2005年 12月
12月17日(土)

ちょっと時間が空いてしまった。師走だけに立て込んだ事情が色々とあって、なかなか更新が侭ならなかった。大変申し訳なく思う。

さて、本日、今期最後の授業を無事に終了し、早々実家へ帰省した。これから一ヶ月ほどの長い冬休みである。冬休みが明ければチョチョイと試験をパスして、今度は更に長い春休みへと突入する。大学生とはなんとも気楽な商売である。まあ、商売では無いから気楽なのだが、それにしても気楽過ぎる。

まあ、そんなわけで、これから約一ヶ月の期間は従来通りのコンスタントな更新を提供できると思うので、夕飯のお供ぐらいにして頂けたら幸いである。

しかし、国分寺から1時間半のバイク旅だったが、そろそろ身体のほうがバイクに追いつかなくなりつつある昨今である。なので、寝る。

12月18日(日)

大学での生活も既に2年が経とうとしている。私はこの2年間、デザイン論やらコマーシャル論などといった、いわゆる美大的ミーハー授業は積極的にパスし、語学と人文学系の講義を傾倒的に集中して受講してきた。おかげで、マニアックとまではいかないが、ある程度の知識や論理は身についたように感じている。

その上で言えることだが、ようやく私はこの世界を覆うある種の包括的相乗的な構造体系とでもいうべきか、とにかく、弁証法的に揺蕩う世界の鼓動をおぼろげながら見いだす事が出来るようになってきた。

そして、そんな私は、この世界が未だ踏み込んだことの無い、いや、実際には踏み込もうと努力しているのだが、対象化が困難なだけになかなか研究が進まない分野への核心に触れるべく、世界最高にして最大の命題をここに打ち立てる。

駄洒落進化論である。

今まで科学がメスを入れてきたのは自然や社会に留まっているが、未だにメスが入っていない領域がある。そう、何を隠そう私たち人間の精神構造である。そこで、私はある奇妙な人間の現象に注目したのである。それが駄洒落である。最小にして最大の人間的想像基盤である言語的関連付け行動を解明することで、私たちは私たちの核心に触れる事になるだろう。

言語的には音の関連付けに留まっているが、おそらく、私たちはその関連付けにより、あらゆるものを想像し、学び、誤解している。つまり、私たちはあらゆる比喩の中で生きているのだ。間違いない!

私はここで科学の精神世界への入門。つまり、第3次唯物論革命の始まりを示唆しようではないか!

12月19日(月)

リリー・フランキー

「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」 扶桑社、 2005年

70万部を超えるベストセラーだそうだ。リリー・フランキー。最早、超売れっ子作家である。

70万部も売れていると、否が応でも巷での噂をちらほら耳にする。「超泣けたよ~」とか、「凄い温かい気持ちになったよ~」とか。そして、私はその巷の噂にどんどん反発してゆく。

「小説は泣くためにあるんじゃねえ!そんな甘っちょろいもんじゃねえ!」

そして、私は意識的に「東京タワー」を避けるようになってゆく。

いや、ちょっと待て!まさか!?そんな?とどのつまり、俺は、リリーフランキー、あんたに嫉妬しているのか?

わ~!

今日、ブックオフにあったら買ってしまおう。それならベストセールスに貢献しなくて済む。いや、誰か貸してくれる人はいないだろうか?それなら俺に責任は無い。

そして、読んでも絶対に泣かない!泣いてたまるか!泣かないんだ!

12月19日(月)

大学には女子が多い。そして、職場には女性が多い。よくよく考えると、未だかつてないほどに、私は恵まれた境遇に身を置いているではないか!しまった!

しかし、歴史に「もしも」が無いように、人生にも「もしも」は存在しない。

「しまった」と思ってしまえば、一人暮らしを始めた事も「しまった」だし、大学へ入ったことも「しまった」だし、会社を辞めた事だって「しまった」だし、突き詰めてゆくと、生きている事、それ自体が既に「しまった」なのだ。そして、我々は「もしも」を持ち出し、自分の合理化を図る。

「もしも」に逃げるな!

なんてね。

そんな事はその辺の安っぽい自己啓発本をめくればいくらでも書いてある下らん理論である。「あんな事やこんな事が、あんな風やこんな風になったらな~」なんて、くよくよもじもじ考える人間が私は大好きだし、私自身、専らの後悔派である。しかし、私はそんな愛すべき後悔派の背中をポンと叩き、こう声を掛けてやる。

「んなもん大丈夫だよ!」

なぜなら、それは「もしも」の事なんだから。  「がっはははっ!」

池中!

12月20日(火)

頭が臭い。風呂に入っていないという訳ではないのだ。むしろ、人よりも念入りに洗うようにしている程だ。もし、私が私の彼女ならば、こんな頭の臭い男には抱かれたくないと思ってしまう程に臭い。

たしか、頭が臭くなり始めたのは20歳を過ぎた辺りからだと思う。気が付いたら臭くなっていた。ユニセックスだった高校生の頃は、頭の匂いが女の子みたいだと、周囲の男衆から積極的に匂いを嗅がれるほどだった。しかし、ある日、友人に頭の匂いを嗅がれた時にこう言われたのだ。

「くさっっ!お前、風呂入っていないだろ!」

仕方なしに、私はその指摘に頷いた。しかし、それは風呂に入った直後の出来事だったのだ。戸惑った。それは何の予告も無しに、突然、私の身に降りかかって来たのである。それ以来、私の頭は臭くなった。シャンプーを変えたり、トリートメントをしてみたり、整髪料をつけてみたり、いろいろ足掻いたりもしたが、それでも頭は何事もなく、臭かった。そして、今でも当然のように臭い。

しかし、やがて私は頭の臭いの事など気にしなくなった。なぜなら、私の毛髪が日々後退している事を知ったからである。臭覚的な問題より視覚的問題の方がより重大である。ようやく、私はかねてから憧れていたバーコードヘアーに歩みを進める年齢になって来たのである。つまり、いかなる負の要素も、それを超える正の要素を携えれば、大逆転も夢ではないという事だ。

私の場合、頭の臭さを超える正の要素として、絶大なる魅力を有するバーコードヘアーの出現であっただけの話なのである。

人生にはあらゆる挫折が付いてまわるが、それを脱却する新たな発見も無数に存在する。人生はだから楽しいのである。

12月20日(火)

舞台や河川や身分に裃の概念があるように、人間の興味のツボにも裃は存在する。

ちにみに、皆さんご承知の通り、私の興味のツボは専ら「下」に傾倒している。上派がどんなものかは知らないが、「下」と言えば、つまりは排泄の現象・事象の事である。そして、そんな下派である私の今現在においての最高の興味は、海での排便である。

海での排尿は皆さんも少なからず経験のことだとは思う。しかし、それはまだ一般的なことだ。放尿に関してエキスパートを自負している私にとって温泉や銭湯やプールでの放尿は当たり前。気前の良い時は頭を洗っている知り合いの背中に放尿したりもする。「水がある所、放尿あり」が私のモットーである。それ以外にも「気分が良い時は即放尿」「気分が悪い時も即放尿」なんかが私の三大放尿モットーである。

ちなみに、生涯で一番の気前の良かった放尿は、独立記念日の夜にボストンの街中を放尿しながら走った事である。放尿100メートルダッシュ!

ただ、最近は放尿だけでは飽き足らず、排便のほうに興味が移りつつあるのだ。そこで排便初心者の私が考えついたのが海での排便である。おそらく、海での放尿がイージーであるように、海での排便も排便界ではイージーな位置付けにあるだろうと。つまり、排便入門編としてはもってこいのロケーションなのではないかという事だ。

そして、おそらく私は来年の春までに、この排便界への入門を果たす気がする。来春に控える「伝説の海発見ツアー」において、伝説の海を発見した暁には、伝説の排便を果たしてこようと思っているからである。

物体が身体から放出される快感☆胸は高鳴るばかりである。

まあ、この趣味は他人に迷惑がかからないよう節度を持って行なっているので、心配なさらずに。

ちなみに、先日まで行なっていた学校でのグループ制作で「俺はビー球をケツの中に入れてた!」という経験を持った人に出会ったが、同じ下派でも色々な人がいるんだな~と感心させられた。

ビー球を尻から入れるのか。。。なんか、ちょっと違う。

12月21日(水)

引き続きちょっと「下」のお話。

昨晩、「ビー球をケツの中に入れていた」という、非常に稀有な経験を持つ人物を紹介したが、彼はその告白をある種のノスタルジーの共有として皆の前で暴露した。

つまり、スーパーマリオの最初のクリボウでいきなり死んでしまったり、イーアルカンフーの4面で現れる女の敵にちょっと気を遣って闘って負けてしまったり、魔界村でどん底の全裸クリアを決めたり、スパルタンXでミスターXに下蹴りの応酬で勝利したり、そんな、僕らの世代なら誰もが通ってきたようなごく普通の出来事を語るように、彼はビー球の事を語ったのである。

しかし、彼の通過儀礼は他人とは少々違っていた。なぜなら、そこに居合わせた誰もが、ビー球をケツに入れた事が無かったからだ。もちろんこの私もだ。

しかし、ちょっとビー球を自分のお尻の穴に詰め込む作業を想像してほしい。そんな事、想像もしたくない!という人も、一瞬だけでいいから思い浮かべて欲しい。じゃあ、はいっ!

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ほら!なんだか、ちょっとノスタルジックではないか!?

想像して欲しい。その作業はごく具体的であるにも関わらず、とても抽象化された郷愁を私たちに換気するではないか!時間的な過去でもなく歴史的な過去でもない、益してやこのイメージから未来を感じる事など不可能であろう。それはピンポイントにまだ幼かった「あの頃」に私たちを帰巣させる。つまり、これは永遠の普遍的なノスタルジーのモチーフなのである。そして、その事を語った彼も、実はそういう文脈で何かを訴えかけたかったのではないか?という事である。

つまり、私たちは完全な誤解をしていたのだ。

すまぬ。至らぬ私たちを許して欲しい。

とまあ、そんな事を、昼下がりの会社のトイレで、ウォシュレットを使用しながら何気なく考えていた真平である。

ビー球か~。

12月24日(土)

昨日は高校の頃所属していたドイツ・ジャズ部のメンバーと忘年会をしてきた。サーヤや姉歯の話から、結局、大便を漏らすのと小便を漏らすのはどっちがどうのとかいう話になって、カラオケに行こうとしたのだがどこも空いてなくて、その腹いせに駅に停車している電車に放尿していたら、いつの間にか皆バラバラになってしまった。

まあ、しかし、こんな風に、ある時期になると、なんだか集まってしまう仲間がいて、集まったかと思えばドラゴンボールのように四方八方に散ってゆくってのも、なんか、いいじゃないか。

ちなみに、昨日はちょっと放尿をサービスしすぎた感がある。反省だ。

12月25日(日)

昨晩、この大都会東京でどれだけのSEXが行なわれていたかなんて、そんな命題は立てるだけ野暮ってもんだ。それこそ聖なる夜に妬っかむ負け犬の虚しい鼠算である。だからと言って、我が神道仏教国家に異国異教の文化は否であるというような、プチナショナリストな事が言いたいわけでもない。

しかし、告白しよう。私は昨晩の、あの貴重な体験をするまでは、まさしく上記した以上に嫉妬や憎悪で溢れかえるアホったれであったのだ。恥ずかしいことだが事実である。昨晩、あのモツ鍋を喰らうまでは。

昨晩、私は職場の「2005年、モツかれさま!忘年会」に参加した。しかし、ご存知の方もいるかと思うが、私は全く肉が食べられないのである。特にモツなどはもってのほかである。しかし、私もあと数日で26歳になる身である。大人と呼ばれるに何の疑問も無い年齢に達する男がモツなど食えなくてどうする!という事で、ある意味では積極的に、またある意味では消極的に、この忘年会にエントリーしたのである。

だが、そこで、私は経験する事になるのである。この国家の成り立ちを。

12月29日(水)

彼方が1時間850円で雇われているとしよう。

しかし、彼方のごく親しい友人が時給1170円で雇われているとしたら彼方はどう考えるだろうか?おそらく彼方は何かしらの合理化を図り、その上で、経済的な言及をその友人には避けるのではなかろうか?いや、まあ、アルバイトという立場であるならそこまで深くは考えないかもしれない。なぜなら彼方は経済的な理由だけで働いているわけではないし、生きるに当たって他にも色々なと思っているからだ。

時給で言うと簡単な話であるが、残念ながら我々は学生を終え社会に出ると否が応でもこういったか不甲斐なく、分かりやすい世界に身を置くことになる。むしろ、時給で働いていた事が懐かしくなるまでに際どい社会に身を置くのだ。

しかし、そんな事で自分を合理化する必要はない。むしろ、そうする事によって、おかしいはずであるその社会や人々に無理やり自分を合わせる事になるのだ。おかしいと思っている事に自分を合わせる必要はない。自己中心的な合理化は、それが故に負の渦に思い掛けない数の人々を巻き込むことになるだろう。

例え賛同者がいなくても、おかしい事はおかしいのだ。そろそろ、負のデフレスパイラルは取り除こうではないか。やろうと思えばできるのだから。

まあ、できないから皆苦労しているのだがな。

次回はモツ鍋の続きである。

ちなみに今日は私の誕生日である。うっしっし☆

12月31日(土)

年末はその無礼講性から一年で最も私の認識が広がる時期である。

特に今回の年末で最も広がった認識として、私はこの事項をトップに掲げざるを得ないだろう。それは私の唯一の酒癖である「放尿」を新たなるレヴェルへと昇華する素晴らしい発見である。尿の概念的異化とでも言うべきだろうか。

以前、私の趣味で、大腸内に溜まったガスに炎を放つという、かなり高等な趣向を紹介したことがあると思うが(2004年7/24日記参照の事)、今回の認識の広がりは、この神々しい炎と神秘のガスによるイリュージョンを超えたといっても過言ではない。

ただ、この新たなる挑戦はその素晴らしさが故に肉体的に相当な鍛錬を要する事は必至である。しかし、この新たなる尿のイリュージョンが完成した時、人類は私の事をレインボーマンと崇め奉るだろう。

2006年、私は己の体内より虹を創造する初めての人類となる。神をも超えるこの偉業は世界に大きな波紋を呼ぶ事になるかもしれない。しかし、この偉業が世界を敵に回すことになろうとも、私は何も恐れない。真のアーティストとは常に孤独なものなのだ。

私を愛する全ての人々に虹を捧げよう。