2005年 11月
11月2日 (水)

ようやく学園祭が終了した。長いようで短かったが、なかなか内容の濃い一週間だったように思う。一言で感想を言えば「青春したな~」という感じである。

「忘れていた青春を思い出させてくれてありがとう!」
                 マチコ屋一同へ

さて、我が校の学園祭は終了したが、今週末にかけて学園祭が行なわれる学校も少なくないようである。それ以外にも、今週末には種々様々な文化イベントが各地で開催されるようである。

中でもけっこう大規模なもので、青山・渋谷・原宿・恵比寿・代官山・六本木・麻布周辺で行なわれる「デザイナーズウィーク」と「デザインタイド」というイベントは既に今日あたりから始まっていて、まあ、私も大学のデザイン科に所属している身であるから、勉強のために早速それらのイベントに顔を出してみたのだが、なんとゆうか、率直に言って、面白くなかった。

ひとつひとつを見てみれば、なかなか興味深いものもあるのだが、ただそれだけなのである。「カワイイー」とか「カッコイイー」で終わってしまうようなものばかりなのである。しかも、そのひとつひとつがてんでバラバラで、勝手気ままに自己主張しているだけなのだ。しかも、外国人デザイナーがよく目立つ。東京で開催している意味がぜんぜん無い。

全体的にデザインするにあたってのモチベーションやコンセプトがひじょうに狭いのだと思う。いや、狭い事が悪い事では無いのだが、その狭さの中で全てが完了してしまっているのが、おそらくこの恐ろしい程の無力感を生み出しているように思う。パワーもインスピレーションも何も無いデザインはもはやデザインではない。そして、恐らく、今の日本のデザインはそういった現状に陥っているのだろう。

まあ、一介の美術学生が言っていることだから、あまり気にしないでほしい。しかし、一介の美術学生がそう思ってしまうほどに現状は情けない。

11月4日 (金)

伝説の海を探すため、私たちはこの冬、旅に出る。出発はベトナム・ハノイ。この旅の出発地点として最も相応しい歴史的革命都市である。内なる海でも、外なる海でも構わない。伝説に満ち溢れた海を目指すのだ。その目的は史跡でも文化でも人でもない、況してや買い物でなどある筈が無い。存在するかも解らない伝説の海を探しに行く。ただそれだけである。

おそらく、旅っていうのは、その一歩一歩は恐ろしく地味であるかもしれないが、その一歩一歩がとてつもない浪漫に満ち溢れていた筈なのだ。だから私たちはこの冬、冒険の旅に出る。そろそろそういう一歩を踏み出していかなくてはならない時期なのだ。

11月12日 (土)

被写体に承諾済みで、こういう写真が取れるから、俺はこの街が好きなんだ。品川。如何せん、デジカメだけに甘々な像ではあるが、そこが惜しい。こういう現場に出くわすから生きている事が楽しいのに。その像はおぼろげである。

11月13日 (日)

酔っ払いの大いなる勘違い(Great Misunderstanding)はなかなかのもので、昨日の日記を見ると良く解る。まあ、別に大した写真ではないが、なんだか感動している。これぞ、ただの酔っ払いである。困ったものである。原付の女の子の写真について言えば、これはもうちょっと上手くすればなかなかの一品になったかもしれないが、酔っ払いにはそんな写真は撮れない。ブレブレが関の山であるし、そして、実際、ブレブレなのである。けっこうカワイイ女の子だったのに。。

11月14日 (月)

朝、目を覚ます。寝際に読んでいたスコット・フィッツジェラルドの単行本が枕の横に無残な姿で転がっている。外は曇っているようだ。

ベットに腰掛けて、起きたばかりの頭の中を整理する。今日は月曜日。家には誰もいない。昨日から皆で京都に行ってしまっている。財布の中身は2千円ちょっと。明日の給料日までの全財産だ。大学の新しいグループ課題のオリエンテーションが午後からある。時計を見る。もう間に合わない。目の前にうさぎがいる。まだ毛がふさふさとしている薄いグレーの子うさぎ。とても可愛い。はて?いつのまにうさぎなんて飼っていたんだろうか。まったく気が付かなかった。

子うさぎは鼻をもにょもにょと動かしながらおそるおそるこちらにやってくる。手を鼻先に差し出すと、ざらついた舌で舐め返してくる。こいつは腹が減っているんだ。そう言えば俺も腹が減っている。朝食は何を食べようか。冷蔵庫には何か残っていただろうか。子うさぎをそのままに、台所に何か食べられそうなものを探しに行く。

昔、小学校の頃、飼育委員をやっていた。その時、可愛がっていた子うさぎも薄いグレーの子うさぎだった。名前はアドルフと名付けた。皆は親しみを込めてアドと呼んでいたが、僕はフルネームでアドルフと呼んでいた。アドルフ・ヒトラーから貰った曰くつきの名だ。しかし、アドルフは死んだ。その呪われた名前が災いしたのか、名付け親に殺された。

飼育当番になっていたある日、あまりにも愛くるしいその姿に僕はある種の逆上を覚えたのだ。そして、奥行きが広がり始めた秋の青空に向かって力いっぱいアドルフを放り投げた。今でもはっきりと想い出せる。あの時の光景は本当に美しかった。アドルフは耳を翼のように広げて秋の空を悠々と飛んでいたのだ。これで良かったと納得するほどに美しい秋の光景だった。何もかもを解放したような清々しい美しさだった。

しかし、つぎの瞬間、アドルフは固い校庭の砂利の上に叩きつけられていた。そして、アドルフは同じ飼育委員をやっていた獣医の家に連れて行かれ、そのまま帰ってこなかった。友人からも飼育委員の担当教諭からも、アドルフがどうなったか知らされる事は無かった。

小学校を卒業してから、ようやく、ある友人から、アドルフはあの日すぐに安楽死をさせられたのだと聞いた。回復の見込みが全く立たなかったのだそうだ。皆は気を遣って、その事は僕には黙っておこうと決めたらしい。

冷蔵庫にニンジンがあった。子うさぎでも食べやすいようにそれをスティック状に切り分けて部屋に運ぶ。たしか、アドルフもニンジンが好きだった。いつも給食で余ったニンジンをモグモグ食べていた。他の子うさぎたちはキャベツやレタスも食べるのに、アドルフだけはニンジンだけを一心不乱にモグモグと食べていた。

部屋に戻ると、もう子うさぎはいなかった。いくら探しても、どこにもその姿は無かった。そして、僕はその切り分けたニンジンをベットの上で一人でモグモグと食べる。

11月14日 (月)

先週の土曜日、職場の方々とZガンダムの劇場版第2作目を観るために、池袋に行ってきた。午前中は英語の授業でドリトル先生が月へ行く話を読み、お昼はアパートに帰り残り物で簡単な昼食を作って食べた。疎かになっていた部屋の掃除を適当に済ませ、恋ヶ窪の駅から西武線を乗り継いで池袋に向かう。土曜の昼下がりのなんとも和やかな私鉄でのぶらり移動である。

池袋には思い出がある。23歳にして美術の予備校に通い始めた苦い思い出と、その動機へと私を駆り立てた職場への通勤の辛い思い出である。別に、今想うと取り立てて苦くも辛くも無い感じもするのだが、当時の僕にとってはなかなかのものであったように感じる。ここに収録された4年近くに及ぶ日記を参照していただければ、もしかしたらその推移というものが解っていただけるかもしれないが、少々長過ぎるし、そういう部分を読み解くにはなかなか不親切であるので、まあ、奇特な方がいらっしゃったらどうぞ。

まあ、そんなこんなで3時前に池袋に到着した。待ち合わせは4時半だったので、早速、ジュンク堂へ向かう。池袋の唯一の良い所はジュンク堂がある事だ。1時間ほどジュンク堂で時間を潰し、先月の美術手帳を買った。それから、ペン軸が欲しかったのでパルコ内にある世界堂へ向かう。そこで、僕は以前働いていた模型屋の同僚にバッタリ会ったのだった。

あの会社にいたのはもう2年以上も前の話である。大学に入ってからはごく親しかった人以外とはろくに連絡も取っていなかったし、携帯も持っていないような魅力的で特殊な方々ばかりだったので、連絡の取りようも無かったのだが、僕はそこで色々な事実を耳にする事になった。それはある意味では衝撃的だったし、ある意味では時間の流れを感じるものであったし、哀しむべきものでもあった。希望や幸福に溢れた話題は何ひとつとしてなかった。もう、あの時の時間は戻ってこないのだと言う切々とした哀しみが僕を包み込む。

そして、僕は昔の同僚に別れを告げ、今の職場の同僚のもとへと歩みを進める。待ち合わせには5分ほど遅れてしまった。そして、Zガンダムを観に行く。Zガンダムは初めて観たのだが、ファーストガンダムでの1年戦争の事実が確固として揺るぎない事実であり、それは希望や幸福を一切もたらさなかった哀しむべき事実として、観たくない未来を観てしまったような、読んではいけない話の続きを読んでしまったような、そんな感覚に苛まれた。

「星の鼓動は愛」である。

現実とガンダムの世界が克明にリンクする。そんな土曜日であった。

11月16日 (水)

国分寺での一人暮らしもけっこう慣れてきて、まずまず上手く生きている。でも、それは一般的に決して贅沢なものとは言えなくて、今や誰もが持っているiPodやDVDプレイヤーはおろか、テレビや電子レンジすら買えないような状態ではある。日々の食べ物、公共料金、家賃、学業に必要な最低限の消耗品を買い揃えれば、財布の中身はいつも綺麗サッパリだ。

それでも、僕はけっこう幸福に国分寺での一人暮らしを営んでいると思う。洗濯物を綺麗に干したり、卵を半熟に茹でたり、部屋の掃除をしたり、そういう生活の営み全般が何の気なしにけっこう好きなのかもしれない。そして、そんな何気ないひとつひとつの作業に思いがけない発見をしたりして、それを素直に愛でたりしたりして、まあ、とどのつまりは意外とこじんまりとした人間であるという事なのだろう。

まあ、そんなわけで、見たくも無いかもしれないが、今日はそんな真平の生活のメインとでも言える夕食の数々を紹介させていただきたい。同情の涙は禁物である。同情するなら金をくれ!である。

これは夕食?と思った方。そう、日本家庭の夕食ではまず出ては来ないであろう。いや、欧米でもこんな夕食はあるのだろうか?そんなアメリカンブレックファッスティーな夕食である。けっこう好きなのである。

ラインナップはコーンスープ、燻製ソーセージ、ジャガイモ、スパゲティー、ライ麦パン。

こちらは純和風。沢庵、みそ汁、ほうれん草の和え物、鯖の煮付け、サラダである。まあ、いつもの事ではあるのだが、食材は全て夜8時を過ぎた値下げタイムに全て買いに行くので、ほぼ半額でゲットしている。

その変わり、夕食にありつく頃はけっこういつもお腹ペコペコだ。

こちらもブレックファスティーな夕飯である。ニンジンやらジャガイモやらアスパラが余っていたのでホワイトシチューにした。あと、サラダとライ麦パン。ドレッシングはシーザーサラダ風味である。

こちらもブレックファスティーなのだが、これは夕食ではなくブランチである。午前中の授業が休校になったので、まあ、ちょっと豪華な朝食といったところである。サラダ、ポタージュスープ、食パン、オムレツ、ベーコンである。

これはちょっと豪華な夕食である。秋刀魚の刺身、シラス和えサラダ、ほうれん草のみそ汁、もずく、白米、お新香各種である。土曜日の夜はスーパーも良い物を出す。そして、当然のことながら8時を過ぎればそんな良い物も全て半額になる。狙い目である。でも、そんな日は僕と同じように半額狙いでやってくる客が多く、壮絶な死闘が売り場内で繰り広げられる。これはちょっとやそっとの新参者では太刀打ちできないので、僕はいつもそのおこぼれにあやかっている。

夕食を終えての黒伊佐錦は格別である。つまみは韓国海苔である。今は黒伊佐錦のハーブ茶割に凝っている。甘味のある芋焼酎にスターバックスで買ったハーブ茶の爽やかな香りが合うのである。体も温まる。

余裕がある時は寝しなにビールを飲む。冷たいビールを一気に飲み干して暖かい布団に入るのである。おやすみ☆

11月17日 (木)

またもやグループ課題なのである。今回は「リゾート」をテーマに与えられた空間の中で何かやれというものである。10万円までなら学校から費用も出る。

リゾート。

先日の日記の書いたように僕は貧乏学生で、リゾートなんて思いもよらない遥か遠くの事柄でしかないし、今までも、リゾートなんていうものを体験した事などただの一度も無い。そんなもんをテーマにしろと言われても、言われても、なんだかな~。

という事で、僕はその10万円の費用で、グループ内の誰か一人がリゾートに行ってしまえばいいと考えたのである。10万円のリゾートと言うのもたかが知れているかもしれないが、まあ、一人であれば海外にだって充分行ける金額である。だから、この課題の発表の日まで存分に日焼けして、楽しんで、羽根を伸ばして帰って来る。素晴らしいではないか。

と提案したところ、「まあ確かに面白いけど・・・」という事で、まあ、面白話程度に終わってしまった。けっこう真剣に考えて行き着いた僕なりの提案ではあったのだが、まあ、ちょっと素っ飛びすぎている感が皆には受け入れられなかったのだろう。

でも、皆はせっせとリゾートについて思いを巡らせ作業をしている最中に、その何もかもを使ってリゾートに行って帰ってきたという事実とそれを成し遂げてきた人間が目の前にいるという存在感は何にも変えがたい「リゾート」に対する説得力を持っているように僕は感じるし、だから何なの?と言われても、結局のところ、リゾートという概念自体が「だから何なの?」的な要素を持っているだけに、だから何なのと言われれば、この課題自体が「だから何なの?」であり、それに対する答えも「だから何なの?」に終わってしまうのだから、せめて、その「リゾート」の情報的な存在感を充分に発揮できる策として、僕はこの提案をしたのだった。

まあ、ちょっと受け入れにくい提案だった事は僕も十分理解している。

しかし、その後、遅れてやって来た今回のグループ課題の担当教諭である*K教授は「この課題、いくら出るんだっけ?そのお金で誰か南の島へ行ったら~」と、サラっと言ってのけた。

俺は、、、、俺は。。。こんな先生を待っていたんだよ!金ぱっつぁーん!

*K
舞台美術家・アートディレクター
1950年東京生まれ。1975年から83年まで演劇実験室『天井桟敷』の美術監督として「奴婢訓」「ノック」「阿呆船」「百年の孤独」など後期寺山修司全作品の舞台美術及び映画美術を担当。その後、ロベール・ルパージュ、蜷川幸雄、白井晃らの演劇からマイケル・ナイマンのオペラ、松田聖子のコンサート・ツアーまで数多くの舞台美術を手掛け、91年度青山ワコール・スパイラル・ホールの芸術監督に就任し、「新機械劇場」、「ムュンヒハウゼン男爵の大冒険」など人間のいない装置のみによる演劇を試みる。造形作家として、フランス・パリ・ポンピドー・センター、アヴィニョンフェスティバルに於けるジャン・ティンゲリーらが参加の「Les Machines Sentimentales/センチメンタル・マシーンズ展」、フランス・ランス市での「Automates et Robots/オートマタとロボット展」など自動機械をテーマとした海外企画展に多数招待出品。平成7年度文化庁芸術家在外派遣研修員として英国ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに於いて1年間研修のためロンドン在住。ニューヨークADC賞、TV・CMでのACC賞、DD年賞優秀賞、読売演劇大賞優秀スタッフ賞など多数受賞。武蔵野美術大学造形学部空間演出デザイン学科教授。

11月20日 (日)

オレンジレンジ?

そんなもんは知らん。家電製品ならちょっと欲しいかもしれない。

レミオロメン?

そんなもんも知らん。カメレオンみたいな爬虫類か?

アジアンカンフージェネレーション?

つうか、なんじゃそりゃ?どんなジェネレーションなんだ?

とまあ、こんな遣り取りをしていると「ってゆうか、やばいですよー!」なんて言われてしまう。もはや音楽は流行なのである。つうか、僕の生まれるずっと以前から、音楽は流行以外の何ものでもなかったし、今でもそうであるし、これからもそうであろう。

しかし、残念な事に、バンプオブチキンやらノーバディーノーズやらイグザイルやらを「凄くイイー!」なんて言っている子達はそれ以外の音楽は何も知らない。知ろうともしない。本当に残念な事だと思う。

この前、電車の中で宇多田ヒカルちゃんの曲を最大のボリュームで聞いていた若い子がいた。僕は彼に「これはiPodというやつだろ?せっかく色々な曲が入るんだから、もっと色々な曲を聴いたらどうだい?」と忠告をした。彼はボリュームの事を遠まわしに注意されたのだと勘違いをして、渋々音量を下げ、また宇多田ヒカルちゃんに聴き入っていた。

何の為のiPodなのだ?

まあ、今の音楽とはそういうものなのである。だが、相当に余計なお世話かもしれないが、僕はこんなお世話をこれからも妬いていこうと思っている。勘違いされてボリュームを下げてくれても、それはそれで迷惑にならなくて良いだろうし。

昔の宇多田ヒカルちゃんなら、俺も好きだ。

11月21日 (月)

特に虐められた経験はないが、あまり宜しくない事や、ちょっと突飛な事をして周りから距離を置かれたり、白い目で見られたことは人並みにある。まあ、それは自分の行いが悪かったと思うこともあれば、周りの方がちょっとおかしいんじゃないかと思うこともあったが、理不尽に他人から痛めつけられるような目には遭ったことはない。いや、あるにはあったが、まあ不運程度のものである。幸いな事に。

ただ、中学のある時期、ある先輩から執拗に嫌がらせを受けた事がある。嫌がらせと言っても、駄菓子屋で何か盗んで来いと命令されたり、小遣いを奪われたり、煙草を吸う時の見張り役だったり、まあ、パシリ程度のもので、今考えてみれば可愛いものだが、なかなか理不尽でもあったと思う。いや、けっこう理不尽だった。他にも色々嫌な目に遭わされた事を思い出した。今でもちょっとムカつく。

たいした権力を持つ先輩では無かったのだが、やはり不良グループに属していたし、同学年の不良達には助けは求められなかった。かと言って、仲の良い別の不良の先輩にも言うに言えなかった。とにかく狡猾で頭の切れる嫌な奴で、あらゆる面で僕に逃げ場を与えなかったのだ。

しかし、ようやくそんな先輩も卒業したある日、下校途中のセブンイレブンの前で僕はある光景を目撃した。その嫌な先輩がボコボコに、本当にデコボコになってしまうんじゃないかと思うほどに滅多打ちにされていたのである。バイオレンスタウン品川である。

事の詳細な経緯は解らないが、その先輩は不良グループに属してはいたが、やはり内部でも彼の狡猾さを嫌う者がいたらしい。それが卒業と共に軋みを生じ始め、崩壊したのだろう。女にもだらしがなかったから、きっと誰かの女にちょっかいでも出したのだろうと思う。

まあ、巻き込まれないように、その光景を横目に見やりつつも、僕は大笑いしそうだった。ざまあみろ。角を曲がったら即効スキップした。そして家までスキップで帰った。口笛付きで。満面の笑みで。

そんな話も10年以上前の事である。

昨日、僕はその先輩に駅で出会った。出会ったと言っても、通りすがっただけだった。向こうはスーツ姿の僕には気が付かなかったが、僕はあの顔を忘れもしない。憎しみや悔しさが込み上げる。しかし、それと同時に、なにか切ない、どうしようもない気持ちが僕の胸を貫いた。

そう、もうあれは10年以上も前の事なのである。忘れてもいいだろう。

11月27日 (日)

葬儀に参列した時は、その主役である亡き御方の亡骸を、失礼ながら直に拝ませて頂く事をモットーとしている真平である。

まあ、厳密に言えばお通夜の時なのだが、一通り参列者の焼香が終わって一段落した時に、親族の方に了解を得て、お棺の小窓を開けて頂く。一番最初は僕も躊躇ったが、大概の場合、親族の方は僕のこの失礼千万なお願いを快く受け入れてくれるし、むしろ、「是非見ていってやって下さい」といった対応が多いぐらいである。

生前を知っている方だとやはりそれはけっこうショックな光景だし、生前を知らない方でも、なかなか感慨深いものはある。実際の「死」を目の前にするって事は、やはりそれなりのショックを伴うものなのだと思う。でも、不思議とそこには恐れはない。具体的な「死」を目の当りにする事で、逆に、訳の分からない「死」に対する恐怖がすうっと無くなってゆくのである。ああ、死ぬってのはこういう事なんだな~って。

お棺の小窓を開いてもらうと、そこにはチョコレートだったり、煙草だったり、本であったり、亡くなった方の生前愛好していた品が納められていたりして、その傍らで、亡くなった方はもう二度と開くことの無いまぶたを閉じていたりして、鼻には詰め物をされていたりして、なかなか、どうして、つまりは、もう死んじゃっているのである。

こんな風に、僕なりの亡くなった方に対するせめてのもの礼儀として、僕はその「死」というものに直に対面させてもらっている。「死」というものがどういうものなのか。そういう事を知ることは今生きている僕にとって、とても重要な事だと思う。

まあ、そんな事を友人なんかに話したりすると「不謹慎だ」とか「怖くないの?」とか「絶対イヤだ」とか、まあ、まず肯定的な言葉は返って来ない。でも、早かれ遅かれ、僕らは絶対に死ぬのだから、亡くなった方が残してくれる唯一最大で究極の置き土産を貰わずして生きてけっか!ってね。思うわけですよ。