2006年 7月
7月1日(土)

昨晩、ロベール・ルパージュの舞台「アンデルセンプロジェクト」を世田谷パブリックシアターに観に行ってきた。世田谷パブリックシアターは今回で2度目だが、以前観に来た時は、あのノイズミュージシャン灰野敬二さんが演劇に即興の音をのせてゆくというとてつもない舞台でド肝を抜かれたが、今回もなかなか刺激的な舞台だった。

主人公のフレデリックがヤク中の友人ディディエ(なんと仏語の授業の僕のフランス名である!)の愛犬ファニーを探す時に「ファニー!」と連呼する場面があるのだが、その発音のイントネーションや趣きが、私の友人の地下料理研究家兼アル中(こっちはアル中であっちはヤク中だ)のスープンが館山のふれあい公園にて馬の「ポニー」を誤植して、ずっと「ペニー!」と叫んでいた情景に重なってしまい、大爆笑してしまった。

と、まあ、これは個人的な受け取りでしかないのだが、しかし、この舞台全体が、こういった暗示や酷似や暗喩や隠喩の関係の中で、あらゆる物語がその個別性を解体し、混ざり合いながら、イリュージョンに富んだ演出によって進んでゆく。幻想であり現実、あらゆる説明を、いわゆる説明的な説明ではなく、視覚的、聴覚的、感覚的メタファーの中で露にしてゆくやり方。偶然かもしれないし、必然かもしれない一致。何だかモヤモヤしながらもアンデルセンという人物を確実に露にし、そこからある価値観を抽出するやり方。もはや、錬金術である。

俺もやりたい!ルパージュ!

錬金術師は芸術家の始祖である。そして、ルパージュはそういった意味では錬金術師である。メタファーの中から世界を読み取り、宇宙を読み取る者。そして、そのメタファーの中から抽出した新たなメタファーを暴露する者。今、メタファーの解体及び再生成こそがこの幻想の世界を現実に引き上げる有力な方法だと僕は思っている。メタファーを操る現代の錬金術師はこの21世紀、またもやアバンギャルドへ返り咲くであろう。つまり、芸術家が世界の前衛となるのだ。

とりあえず、僕はメタファーの言語的初歩訓練として、ダジャレを極めるぞ!ダジャレなんてダレが言ってるんジャ!Yo!

7月2日(日)

子供というのは僕らが思いもかけないような表現で、いともたやすくその本質を露にしてしまうことがよくある。僕らはそのあまりにも衝撃的な状況にただ呆然とさせられるだけなのである。

例えば「将来、何になりたい?」なんて、こちらは何の気なしに社交辞令的な質問を問い掛けようものなら最期、その答えは僕らの生きる本質にまで関わってくるような、この宇宙の本質に密接に関係するような、そんな暗示に満ちた予言が返ってくるのである。

今日、職場の方から聞いた話を紹介させてもらおう。

同じように、質問は「将来、何になりたい?」といった感じのものだったそうだ。そして、相手は答えたそうだ「ムラサキになりたい」と。

もはや、言葉も無い。完敗だ。

ここまでメタファーに富んでいれば、この私も、そして、昨日紹介したルパージュも出る幕は無い。いや、往年のピカソやブラックやダリやエルンストやデュシャンやボイスやウォーホールやタレルでさえ、その出る幕は、もはや無い。

僕は訂正する。昨日、世界の前衛は芸術家であると言ったことを。ありゃあ嘘だった。幻想だったんだ。世界の前衛は、その素質からも、その若さからも、子供たちの手の中にあるんだ。

頼んだぞ子供たち。おじさんはおじさんで頑張るからな。うん。

7月6日(木)

またもや体調不良。二日間の休養の後、ようやく、本日、学校に登校するまでに回復した。今年はなんだか体調を崩しやすい。もう、全裸で就寝するには歳なのだろうか。いや、違う。

真っ裸で寝るようになったのは中学生ぐらいの頃からだったと思う。実家の自室にはエアーコントローラーが無く、夏の熱帯夜などは地獄のような有様で、寝巻きなんか着てたら死んでしまうのだ。それからというもの、素肌に感じるシーツの質感や、なんとも言えないエロティックな様相に、僕は裸で寝ることを習慣とした。

さて、しかし、今の国分寺アパートにはエアーコントローラーが付いている。自室に空調が付いているなどという体験は生まれて初めてで、一人暮らし初年度は、あまり上手くエアーをコントロールすることができなかったのだ。しかし、2年目の今年、僕は意のままにエアーをコントロールし、自室の環境を快適に調える術を学んだ。しかし、まだ全裸で寝るための最適の空調が良く分からないのだ。そして、風邪をひく。

とにかく、この梅雨が明けるまでに、僕は全裸でも快適な環境を捜し出さなければならず、その捜索期間の間の過激な環境変化の中を耐え抜く強靭な肉体を作らなくてはならない。課題が山積だ。

ちなみに、病み上がりでバイクをかっ飛ばしていたら白バイに捕まった。

信号無視、減点2点、罰則金6千円。

ちくしょ~!

7月7日(金)

今、日本で一番脂ののっている新進気鋭の造形作家の1人と言ってよいだろう。会田誠。そんな人と、昨晩、飲んできた。

なんと言えば良いのだろうか、とにかく、最近、そういう凄い人に出会う機会に恵まれていて、実際に、話なんかさせても貰うんだけど、普通だ。いたって普通の人なのだ。

あんまり、詳しく書くのも会田さんに悪いので、まあ、気になる人は来週からウチの大学で始まるムサビエンナーレに来れば、会田さんがいるので話ができますよ。とにかく、色んな意味でなかなか素敵な人です。

そういえば、昨晩、飲みの席でちょっと気になった話題をひとつ。

例えば、人それぞれ、個人によって、その経験してきた事っていうのは、それこそ唯一かけがえのないもので、その中で、僕もよく思う事なんだけど、自分の経験ってなんて平凡なんだろうとか、なんて下らないんだろうかとか、感じてしまう事ってあると思う。自らの経験を他人と比べたり、他人の経験を羨ましがったり。

そういう文脈の中で、第二次世界大戦を経験したかった、なんて話が出るんだけども、つまり、一応、そこは表現者の集団の飲み会であって、ある意味で、そういう経験自体を貪欲に摂取したいっていう願望がある人ばかりなんだけど、まあ、それと同時に社会的には何の役にも立たない感じの集団でもあるんだけどね。

でも、このちょっと究極的な話、まあ、死ぬ経験よりは究極ではないけれど、なかなか興味深い話だなと思った。良くも悪くもね。

まあ、それだけなんだけど。

7月8日(土)

アルバイトを4つ掛け持ちすることになったんだけど、これはちょっとヤリすぎだと思ってきた。岡本太郎の言葉を借りるなら「なんだこれは!」ってとこだろうか、志村けん風だと「なんだつむは!」だな。そんな感じ。

1つは信販会社。1つは雑誌の編集。1つは喫茶店。1つは店舗デザイン。すべて友人・知人からの紹介で、安請け合いで始めたのだが、4つともなるとちょっとヤバイ感じもしてきた。もちろん、紹介だから面接なんか無いし、業務の内容も一般的なアルバイトよりはなかなかお気楽な感じで、シフトの融通もけっこう利くんだけど、やっぱり、マズイよなぁ。

は~、不安で呑みにも行けねえ。。

7月9日(日)

今朝、出社する途中、山手線で知人に出会った。半年ぶりに会ったというのに、彼は僕を見るなり僕のチンコを握り締め、一言、「なんか、お前、汚なくなったな」と罵声を飛ばして去っていった。そんなあんたは鼻毛ボーボーの脂汗をかいた小肥満だというのに。。。

でも、そんなデリカシーの無い言葉が僕の心に深く突き刺さった。僕は自分が美しかった頃のことをよく記憶している。本当にキラキラと眩しいほどに美しかったあの頃を。そう、僕にはかつてそんな薔薇色のような時期があったのだ、そして、だからこそ、僕はそういうデリカシーの無い言葉にとことん打ちのめされる。自分の美しかった頃を克明に記憶しているからこそ、今の自分の老いが許せないのだ。今の自分の姿が憎いのだ。今の自分の汚らしさが辛いのだ。汚い自分の姿など俺が一番分かっている。

美しかったあの頃が取り戻せるなら俺はどんな犠牲をも厭わない。それぐらい、俺は今、美しさに飢えているんだぜっ!

毛穴なんか無かった頃の私の寝顔だ。プリプリしていた頃の私の寝顔だ。私が一番美しかった頃の私の寝顔だ。

今、私はお前が憎い!

7月12日(水)

僕は今、全ての事に直面している。漠然としていて申し訳ないが、文字通り、僕は今、あらゆる事に対峙しているのだ。いや、もう少し限定できるかもしれない。全ての事と言ったらこの宇宙全体の事になってしまう。そんな大それた事ではないからね。

そう、人間の本質に関わる全ての事に、今、僕は晒されている。うん。しっくり来る。僕は今、人間存在における全ての事に退治している。

原因はコイツだ。

月曜日、寝坊のあげく遅刻をし、急いで学校に向かったのだった。そして、学校に到着し教室に向かう途中、コイツがボトッと落ちてきたのだ。スズメの雛だ。

そのまま見過ごす事も出来たのだろう。しかし、僕は後先考えず、拾った。そして、僕の大いなる苦悩は始まった。

放っておけばおそらくコイツはそのまま猫にでも喰われて死んでいただろう。それが自然の摂理と言えばそうだろうけど、しかし、僕は拾ってしまったのだ。その場で見た時はもう瀕死の状態だった。だから、死を見取るまでまで保護しようと思ったのだ。しかし、コイツは確実に、そして、力強く回復している。一度でも人間の手に触れた野生動物は自然には戻れないという。しかし、僕はそこまでの覚悟を持ってコイツを拾ったわけではない。しかも、野生動物は法律的に保護も飼育も禁止されている。そして、スズメなどという希少動物でもない動物を保護する施設なんかも無い。

自分自身の至らなさなのか、私の一瞬の善意がもたらした愚かさなのか、とにかく、そういうあらゆるもの、人間界を取り巻くあらゆるものをコイツはその小さな体に一挙に内包し、僕の足下に落ちてきたのだった。もしかしたら、そんな愚かな私をめがけてコイツは落ちてきたのかもしれない。

まあ、とにかく、コイツは元気に回復し、朝っぱらからチュンチュンうるさいし、ウンコもブリブリするし、自分で餌も食べられないが、出来る限りの事はしてみるつもりだ。本当に悩みの種だ。

7月13日(木)

実技課題の講評も終了し、来週の試験週間が終われば夏休みだ!と思っていたら、8月に食い込むかたちで学芸員過程の実習がみっちりと食い込んで来やがった。件の身体モジュールの企画展だ。

は~。

しかし、そんなことよりどんなことより、俺の悩みはもっと別の所にある。

そう、原因はコイツだ。

一応、翔太と名付けられたのでこれからは翔太と呼ぶことにしよう。ブリブリ・翔太・ウンコでもいいかもしれない。本当に、見事に、所かまわず、ウンコをブリブリしまくるのだ。

とにかく、俺は翔太のせいで散々悩んだ。人間の存在から悩んだ。なぜ、自然界に同じように発生した人間と野生動物との間に何かしらの壁が立ちはだかるようになったのか。哲学の問題、倫理の問題、政治の問題、歴史の問題、国家の問題、愛の問題、地球の問題。とにかく悩みに悩み、悩んだ挙げ句、何も手につかず、俺までウンコブリブリになってしまいそうだ。まあ、所かまわずという事まではいかないまでも。なかなかシビアだ。

さて、しかし、話は変わるが、獣医の親を持つ友人に聞いたところ、野生動物を人間が保護した場合、それを自然界に戻すことのできる日数的リミットは5日程であるということだった。それを超えてしまうと、もう人間の手からは離れられないらしい。つまり、翔太を自然界に戻すにあたって、私の保護を受けていられる最大限の期間は明日までということになる。

最近ではなんとか自分で餌を食べ、羽ばたくようにもなり、驚くべき回復をみせるものの、やはり、保護を離れるにはまだまだ心もとない。なんてったって、まだウンコブリブリ野郎だし。

しかし、俺は明日、翔太を自然界に戻そうと思っている。残念だが、俺も生きる為にやらなければならないことがあり、翔太ばかりに手を煩わせているわけにはいかないのだ。

可愛い翔太。嗚呼。なんという仕打ち。

俺はなぜ翔太を拾ってしまったのだろうか。翔太はなぜ俺の足下に落ちて来てしまったのだろうか。俺は今回の出来事を悔やむに悔やみきれない。起死回生の一発逆転ホームランを打てるものなら打ちたいし、何かしらの得策がないか、今も画策しているが、なかなかどうして、それがとてつもない強固な鉄壁であることは重々承知なわけである。

嗚呼。

7月14日(金)

おかげさまで、翔太(コイツ↓)が日本画学科の研究室に引き取られることになった。

とりあえず、良かった。というか、かなり良かった。だいぶ路頭に迷っていて、一時は「二人で心中でも。。。。」などという考えが過ぎったほどだ。まあ、それは大袈裟かもしれないが、深刻に悩んでいたことは確かだった。

しかし、今回のことで、僕はちょっとこの学校の懐の深さに感動した。こんなことで感動するのも安易なのかもしれないけれど、この間、あらゆる役所や施設に連絡を取り、ことごとく断われた事、つまり、この日本の社会が翔太のような存在に対する答えを全く持っていなかった事に対して大きく落胆していた僕にとって、自らが通う大学がその答え、乃至、応えを持っていたことに関して誇りを感じるのは安易というよりは自然な感動だ。しかも、守衛のおじさんが個人的に面倒を見てくれるとか、そういった個人の善意ではなくて、大学の組織自体が対応をしてくれた事もひとつの重要な意味を持つ。

これから翔太は大空に羽ばたく事ができるようになるまで、日本画学科のモチーフ動物として研究室で飼育される。朝っぱらからピーピー鳴くし、一人で餌も喰えないし、羽根があるのに飛べないし、ウンコはブリブリするし、満腹になるとすぐ寝ちゃうような、本当にダメダメな奴だけど、いっちょまえにモデルという位置付けになるわけだ。まあ、存分に描かれるがいい。そして、存分に生きてくれればいい。俺もたまに様子を観に行くからな。

まあ、そんなわけで、一応、僕としては最善の結果となり、僕と翔太の奇妙な共同生活に終止符が打たれたわけである。淋しくないと言えば嘘になるが、こんなカラフルで素晴らしい物語を僕の人生に与えてくれた翔太、本当にダメダメな奴だったけど、僕はお前に感謝する。可愛い可愛い翔太よ。オスかメスかは不明だが。

真平はレベルがアップした。

知力 53

体力 42

男前 86

優しさ 68

放尿 37

経験値 356

7月15日(土)

いや、呑んだよ。淋しさも嬉しさも混乱も狂気も、全て呑みほした。翔太の行く先が決まり、学校の課題が終わり、学校の授業が終わり、とうとう夏がやって来る。新宿のど真ん中のビヤガーデンで何もかもを呑みほした。おまけに、ドサクサに紛れて中生のジョッキまで持ち帰ってしまった。夏よ!カモン!どこからでもかかって来やがれ!

というわけで、今朝の寝覚めは最低で、頭が痛いわ、胃が痛いわ、ウンコをする時もなんだか痛い。

これじゃいかん!おれジャイアン!メグ・ライアン!

というわけで。どういうわけで?感覚が暴走している時は本屋が一番良いとふんだ俺は早速本屋に向かった。ところが、突然の雷鳴、迸る閃光、なっ!なんなんだっ!?さい先イイじゃねえか!

そして、雑誌コーナーへ。

ん~!小泉さん!なんでそんな小洒落雑誌のグラビアを飾っているんだ!背筋を駆け抜ける衝撃!イイ笑顔じゃねえかっ!空間演出デザイン学科最高!イイ感じだ!キテる!テロル!

おっ!今度は可愛い子!ん~!?君!その後ろに背負ってるロッカー!なんか俺は凄く知っているぞ!

な~!ウチの学校のロッカーじゃねえか!あんたいつの間にウチの学校に来てたんだ!言っておいてくれれば俺がいろいろ案内したのに!ちくしょー!武蔵野美術大学最高!そして、君は可愛い!

は~、なんか疲れた。寝よう。EOU。

7月16日(日)

今度、職場で川柳大会があるそうだ。なんでも、職場での出来事や感動や悩みなんかをうまく五・七・五にまとめて、素晴らしいものには10万円相当の商品を贈呈してくれるそうだ。

会社っていうのは思い出したかのように、たまに凄く訳の分からない事をする。川柳ぐらいだったら、まあいいかなとは思うけど、賞品に10万円相当の商品を贈呈するって。10万円相当のヴィトンのバックを貰ったって嬉しくない人もいるって事を考えているんだろうか?考えていないだろうな。

でも、僕はこういう重要なところが抜けてる会社企画って嫌いじゃない。こういう詰めの甘さとか、人情を欠いた感じがなんとも言えず馬鹿らしくて燃える。だから、とりあえず、今日は3つの川柳を投稿して来た。

 電話鳴り 慌てる職場 現場なり

 社員さん 溢れる笑顔 サンシャイン

 入力時 気になる時間 16時

まあ、出来はともかく、とりあえずウォーミングアップとして韻を踏む練習をしてみた。狙うは10万円相当の商品だ。このペースで行けば締め切りまでには3桁越えの川柳が生まれるだろう。数で勝負!

7月17日(月)

明日から試験週間だが、卒業単位はとりあえず取得済みの僕にとってさほど重要な位置付けは無い。いくら落してもへっちゃらだし、量も少ないし、興味ある科目しか取っていなので、とりたてて勉強をする必要もあまりない。まあ、一般的な大学生に比べると、そこんとこ楽ではある。

ただ、やはり試験は試験以外の何モノでもなくて、いくら楽であっても嫌なことには変わり無く、僕の気分は今日の天気のように憂鬱なのである。つまり、今の僕はとてもメランコリーでとてもカワイイのでは?なんて、倒錯したりしているのだ。

しかし、始めれば5分で終わるようなことも、こういう時ってなかなかできなくて、現に今、1時間で終わるようなレポートを3日間ぐらいボイコットし続けている。でも、なんか、3日もボイコットしていると、とてつもない強大な権力に独りで勇敢に立ち向かっているような気分に陥ったりして、もしかしたら、今、俺は凄くカッコイイんじゃないか?なんて、倒錯したりもしているのだ。

倒錯した人間は孤独にはとても強いが、現実にはとても弱い。

7月18日(火)

俺が土壇場の日に限って、なぜ俺の友人達は挙って呑みに行くのだろうか。誘われる俺の身にもなって欲しいものだ。しかも、彼らは誘いを断わる俺に向かって一様にこう吐き捨てる。「この!裏切り者!」と。

俺もパリス・ヒルトンのように野太く生きたいものである。

7月21日(金)

鳥好きの職場の方から翔太の為の雛用の餌を分けて頂いたので、さっそく日本画研究室に持っていた。最近では自ら餌を啄ばむようになり、積極的に羽根を羽ばたかせる練習もするそうで、想像以上に早く飛び立てるんじゃないかと期待しているのだ。もちろん、相変わらずウンコもブリブリしているようだ。

5号館の階段を上って、3階にある日本画研究室に向かい、いつものように研究室のドアをノックして中へ入る。翔太よ翔太。馬鹿で可愛い翔太。ウンコブリブリ翔太。本当に馬鹿で間抜けで可愛いので、是非とも、皆さん、見に行くといい。本当に。

しかし、今日、翔太がいる筈の鳥篭に翔太の姿は無かった。

昨日まではとっても元気だったのに、本当に突然だったそうだ。馬鹿で間抜けで可愛い可愛い翔太はもういない。ウンコをブリブリすることもないし、ピーピー鳴くこともないし、空を飛ぶこともない。つまり、翔太は死んでしまった。

手のひらにチョコンと乗るほどの大きさで、くちばしの回りはまだ雛らしくお小ちゃまで、鳥のくせにバランス感覚が鈍くて、僕の顔を見るとすぐにピーピーと鳴く。それが翔太。雄か雌か分からないけど、とにかく翔太。

2006年7月20日木曜日。翔太は死にました。おかげで僕は今日の試験、2単位を落としました。

7月22日(土)

翔太が死んでも地球は周り、世の中はどんどん新しい価値観を生み出し、僕は色々なことに影響され翻弄されながら、記憶から徐々に翔太が薄らいでゆくのだろう。哀しいかな、これぞ自然の原理。世の常。

でも僕はとても往生際が悪いほうだから、できるだけくよくよしたり、できるだけうじうじしたりすることで、なんとかその移ろい往く時間を留めようと努力する。無理だと分かっていても、できる限りの後悔や未練をもってその流れ往く時間の静止を試みる。

ある日、突然、時間が止まったとしたら、すまん、それは僕の後悔や未練のせいだ。

7月23日(日)

多くの方々から翔太に対する悔やみの言葉と、僕に対する励ましの言葉を頂いた。感謝する。ありがとう。

僕と翔太の共通点はウンコをブリブリする事で、それはとてもしょうもない事かもしれないけれど、僕と翔太を繋ぎとめた唯一の絆であって、僕がトイレから帰ってくると翔太は僕以上にウンコをブリブリしていて、僕らは寝ても覚めても同じアパートで仲良くウンコをし、ウンコを通じてお互いを確認し、生活していたように思う。

もしかしたら、その絆は僕が勝手に感じていただけのものであって、翔太にはそんな絆を感じるような心はないかもしれないけれど、絆とか心とかを通さなくても、肉体的な、そして生理的な、生き物が本来持っている身体的共時性を僕らは何かしらどこかで感じていたように思う。根源的でもっとも単純な生きることへの感応だ。

そうした僕との感応を記憶した翔太の身体は、やがて土に返り、方々に拡散し、再び新たな生命を育むのだろう。やがて、その記憶の一部は生命同士の感応の記憶を新たに蓄積し、また土へ返る。そういう深い記憶の物語がとても豊に展開できるようになったのは、まあ、翔太のおかげなのだろう。

ようやく僕も新たな記憶の旅へ出る準備ができそうだ。

皆さんありがとう。そして、翔太よ、ありがとう。

7月29日(土)

やあやあ。お久しぶり。こんにちは。

ようやく梅雨も明けようという今日この頃、みなさんいかがお過ごしだろうか?学生の方は楽しい夏休み。社会人の方はうだるような暑さの中お疲れさまである。

私?私は夏休みを返上して、下らない学芸員実習に明け暮れている今日この頃である。本当に下らないので今日などは二日酔いにまかせて休んでしまった。いや、学校へは行ったんだが、実習には参加せず映像資料室でずっと映画を観ていた。そのほうがよっぽど有意義で勉強になるからね。アキ・カウリスマキ、なかなか良い監督である。それとドイツ表現主義の映画監督達もなかなかだ。

さて、ちょっとここで学芸員実習の下らなさを紹介させていただこう。

以前にもお話したと思うが、私とこの実習教諭にはちょっとした諍いがあった。まあ、しかし、それは展示をより良くしたいがための諍いであり、向上的に物事を進めていく上での避けては通れない道である。だから、僕もそういったことを覚悟で実習に臨んでいるし、もちろん、この実習に参加している学生の多数がそういう意気込みで参加している。実際、意見のぶつかりなんかも多くて楽しいのだ。実習というものはそういった事にこそ意味があるのだと思う。頭の中に思い描いている漠然とした何かにきっかけを与えて、より具体的な形を作り上げてゆく過程の勉強であり、もちろん、だからこそ結果にも責任が持てるわけなのだ。

しかし、肝心の担当教諭がその向上意識を投げ捨てたのだ。ものの見事に潔く諦めた。再考の余地のある部分に積極的に喰い込んでゆこうとする私たちに向かって「もういい!」の一言だ。それが妥当な制限であるならまだしも、あからさまな放棄なのだ。早い話は「面倒だからもうやらなくていい!」という事なのだ。なにそれ?

担当教諭が投げ出した実習ほど下らないものはない。

語弊を覚悟で言わせてもらうが、だから俺はオバサンが大嫌いなんだ。ヒステリックで訳の分からない夢と希望に満ち溢れたプチリベラルなオバサンが大嫌いだ。そして、その上で教師という肩書を持ったオバサンはもう最悪である。教わるものなど何も無い。教える立場になってはいけない。まだ、家庭で美味しいみそ汁を作ってくれていたほうがいい。

でも、そういうオバサンって教えたがるんだよね。

だから、今回の実習は嫌味なぐらい徹底的にやらせて頂く。

そして、俺は絶対にオバサンにはならない。

7月30日(日)

立て続けにこんなことを言われた。

「真平はムッツリスケベだ。」と。

職場で、学校で。友人から、同僚から、同級生から。男女関係無しに。本当に立て続けに。全然関係の無いところで立て続けに。しかも、「ムッツリスケベじゃないの?」とかではなく、断定的に「オマエはムッツリスケベである。」というニュアンスで。立て続けに。

ただ、僕は時と場合によって「ムッツリ」していることは確かだ。特に大人数の場ではムッツリと寡黙に押し黙ってることは多いし、仕事中や授業中はもちろん集中し、従事している。だから、「ムッツリである」と言われれば、まあ、反論することもないので納得もゆく。しかし、そこに「スケベ」という名詞がつくのは間違っている。それは僕のことではない。

ハッキリ言って心外である。

ただ、僕も男であるからスケベではないとは言えない。やはり、この暑い季節の薄着の女性には自然と視線が行ってしまうし、変な話、気になってしまうのは確かである。だから「スケベである」と言われれば、まあ、否定はできないので納得もゆくのだが、そこに「ムッツリ」という形容詞がつくのは違う。それは僕のことをではない。

ハッキリ言って心外である。

つまり、ある意味で僕は「ムッツリ」だし、ある意味で僕は「スケベ」ではあるけれど、断じて「ムッツリスケベ」では無い。混同しないで頂きたい。

でも、こういう事をセコセコと書いているからムッツリスケベだと思われるんだろうな。俺もこんな日記を書いている奴を見つけたらそう思うもん。

あ~ぁ、いいよ、もうムッツリスケベで。

7月31日(月)

僕は想像する。それは雑然としていて、とても穏やかで、研ぎ澄まされたように純粋で、安定した場所。あらゆる矛盾がある定義の元で整い、澱むことなくその時を留めているような場所。

コルビジェが週末を過ごす為に建てた海を見下ろす小屋。高村光太郎とその妻智恵子が過ごした坂の途中のアトリエ。15歳の少年が辿り着いた図書館。博士の棲む離れ。閉館前の資料室。誰もいない病室。

とにかく、混沌と静けさが同居し、何かしらの時を留め、死の気配を感じる空間。そして、それ以外の一切から干渉されることのない空間。そういう空間が僕の空間であることを直感してしまった。

つまり、僕は空間であり、空間は僕なのである。

7月31日(月)

学友の皆さん。夏休みも一週間経過したが、いかがお過ごしだろうか?ゴロゴロと過ごしている人。昼夜逆転している人。バイトに勤しんでいる人。夢に向かって奔走している人。旅行に行っている人。遊びほうけている人。恋をしている人。いろんな人がいると思う。

しかし、そうこうしているうちに、もう8月になろうとしているのだよ皆さん!

夏だ!転がれ!疾走しろ!飛びたて!

夏の終わりはもう目の前だ!

僕の夏休みはまだ遠い所にある。