったと思っている。いや、地元を離れたと言った方が適切かもしれない。
あのまま、この品川に留まっていたら、僕は一生この町の呪縛から離れられなかった事だろう。過去も現在も未来も、全ての時間を内包し、そして、その時間に鈍感になりながら、鈍感という緩やかな優しさの中に埋もれていっただろう。
そして、そういう鈍感な人間にとって時間には次第に意味が無くなってくる。なぜなら、変化を必要としないからだ。しかし、今の僕には時間が必要だ。変化という営みが必要なのだ。変化を生み出そうと志す人間には停滞することなく生きてゆける営みが必要不可欠だ。
表現とは創造的な行為である。
一般的には天才的な創造力の持ち主が自己発信的に、まさに才能として表出するものだとされている。つまり、芸術だ。
しかし、僕は、それは何だか違うのではないか?と以前から個人的に思っていたのだ。むしろ、そう思う人の怠慢であり、嫉妬のこじ付けが、この理論を生み出しているのではないか?と常々思っていたのである。
そして、その事が今日の実技課題の先生の話から少し確信に近づいてきたのだ。
話を要約すると、天才的な表現者はその作品を表出させる以前に膨大な量の情報や経験を実に鮮明に自分自身の中に取り込み、そして、自分自身のフィルターを通して何物かを表出させている。
つまり、天才的な表現者は一般的な人には考えられないほどに情報を蓄積し、その膨大な蓄積物の中から滲み出てきた非常に色濃い部分が行き場を失って表現として表出してきている。という事だ。
天才的に生み出されているという事では無いのだ。
物理的に考えても、何も無い所から何かが出てくる事などありえない。
早い話はそういうことだ。
なんて事を考えると、今現在の自分自身などは表現どころの話ではないのだ。僕の中から何かが溢れ出すのはまだまだちょっと先の話だ。
いや、むしろ溢れ出るのか?
岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言ったのは、まあ、そういう飽和状態からの噴出の事なのだろう。あいつは自他共に爆発していた。色々な事を言われているが、つまり、芸術家だったのだ。
大家が紫陽花を持って来た。
僕は昔から大きい花をこれ見よがしに咲かせる花が好きではない。特に、この梅雨という季節に堂々と咲くような紫陽花という奴の気が知れなかったのだ。
しかし、
なかなか、飾ってみると可愛いではないか。
まさしく、部屋が色ずいたというような。すごく良いと思う。
うん。うん。とても綺麗だ。なかなか良いではないか。
おおっっと!危ない!
これ以上はお見せできない。
花って奴は、コレだからいけない。ちょっと近づくと実にエロティックである事に気が付かされる。
ちなみに、紫陽花の実の花はまだ奥に控えているらしい。
なんて花だ。
公示
期限:20050731
担当:学生生活課
「6月22日(水)、7号館前で行われたパフォーマンスによって、警察車両が到着するという事態になりました。調査の結果、救急を必要とするものではなく、演出によるものであることが判明しました。こうしたことにより本当に救急が必要とする人が命に関わる重大な事態を招く危険性が考えられます。今後こうした危険な表現行為が行われることがあってはなりません。さらに無届け企画を禁止します。」
学校当局からのメールニュースである。馬鹿な事をする奴もいたもんだ。
実際、僕がその場に居合わせたわけではないが、血糊まで仕込んだ周到なパフォーマンスだったらしい。凄いのかどうなのかは俺には分からんが、個人的にはパフォーマンスと言うよりは悪質な悪戯と言った方がいいのかもしれない。
そして、俺は敢えてこんな時期だからこそ当局に無届けの企画を立ち上げたいと思う。
内容は今回の事件に関わった学生による全校生徒への土下座パフォーマンスだ。パフォーマンスとしての土下座なのだから、彼らも痛くも痒くもないだろう。
なんてったって、俺らは来週、構内に育成している枇杷を愛でると称して酒を思う存分飲む「枇杷パーティー」を無断で企画していたのだ。もちろん、ツマミは枇杷だ。この悔しさはひとしおだ。絶対に土下座させてやる。
犯人の詳細請う。
表現について散々述べたけども、実は、これ、
僕の最新作の、題して「リベレーションマッシーン」である。
ちなみに、分かりにくいが、
動くとこうなる。
こうなると言われても、という話である。
計算すると、このマッシーンは一定の電圧の下で一定時間作動させると蓄積した熱量の影響で自らが破綻する性質を持っている。
というか、その為のマッシーンである。
まさしく、リベレーション(啓示的)なマッシーンなのである。
そして、僕はこのマッシーンを作ったおかげで来週の月曜日の12時30分に研究室に呼び出された。
まさしく、リベレーション(啓示的)なマッシーンなのである。
来週月曜日12時30分。新たな啓示が下るだろう。
バンドメンバーの26歳の誕生日会が、地元品川の立ち飲み屋「肉の前川」で開催されたので、急遽、地元に帰ることになった。
そこで、その誕生日会の模様をココに掲載する。
知っている人は知っているだろう。
バギー松木氏である。
ちなみにコレは、昨日の僕の晩飯である。
特に、話の本筋との関連は無い。
終わる。
あー、あと、今日、学校に宇多田ヒカルさんがいました。何しに来たのか分からないけど、movi'n
on without you な感じでした。
あと、一階のアトリエに可愛い可愛い黒猫の赤ちゃんがいて、僕はかなりそいつに悩まされています。その黒猫だけで生きる全てを満足できてしまう自分に気が付くのが恐ろしいのです。
学期末。学校の課題やレポートに追われ、今もかなり有機的な構造の図面に四苦八苦していながらも、合間を見ては、この日記を書いている。どうしても書かなければならない事があるからだ。
話は昨晩、深夜0時過ぎ、吉祥寺でのアルバイトを終え、地元品川に帰ってきた時より始まる。
図面やレポート等々、パソコンでやらねばどうにもならない作業とそのレポート等に付随する資料集めを一挙にやってしまおうという目論見、そして、以前に幼馴染から借りていた自転車(2002年11月14日日記参照)を、できれば昨晩中に返して欲しいという幼馴染からの要望で、終電間際の酒臭い電車に乗って遥々帰ってきたのである。
駅に到着し、なるべく野暮用から済ませておこうと、まず幼馴染に連絡を取った。彼はすぐに電話に出て「今、みんなで近くで飲んでるからちょっと寄ってかないか?自転車はその帰りに取りに行けばいい」と僕を酒宴に誘ってきたのだった。時間も時間だし、そんなに遅くはなるまい。バイト上がりのビールという魅力にも惹かれ、僕は指示された居酒屋に向かった。
駅からほど近い最近できたばかりの洒落た居酒屋。初めて入る店なので勝手が分からず、右往左往しながら友人達の集う席を探した。しかし、各席を確認してゆくも、ぜんぜん見つからず、ようやく、最後、店の一番奥の妙に盛り上がった座敷に行き当たったのだった。
ははーん。やはり、みんな大分飲んでいるようだ。
久しぶりに会う面々が酒の酔いに任せて騒いでいる様子を想像しながら、その盛り上がった席へと入っていった。
しかし、そこにいたのはド派手な見知らぬギャル達だった。ダレ?こいつ?ナニ?この七三?しらけたムードが座敷を埋め尽くす。
すると突然
「おっ!しんぺーだー!」
「しんぺーじゃん!」
な、ななななんだ!?ダレだ?そのギャル達と一緒に飲んでいる男衆をよく見てみると、知っている顔ばかりではないか。ギャルオであるとばっかり思っていた連中こそ、友人達だったのである。すると、友人の一人から一言「お前、なにやってんの?」
いや、お前らこそ何をやっているのだ?
奴ら、年甲斐も無く、合コンなぞをやっていたのである。しかも、私の居ぬ間に。ギャル達と。ずるいじゃないかっ!!
と言う事で、私も楽しく参加させてもらった。
他に書く事は色々あるのだが、今日はとりあず、ココまで。
いやー、時代はやはりギャルだ。