2005年 8月
8月1日(月)

本日、15連勤という最近ではなかなか珍しい偉業を達成した。以前働いていた模型屋では72連勤の記録を持った偉人もいたが、一般よりちょっと劣る体力での今回の私の15連勤もなかなかだ。と思う。

しかし、さすがに半月間ぶっ続けで働くのは疲れた。今、この日記をキーボードで打つのにも体の節々が軋んで、なかなかうまく手が動かない。少しでも気を抜くと、あqwせdrfftgyふじこlp;@:みたいな始末だ。

しかし、明日は15日ぶりの休日である。否が応でも、今までためていた欲求がこの休日に凝縮され、発散される事は間違いない。気合の方も二元方程式並の円弧を描いて上昇している。とりあえず、見たかったビデオを既に2本借りてきてしまっている。明日は明日でやらなければならない事が山ほどあるので、このビデオは今夜中に見る覚悟である。

よく「明日から3連勤だよ」とか「5連勤だよ」とかいった話を聞くが、以前の模型屋では土日に何か大きな仕事が関わってくると10日や12日出勤は当たり前だったので、3日や4日は連勤とは言わないんじゃないかと思ってしまう。

まあ、そんな事を愚痴として普通に言える時代が来たら、それはそれで嬉しいけれど、残念ながら、まだ世界は週休2日制が主だ。身を粉にして働いて、その分中身の濃い充実した休日を送ればいいではないか。その上で我々は3連勤や5連勤と愚痴が言える世界を目指せばいいではないか。その方がきっと楽しい気がする。

現社会では15日間の労働に対して正当に支給されるべき休暇は4日である。私は明日1日でこの4日分の休暇を完済させてみせる。それが我々プロレタリア階級の「粋」って文化なんだと思う。

そして、将来、週休3日や週休4日を勝ち取ったその時、我々は高度に洗練された余暇の使い道に到達している事だろう。ブルジョア階級には創造もできない恐るべき金の卵を我々は今現在温めているのである。

その手始めに、とりあえず、借りてきたゼブラーマンから見る事にする。

8月2日(火)

唇を蚊に喰われた事がある人なら分かると思うが、腕や足を喰われた時など比べ物にならないぐらいに腫れる。それが顔という顕著に目立つ部分であるだけに、結構な一大事となる。そして、俺は今朝、唇を大きく腫らして目を覚ましたのである。15日ぶりの休日の爽やかな夏の朝日が眩しいベットの上で。

三遊亭円楽とアナゴさんはどことなく似ている。そして、今日の俺は三遊亭円楽とアナゴさんにどことなく似ている。

しかし、そんな風に自分を意識して一日を過ごしてみると、日本を代表する日曜夕暮れ時の顔になったような優越感が湧いてきたりするもので、なんか、ちょっといいもんである。

8月3日(水)

夕方頃、以前働いていた建築模型屋の同僚から留守番電話が入っていた。メッセージは大型の裁断機で何かを切断している機械音だけで、言語によるメッセージは何も残されていなかった。

その模型屋には2つの大きな裁断機がある。主にアクリルの無垢板やABSという樹脂の無垢板を、加工出来る大きさに切断するために用いられるパネル型の大型裁断機である。

1台は僕が所属していた地形模型を作るフロアーに、もう1台は建物模型を作るフロアーに設置されており、主に下っ端のバイト君が指示された寸法を書いた紙を手に握り締め、慎重に合成樹脂を切り出している姿が多く見られるポイントである。安全装置がしっかりしている機械なのでよっぽどの人間で無い限り怪我などはしない下っ端向きのメカである。

しかし、そんなイージーな機械音を留守番電話に残すなんて、奇妙である。僕と同じ時期に入社して、僕が退社する頃、その同僚はコンペの仕事も一人で任されるようななかなかの手練れになっていた。そして、あれからもう2年以上が経っているのだから、それはもう、相当な座に着いている事だろう。あまりにも不可解なメッセージである。

今度は注意深くメッセージを聞いてみた。

すると、大きな板材を切断する機械であるのにも関わらず、どうも裁断機の丸刃の空転時間が長い。つまり、何か小さなものを切っているのである。そして、切断音がかなり高音なのである。小さくて硬質なものを切っているのだ。

そこで、僕はようやくピンときた。

確か入社したてのまだまだ下っ端の頃、昼休みになると、彼と僕はその裁断機が安全であることをいい事に、壊れたラジカセや、使い古しのパソコンなどを倉庫から持ち出しては片っ端からぶった切っていたのである。そして、その切断面を見ては歓声をあげていたのだ。小学生的興味以外の何ものでもない。ただの馬鹿である。そして、案の定、こっぴどく叱られた。メッセージに残された切断音はまさしくあの頃の懐かしい音だったのだ。

つまり、彼は数々のキャリアを積んだ今でも「俺はまだまだ生きているぜ、こんなもんを切っちゃってるぜ」というメッセージをその切断音と共に伝えたかったのである。

俺は。それに比べて俺は。あの会社から何かやってやろうと飛び出して美大なんぞに入ってみたが、一体何ができているのか。もしかしたら、俺は何かを大きく見失っているのかもしれない。何かを大きく間違えているのかもしれない。

そして、あの小さくて固い何かを切断している音は、そういう僕の奥底に小さくコチコチに固まってしまったどうしようもないものをぶった切ってくれている。そういう音であったのかもしれない。

ありがとう同僚。

8月4日(木)

デザイン業界においてAdobeのソフトは今や不可欠である。

このホームページの素材もAdobeのIllustratorやPhotoshopを駆使して作られたものであるし、学校の提出物から作品作り、そして、趣味に及ぶまで、僕自身、多岐にわたって利用させてもらっている。

しかし、最近、Photoshopの調子が芳しくなく、先ほど再インストールを試みたのだが、何が悪かったのか、アプリケーションデータが全て消えてしまい、インストールもできない状態になってしまったのである。僕にとってのパソコン機能は最早半減以下である。最悪の状況と言ってもよいだろう。明日から最愛なる人も韓国に行ってしまうし。

は~、こりゃ困った。

てなわけで、この日記にも写真が付けられなくなってしまったけど、見捨てないでくれたまえ。

8月5日(金)

村上春樹が村上朝日堂というエッセイで、日本においての情報は、テレビで知り、新聞で確認され、雑誌や書物で定義ずけられる。みたいな事を言っていた気がする。

確か、それの対比としてギリシアでの情報の経由の手順をあげていたと思うけど、僕はそれを読んだ時、小説は印象派のくせに、けこう鋭く現実を見ているんだな、なんて感心していた。

しかし、歳を重ねてゆくごとに、印象派や超現実派の表現はある意味で現実派よりも鋭く現実を見なければ表現し得ぬものだという事が解かり始めてきていたりしているので、まあ、フムフムといった感じではある。

ただ、そこでただフムフムとしていたら、僕は村上春樹が定義した日本的な情報把握の仕方で終わってしまうのである。

人の定義は自分の定義ではない。しかし、人の定義は自分の定義に在り得るかもしれない。そういう事は生身の人間と話し合って始めて共有されるものなのである。つまり、映像や活字だけでは情報は情報のままなのだ。だから、世の中つまらないのである。きちんと情報を精製しようじゃないか。世の中を面白くしようではないか。

8月10日(水)

こないだの日曜日、バギー松木氏と利根川水系にバスフィッシングに行って来た。バギー松木氏の指導もあり、36度の炎天下で意識を朦朧とさせながらもバスを1匹とブルーギルを5匹釣り上げるごとができ、個人的にはなかなかの釣果であった。

さて、その利根川水系では僕らが行った日曜日、高校生ボートの全国大会が行なわれており、バギー松木氏が最も得意とする黒部川の爆釣エリアがそのレースのゴール地点になっていた。つまり、釣りをしながらボートレースも楽しめる一石二鳥なポイントだったのである。しかし、そんな楽観的な僕らの期待を大きく裏切り、僕らはそこで過酷ながらも感動的な光景を目の当りにすることになったのである。

5人乗りボート女子決勝。たしか4番手ぐらいでゴールしたボートだったと思う。普通ならゴールすると漕ぎ手をやめ、それぞれのレース結果に感嘆の声をあげるのだが、そのボートはゴールしたにも関わらず黙々と漕ぎつづけていた。どうしたんだ?という心配をよそに、彼女たちは一心不乱に漕ぎつづける。そして、ちょうど僕らの目の前までやってきたその瞬間、ボートの上の5人の乙女が一斉に大声で泣き始めたのである。悔しさのこもる乙女の叫びである。そして、バギー松木氏と僕も涙した。失われた青春に対するオッサンの叫びであった。

同じ涙ではあるが、一方は青春の素晴らしさがもたらす悲しみの涙、一方は失われた青春に憧れる哀しみの涙だったのである。

ボートというマイナーな競技だったからこそ、僕らは何かを通じ、涙できたのである。まさに感動である。

8月11日(木)

今の職場の業務は決してやりがいあるものではない。しかし、職場の人達は良い意味での寛容さと類い稀なる意識を持ち合わせた人が多く、そういう意味では素晴らしい職場環境であると思う。だからこそ、僕自身の意に反する業務であるにも関わらず、5日間の有休が発生するほどまでに、なんとか今までやってこれたのだ。

しかし、最近入った新人さんの事で職場は些細ながらも重大な岐路に立たされている。早い話は使えない新人さんが入ってしまったのである。僕はあまり関わった事がないので具体的に何がどのように使えないのかは分からないが、新人さんといってももう3ヶ月目になるらしい彼女の働きぶりは確かに少々ぎこちないように見える。寛大な人が揃っていると言ってもそこは職場、そんな彼女の存在を排斥しようとする流れが多少なりとも揚がってくるのは仕方ない事なのだ。

そして、その流れは先週行なわれた飲み会で、とうとう現実的な発言として皆の前に暴露されてしまったのである。そういった負の連鎖は加速度を伴って膨張するものだ。それまで業務上の愚痴など一切飲み会では出なかったのに、その日の飲み会はその子をめぐる愚痴大会に成り果ててしまったのである。

しかし、ウチの職場は精鋭揃いである。

その子を排斥する事は容易い事だが、それが彼女にとって、そして、自分たちにとって一体何の意味を持つのだろうか?たかが職場、探せばいくらでもある。されど職場、なかなか良い職場など無い。そんな事は我々は重々承知しているではないか。誰もが一寸先は闇なのである。つまり、彼女を辞めさせる事は、自分たちにとっての光をも、自らが捨て去る事と同義なのである。といった議論がその後に展開されたのである。

そして、最終的には、職場全体でできる限りのバックアップをその子に対してしてゆくという事になったのである。

現在の日本の社会において、こういった類いの問題はとても些細に処理されていると思う。そして、その些細な処理こそがこの社会を未曾有の閉塞状況に追い込んでいる。人々はテレビや映画や小説の中に巻き起こる人間物語には感動しつつ、現実においては冷酷無比である。

現実に働きかける創造力を失ってしまったこの日本において、こういった人情こそ最大の創造力なのではないだろうか。逆に、人情すらも現実から排除される社会はもはや人間の社会ではないと思う。

8月12日(金)

ちょっとしたきっかけから

友人の車に同乗する事になった。

首都高速湾岸線を爆走し

一路利根川を目指す。

深夜3時である。

爆走にも飽きてきた俺の意識は

遥か遠くの夢の中へ。

リアシートから伝わる路面の感触が心地良い。

窓の向こうは時速150kmの世界だ。

東京から約100km。

爆走の甲斐あって一時間足らずで到着。

すでに空が明るい。

早朝4時。

実り、そして、俺たちの血や肉になる。

稲が真っ白な花を咲かせていた。

バギー松木は利根川にさっそく糸を垂らす。

この直後ブラックバスを釣り上げた。

早朝4時半。

奴はこの時期

週末になると朝っぱらからこうして魚を釣っているのだ。

侮れない男だ。

俺も負けじとバギーから借りた竿で早朝フィッシュ。

奴の竿はすこぶる感度がいい。

魚を触れない俺は

都会に出てきた田舎娘のようにただ立ち尽くす。

もう、タジタジだ。

さあ!

次の俺の竿の餌食になるのはどいつだ!

釣りに飽きた俺は犬に興味を持ち始めた。

るーるーるー

いや、これは狐を呼ぶ時だった。

逆に犬に飽きられてしまったようだ。

世間の風ってやつは冷たい。

しかし

ここは一体どこなんだ!

どこを見ても米!米!米!

どこのどいつがこんなに米を食いやがるんだ!

そして、気が付くと俺は部屋のベットで全身を嫌な汗で湿らせながら飛び起きるのだ。まったく、嫌な夢だ。

8月12日(金)

道具ってやつは何でこんなにイイのだろうか。今日はルーターの替え刃やちょっと変わった種類のラジオペンチなど、5千円近くの道具を買ってしまった。ちなみに、ここ3・4年ほど洋服などは一切買っていない。同じ5千円を使うなら酒か道具に費やす。それが最近のモットーだ。

この愛すべき道具を使って愛すべき作品を産み出す。なんと素晴らしい事だろうか。幸せの境地というやつである。

さて、話は変わるが、昔、オタクと言われていた人々は自らの欲求を満たすため、おのれの知識や技術、そして創造力を総動員し、全くもって個人的な産物を生み出すクリエイターの事を言ったものだった。

俺が小学生だった頃、近所に住むオタクの大学生の家に遊びに行ったことがあるのだが、彼の部屋にはガラクタとも言うべき数々の創造物が陳列されていた。基盤剥き出しの自作のフルオーディオや、何に使うんだか分からないリレー式の照明装置、そして、最も感動すべきは、当時のパソコンで彼は隅田川の花火大会のシュミレートを試みていたのである。その一部を見せてもらい俺はクオリティの高さに唖然とした。誰に見せるわけでもなく彼は一人黙々と自分の欲求を満たすためそのプログラムを組んでいたのである。俺は将来、なんでもいい、何か、素晴らしい何かを産み出す人間になろうと志したきっかけである。

それに比べて今のオタクどもはどうだ。与えられたものを消費してゆくただのコレクターに成り果ててしまっている。その辺のDCブランドに目がないギャルやOLと一切変わりが無い。つまり、ただのパンピーに朽ち果てたのだ。

望みがあるなら自ら作れ。世に出ているようなもので満足するな。そして、まず、その第一歩に道具を持て。道具とはそういう人間の意識を反映する存在なのである。

8月13日(土)

今日はバギー松木氏とかねてから計画していたアキバショッピングに繰り出した。純粋な目的は作品に使う制御基盤の材料の購入だったのだが、それではせっかく今をときめくアキバへ行くには少々もったいないので、今、アキバで一番注目されているメイドカフェとやらへ踏みこむという希望溢れる計画も立てた。そして、それでもまだつまらないので、今、アキバのみならず全国的な普及をみせるレイヤー(コスチュームプレイヤー)とやらに私どもも挑戦してみることにした。もちろん、私どものコスプレはアキバ系コスプレである。

それでは今日一日の推移を見てもらおう。

阪急内にある巨大古着屋でコスプレ衣装を調達するため12時にバギー松木(以下バギー)と待ち合わせるも、すでにアキバ系コスプレで登場したバギーは丹念に私の今日のコスプレ衣装を選んでくれている。

ここまで真剣なバギーの姿は久しぶりである。否が応でも期待は募るばかりである。しかし、バギーの今日のコスプレはイカしている。

いよいよ衣装も決まりアキバへ出陣である。

しかし、バギーの面持ちはすでにアキバ系そのものである。あなどれない男である。

つづいて、バギーに新調していただいた私のコスプレである。アキバ系というよりは、普通に間違っちゃった人である。しかし、バギーが吟味に吟味を重ねた究極の衣装である。誇り貴きコスプレである。

アキバに到着。バギーは全く違和感なし。

つづいて私。画像では多少の違和感が感じられるものの、アキバにはなかなか濃いキャラクターが揃っているので、実際にはそれほど違和感は無い。

いよいよアキバのメインストリート、中央通りへと繰り出す。こう見ると、私もまんざらではない感じである。

メインストリートに出た途端、チェキっ娘会員ナンバー001番の下川みくにに遭遇!普通に可愛かった。まずはみくにたん萌え~☆である。

下川みくにを陰から盗み見ている私の姿がなかなかアキバ系になってきている。

つづいて、エロゲーショップへ潜入。

ここはなかなかの濃いアキバ系揃いだった。アキバ系の極意は独り言を極めなくてはならないという点がひじょうに大きい。私はまだまだである。

つづいて、本場のコスプレショップへ。電車男の流行とともにアキバ系コスプレグッズなども揃っていた。驚いた。

5・6人のフランス人の客がいたのだが、あれはなんだったのだろうか?

ひと時の安息である。アキバ系もなかなか楽ではない。

しかし、いよいよこの後、メイドカフェへ潜入である!勝って兜の尾を締めよ!かなり緊張している!

しかし、小便のキレは相変わらず悪い。

ここで、皆さまに謝らなくてはならないことがある。

5軒のメイドカフェを回ったが、最低でも一時間待ちという悪条件に加え、私たちが想像していた以上のアキバ系の巣窟であることが判明したため、今回のメイドカフェへの潜入は断念する事になった。写真すら撮れないほどのショックだったのだ。始めの挨拶に「お帰りなさいませ~」と言われたのにすでに混乱してしまった。あのポーカーフェイスのバギーさえ顔を硬直させていたほどだ。まったく情けない有り様だった。深く反省しお詫び申し上げる。

しかし、私たちは必ずリベンジする。乞うご期待。

さて、気を取り直して。

エロゲーショップでゲットしたポスターをご開帳。宇宙戦争モノなのにパイロットはメイド服でパンチラ。なんというミスマッチ。これぞ萌え~☆。

つぎはフィギアショップである。私が小学生の頃に大流行した聖闘士星矢のゴールドクロスが一体1万円以上の値で取引されている光景を目の当りにし、純粋に驚いた。ちにみに、私が小学校の頃所有していた天秤座のゴールドクロスは最高値の1万9千円であった。

私が聖闘士星矢に没頭している頃、すでにバギーは萌え萌えゾーンに突入していた。バギー萌え~☆中の貴重な画像である。

そんなバギーの姿に焦りを覚え、すかさず私も萌え~☆。

というわけで、今回のアキバ系コスプレ探訪を終える。

写真におさめたかった場所ではことごとくショックを受けてしまったため、今回はなかなか良いショットがなかったが、次回のリベンジの巻では必ずやアキバの真髄をゲットしてくる。

しかし、バギーはもはやアキバの中のアキバである。コスプレではないのでは?と少し疑ってしまう瞬間が何回かあった。

8月14日(日)

この夏休みは一人で過ごしている事が多い。

同じ歳頃の友人はみんな働いているし、かと言って、僕自身もシフト制の不規則な勤務でなかなか友人と時間を合わせられない。ならばと、暇そうな大学の友人を誘ってみようかと思うのだが、年齢の差に躊躇してしまう。そうこうしているうちに必然的に一人での行動が多くなるのだ。

しかし、このくそ暑い中、一人で街をフラフラしているのも悪くない。実を言うと僕は夏にしか外国に行った事が無い。しかし、その心地良い外国での感覚がこのくそ暑い中一人でアテも無く街を彷徨っていると甦ってくるのだ。

全く知らない地で全く知らない言語を喋る人々の渦の中に身を埋める時の独特な心地良さの中、僕は彼らの知らない言葉であれこれと考える。やがて、あまりにも無意味なその状況に気がつき、自分の存在の果てしない無闇さに驚愕するのだ。

しかし、そんな時、僕の前には必ず魅力的な女の子が登場する。

ポンピドゥーセンターで僕にライターを借りてきた女の子。セントラルパークでライターに火がつかない僕にマッチを貸してくれた女の子。マレ街でタバコをせがんできた女の子。ジローナの駅で煙草を吸いながら切符の買い方を教えてくれた女の子。どの女の子も魅力的でいて、とても優しくて、笑顔がキュートで、みんなタバコを吸っていた。

ただ、東京で一人で歩いていても、そんな女の子には絶対に出逢わない。

8月16日(火)

今日は業務の関係で突然休暇を頂いた。

予期せぬ休暇。嬉しいものである。

午前中は雨が降ったり止んだりしていたので外に出られず、仕方ないので、先日アキバで購入した材料を使い、フリップフロップ回路を用いた制御基盤を作っていたのだが、1ビットの制御基盤ではいまいち制御感に欠ける事が判明。もう少しお利口にならなくては駄目である。

つづいて、お昼。バジルのスパゲティーが食べたくなり、庭のバジルを摘みに出るも、突然の大雨によりびしょ濡れになる。濡れた衣服を全て脱ぎ去り、パスタを茹でていると、今度は地震が発生。TVニュースで「すぐに火の元を止めるように」とアナウンスをしているが躊躇う。そうこうしているうちに地震沈静。

いいともを見終え、お腹を膨らましてゴロゴロしていると雨が上がる。これはチャンスと思い、すぐに原美術館のオープンテラスにお茶をしに向かう。企画展はやなぎみわの「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」展をやっていた。題名は長いものの、なかなか興味深い作品が展示されていた。中でも「砂女」はなかなか良かった(下写真参照)。

とまあ、なかなか休暇らしい休暇を過ごしたのである。

実は映画も観に行きたかったのだが「妖怪大戦争」か「亡国のイージス」か迷っていたら両方とも上映時間が過ぎてしまったので断念した。

8月17日(水)

スターウォーズ。

心の琴線に触れるほどの映画ではないと個人的には思うのだが、巷では大人気を博している。

ただ、スターウォーズ3ジェダイの復讐(昔で言うところの)に出てきた惑星エンドアの先住生物イウォークにはビシビシと琴線を震わせている。溺愛といってもいいかもしれない。

溺愛しているので大きめの写真を載せてみた。

俺は犬は嫌いだがシーズー犬だけは溺愛している。たぶん、その深層心理にこのイウォークが関わっている事は間違いないと思う。

8月18日(木)

最近、7月29日(金)の日記に書いたバーに、週2回ぐらいで通っている。この日記以外では誰にも言っていないのでビックリする人もいるかもしれないが、あなた達と飲みに行くぶんを、このバーで一人で飲む事に費やしているのだ。

まあ、地元から離れた事で、地元からの飲みの誘いが減ったということもあるのだが、実は、地元の人間と飲みに行っても近頃あまり要領を得ない。その結果、必然的に飲みたい時は一人で飲みに行くという習慣が身についてしまったのだ。

ただ、僕のように飲みに行くということが別段大した意味を持たないと言う事には、皆様も薄々感じていると思う。

25歳にもなると飲みに行く事が日常なのだよ、大学の皆様。そして、25歳にもなるとそんな事にもさすがに飽きてくるのだよ、地元の皆様。対処療法の何ものでもない。

つまり、誰かと酒を飲むって事に、悲しいことなのか、嬉しいことなのか、今の僕自身が特別な価値が見出せないのだ。

だから、一人で飲みに行く。

サーファーあがりのオーナーと、海に憧れたギャル(なかなか萌え☆)が切り盛りするバーへ、場違いな俺は、テクノカットで一人で飲みに行く。しかも、毎日深夜0時過ぎに。客は俺一人。オーナーとギャルの鋭い視線を感じながら、俺はいつも一時間弱そのバーで飲んで帰って来る。

しかし、これがいいのだよ。何もできない25歳にとっては、これがいいのだ。

反対の賛成なのだよ。解るかな?解らない奴は、誰かと飲みに行くか、一人で眠ってくれ。

実は、今日は友人の結婚記念パーティーだったのだ。

8月19日(金)

会社の人がスキミング被害に遭った。

昼休み、煙草をくゆらせながら、のんびり世間話をしているまさにその時、カード会社から電話が入ったのだ。つい先ほどイギリスでの利用があったのだが、今は日本にいますよね?といったものだったらしいが、スキミングといえばTVの向こうの世界でのお話である。まさか、こんな身近で起こるなどとは誰もが予想だにしていなかった。携帯電話同様、カードを持ってない人のほうが珍しい昨今。喫煙所にいた人々全てが凍りついた。

たしか、昨晩、俺は1万円を銀行からおろしたのだが、今朝財布を開けてみると500円しか入っていなかった。何に遣ったかサッパリ心当たりが無い。もしかして、俺もスキミングされているのか!!!?

8月20日(土)

以前、山田洋二監督に会った時、彼はこう言っていた。「日本人はどんなに些細な事であっても、そこに感応できる能力のを持つ人々だった。それは人々が皆自分の些細な存在を自覚していたからだ」と。しかし、それは明らかに過去に対する物言いであった。

今日、私は小栗康平監督の「埋もれ木」という映画を観に行ってきた。

小栗監督の前作は「眠る男」という映画で、あれはまだ私が高校生だった頃、小栗監督の「部分と全体」という文章が高校の教科書に載っていたのでよく憶えている。木を見て森を見ずといった現代的な人々の視点や考え方の傾向を、映画の撮影技法を例にとって解明すると同時に、森を見渡す素晴らしさやその視点の新たなる可能性を示唆してゆく、ささやかながらも鋭い文章だったと記憶している。

しかし、その文章に感銘を受けて当時の私は「眠る男」を観に行ったのだが、何ひとつとして映画の意味を読み取る事ができなかった。むしろ、退屈だったことを憶えている。そして、私は当時隆盛を馳せた第二次サブカルチャーブームの渦中へと埋没してゆくことになる。

あれから8年、因果な事に私は小栗監督が教鞭を持っていた大学へと24歳にして入学し、表現者という道へと歩みだす。サブカルチャー的な表現やスタイルに憧れて。そして、2年目、私は大きな挫折を味わうのだった。案の定と言ってよいのかもしれない。

しかし、その苦節の2年目に私は山田洋二監督という素晴らしい巨匠と巡り逢う事になる。そして、彼の言葉に促され、ある意味では自分を試すために今回小栗康平監督の「埋もれ木」を観に行ったのだった。

そして、私は8年ぶりに小栗監督の作品に感動した。今度は彼の本業である監督作品に心動かされたのである。物語の構成は「眠る男」よりもさらに些細な構成になっているように思えたが、その些細な物語の共鳴が私の心の中を大きく揺るがしたのだ。私たちはとても些細な存在であるにも関わらず、それを忘れ、自らの現実とはかけ離れたドラマティックで象徴的な物語にしか心が動かなくなってしまった。しかし、この映画はそういったささやかで些細な私たちの存在をまた新たに気が付かせてくれる素晴らしい映画である。

たぶん、この映画は私自身の生涯を通して特別な意味を持つものになると思う。そして、25年という生涯を通してもこの映画は最高の映画である。この映画はヤバイ。

だから、皆も観に行け!26日までだけどね。

8月21日(日)

皆様はレイザーラモン住谷という芸人を知っているだろうか?

私は今日初めて知った。

なんだか、ハードゲイらしい。なんだか、凄いな。

しかし、ちょっと憧れるのはなぜだろうか?

8月22日(月)

そろそろ夏休みも終えようとしているが、私も学生の身、夏休みの宿題というものがしっかり2つ出されている。

1つは美術館に10館以上行き、それぞれの美術館のレポートを書くというもので、なかなかボリュームのある宿題ではあるが、美術大学としては妥当であり、やりがいあるものである。

もう1つは、何かしらの事柄を成し遂げた人にインタビューをし、そのインタビューについてレポートするというものである。インタビュー対象は親類や友人以外の年輩の人に限るということで、なかなか厳しい。実務・教養・社交性といった能力までが要求されるハイレベルな宿題である。

とまあ、全てまだ手付かずのものばかりである。

しかし、私はやってしまうのである。自分の能力が末恐ろしいのである。

8月23日(火)

たいしたアクセスも無い個人のホームページで2年も3年も続いているページを僕は見た事がない。友人からホームページを作ったと教えてもらっても、せいぜい半年持てばいい方である。結局、出せるネタにつきてしまうか、飽きてしまうかして、そのまま放置プレイになるのだ。

つまり、このホームページのような全く個人的なページでこれほど長く、かつ、系統的な更新を続けているページは、ありそうで無い。

俺は凄い。

8月27日(土)

夏休みはあと一週間。私は国分寺での生活に戻らなくてはならない。気が重い。何も無い部屋で、誰も知らない町で、人知れず私はひっそり暮すのだ。一日を缶ビール一本のために費やす日々。誰とも言葉を交わさず送る日々。孤独と狂気が蔓延る日々へ私はまた舞い戻る。

嗚呼。  どなたか私を助けてください。

8月28日(日)

バイクが壊れてしまった。

もう5年ほど乗り回し、4万キロほど走っているバイクなので仕方ないと言えば仕方ないのだが、新しいバイクを買うには安く見積もっても20万円はかかるだろう。

そんな金はどこにもない。

だったら、また近い内に壊れるかもしれない今のバイクを直しておいたほうが良いのかもしれないが、同じバイクに5年も乗っているとさすがに愛着というよりは、嫌気の方が出てくるものだ。しかも、今のバイクはスクーター。乗っていても別段面白い事など何も無い。ただし、スクーターはすこぶる便利なのだ。

だから、できればもう一台ぐらい安くて、ちっこくて、スペペペペペっと走る面白いバイクが欲しいところなのだが、そんな金もどこにも無い。

夏休みが終わると思ったら、嫌な事ばかりが起こりやがる。

む~ん!

8月28日(日)

遅ればせながら、石井克人監督の「茶の味」という映画を見た。

以前も書いたと思うが、私の通う大学で小栗康平監督のゼミに参加した事をきっかけに映像の道を志す事になった監督である。

過去の作品は「PARTY7」や「鮫肌男と桃尻女」といった超駄作ばかりの監督ではあるが、この「茶の味」ではなかなかイイセンを出していると思う。奇抜さでカバーしている部分を構成力につなげる事ができればもっと飛躍するだろう。ようやく小栗監督からの良い影響が垣間見えてきたといったところだ。しかし、この段階でカンヌに招待されたというのも頷ける良い映画である事は確かだ。

なんて、ひよっこが評論家のような事を言ってしまった。

しかし、小栗監督も石井監督も浅野忠信の使い方が上手い。その辺のフツーのアニキ的使い方。これは最も浅野忠信の持ち味を引き出す使い方だと思う。そして、浅野忠信をそのように使うことができる両監督の着眼点こそが「埋もれ木」や「茶の味」の物語の主流をなす、人間同士の温かくも些細な関係性を魅力的に作り出している大きな要素だと思う。

なんて、また、ひよっこが評論家のような事を言ってしまった。

とにかく、この師弟作品は皆さんも一度は観ておいた方が賢明だ。初心者は「茶の味」の方が入りやすいと思う。

8月29日(月)

先日、バギー松木と茨城へ釣りに行った。この日記でも紹介したので皆さんも知っているだろう。写真にも広大な田園風景が写されているが、実は、私はあれほど広大な田園風景を直に見たのは生まれて初めての体験であった。

ただ、そんな田園風景に似合わず、地元の若い子達は東京で見るようなギャルやギャルオ、ビームスやシップスを巧みに使いこなすなお洒落ガールやボーイのような、いわゆる今どきの若い子的な姿ばかりで、あまりにも不釣合いなのでたまたま目立ったのか、実際にそういう装身具に凝る地域性なのか、そういった若者たちの姿が東京以上によく目立つように感じた。私のようにほっかむりをしている若い人などどこにもいなかった。どっちにしろ、都会育ちの私のイメージからするとあの田園風景にはかなりの違和感であった。あと、ヤンキーもちらほらいたね。

私の偏見であるのかもしれないが、関東及び関東近辺の米どころ地域には一種独特の米どころカルチャーが存在するように思えてならない。どんなゴスロリガールにも、どんなビームスボーイにも、いくら外見をうまく取り繕っていてもヤンキーの陰が見え隠れすると言えばいいのだろうか。ちょっと上手い言葉が思いつかないが、何か決定的なものが致命的に退廃しているのだ。

首都圏近郊と言う事もあって、都会に対する憧れがあまりにも華美になりすぎている事によるある種の勘違いがあると思う。例えば、都内のファッションデザイン系学校の学生の出身地別の統計を取ってもらえれば解ると思うが、その主たる出身地は米どころがトップである。間違いない。明らかに彼らの都会認識は何かが間違っているのだ。

まあ、そんな事もあって、減反政策を取っている傍らで米の自給自足に四苦八苦している現在の米政策の皺寄せがこんな所にも現れているのでは?と、かなり広い視野で現在の米カルチャーに危惧している最近の私である。

しかし、米どころカルチャーの突拍子もない感じには、何か期待する部分がある。

昨日紹介した「茶の味」、そして、以前紹介した「下妻物語」、そして、かなり以前に紹介した「リリィシュシュのすべて」、いずれも都市近郊の米どころを舞台にした映画である。この三本の作品を私は米どころカルチャー映画とカテゴライズしたい。必見だ。

いずれも、米どころカルチャーを鋭く露にしている映画である。

8月30日(火)

今日、上杉和也が死んだ。夏休み恒例アニメ「タッチ」の話である。毎年、なぜだか和也が死んで終わるローテーションになっている。しかし、ちょっと酷いかもしれないが、「タッチ」は和也が死んでからが面白い。

「タッチ」の単行本にしてみても、10巻そこそこで和也は死んでしまう。しかし、物語は26巻まで続くのである。つまり、和也の死はほんの序の口にすぎないのである。

しかし、毎年、和也が死んで、夏休みも終わる。

あんまりにもあんまりすぎる話である。南ちゃんも報われない。

8月31日(水)

午前中に直したバイクで桜田通りをぶっ飛ばす。

バッテリーがイカレてたうえに、5年間使っていなかったキックで無理やり動かそうとしたって、そりゃあ言うことなんか聞いてくれない。俺が馬鹿だった。新品のバッテリーをぶち込んで、5年間油まみれになったヘッドを綺麗に磨き上げ、そっとセルを回すと、ようやく彼女は動いてくれた。

5年間、ほったからしていた罪滅ぼしに、桜田通りをぶっ飛ばす。エンジンはすこぶる快調。ライトだって、これでもかってほど輝いてた。気まぐれな俺の愛情に、彼女も喜んでくれているようだ。

しかし、俺の放尿リミットは、もっても10分。限界だ。いつも俺の生理現象は間が悪いぜ。俺の知っている一番近い便所へは早くて15分。こりゃあ参った。俺はいつも危ない橋を渡ってばかりだ。

俺の焦りのスロットルを彼女は自分への愛情だと勘違いしているようだ。2サイクルの特有の高いエンジン音がオルガズムの悲鳴のように街中に響き渡る。俺もこのまま放尿ランってのも悪くはない。このまま尿をぶちまけて愛車と共に快感の中、桜田門へ突っ込む。夢のようだぜ。

これぞ、愛と平和の奇跡的テロリズム。ハニー、どうかな?