2009年 10月 11月 12月
10月4日(日)

世の中というものは、人を疲れさせる為にできているかのようだ。おかげで、私の下らない日常を書き記すことがなかなかできなかった。

まったく下らない。

さて、そんな疲れのせいもあってか、先日、おかしな夢を見た。

私の実の妹(サトエリ)に狂気に富んだ夜這いをかけられるという夢だ。まあ、悪い気はしなかったが、兄としては拒むに拒めず、複雑な気分のまま、惰性的に流されてゆくだけの夢だった。

まったく下らない。

目覚めた後も、何とも言えない淫靡な雰囲気と、サトエリの艶かしい身体の質感や感触が、どんよりと身体の底に残り、おかげで、その日一日、なんだか複雑な気分で過ごす羽目になってしまった。

まったく下らない。

しかも、後で気が付いたのだが、その夢の大まかな設定が「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」とまったく同じだったことに気が付き、二重にも三重にも複雑な思いをしたのだった。

まったく下らない。

まあ、そんな日常を最近は過ごしている。

10月5日(月)

20年も付き合っているのだから、嫌でも自分のことは分かる。

昔、20歳の女の子が言っていた。

今、30歳を目前にして、私はようやく自分のことが分かるようになってきた。

遅いのか早いのかは分からないが、なんとなく、自分がどういう状態にあれば、どうなるのか。そういうことが、わかるようになってきた。

遅咲きの自覚である。

しかし、どう付き合えば、そんなに早く自分と仲良くなれるのだろうか。友達の少ない私には皆目わからないのであった。

10月6日(火)

先日、土浦で行われた花火師の花火大会を見に行ってきたのだが、当初は、70万を超える人が集まると聞いて、とりあえず、その人の多さにパスさせてもらった。

花火師の花火大会というのは少々気になったが、70万の人混みにまみれるというのは、さすがに勘弁してもらいたい。興味本位でおいそれと行けるような人混みではない。

70万って。死者が出てもおかしくない人混みだ。

ただ、ここのところ、疲弊した世の中に忙殺され、自分の興味本位で行動するような機会がなかなか持てなかったので、これも良い機会だと、楽な気持ちで、行くことを決めたのだった。

しかし、当日、土浦の駅に到着し、私は愕然とした。

車両から降りたところから、人混みなのである。この先35万。この後35万。合わせて70万のサンドイッチに押し潰される。そんな事を考えていたら、恐ろしくなってしまい、花火はおろか、駅の改札も出ず、しかも、恋人も置き去りにして、そのまま引き返してきたのだった。

往復4時間をかけて、私は恐怖だけを味わってきたのだ。

勿体無いとは思わない。賢明な選択だったと思っている。

無理はいかん。本当に。

10月7日(水)

植物や小動物を育てる、実家住まいの地味な三十路前の男は、今日も一日、それこそ地味に元気一杯生きてきた。

そして、そんな地味な男は昨晩、NintendoDSのソフトを地味にクリアし、地味に充足感を味わっていたりもするのだった。

ただ、毎晩寝る前にコツコツと励んでいたせいか、若干視力が落ちた。

ゲームは明るいところで、時間を決めてやるべきだ。

三十路前の地味な男に、そんな注意をしてくれる人はいないのだった。

しかし、秋の夜長は良いものだ。

10月8日(木)

台風一過で、みなさんお怪我などされていないだろうか?

私はなんとか無事にやり過ごすことができたが、職場近くのお気に入りの柳の木が、強風に煽られ、ボキリと真っ二つに折れてしまい、けっこうショックを受けている。

都会で地味に暮らしつつも、たまにこういったドラスティックな場面に出くわすと、世の中がどんなに高度に発展・発達しようとも、生きることとは根本的にはサバイバルだなと感じる。

人間、生きている以上、地味になんて生きられないのだ。

柳。残念でならない。

10月13日(火)

私は嘘をつく。

本当に馬鹿げた嘘から、なかなか深刻な嘘まで、色々な嘘をつく。なので、私を嘘つき呼ばわりして貰って構わない。

ただ、嘘つきではあるが、ここでひとつ、本当のことを語ろう。

正直者は馬鹿をみると言うけれど、最近は嘘つきだって馬鹿をみる。嘘つきが言うのだから本当だ。

ちなみに、私は嘘が下手なので、いつも馬鹿をみている。

10月19日(月)

先週、財布を落とした。

そして、今週、出てきた。

世の中も捨てたもんじゃない。

まあ、私の場合、捨てたんじゃなくて、落としたんだが。

10月26日(月)

九尾狐を屠ったという伝説の残る山麓を越え、紅葉した樹木に隠れた細く深い渓谷を降りてゆくと、目的の湯治場に着く。

遠野物語の世界の中にでも入り込んでしまったような、豊かな自然と古い因習に囲まれた湯治場である。

人里から遥か遠く離れ、紅葉に包まれ、身体を癒す。

隠微で禍々しく、奇怪で美しい。神さびた土地での、えも言われぬ極楽体験である。

ディズニーやジャニーズやヨガなどで癒えている場合ではない。癒しとは完全なる逃避の場で、社会の縁から隔絶された神の領域で、施されるのである。

11月3日(火)

毎朝、満員電車に揺られる毎に、人混みの中に感情が吸い取られてゆくような、そんな気がするのは私だけではないように思う。だから、人は満員電車で、ポータブル音楽プレイヤーで音楽を聴いたり、単行本や新聞を読んだりして、自分の感情を維持しているのだ。

まあ、そんなわけで遅ればせながら最近流行の、というか、既にスタンダードとなっているmp3プレイヤーというものを私も手に入れた。

人は自身の匂いを嗅ぐことで落ち着きを取り戻すということなので、mp3プレイヤーには、とりあえず、自身の喘ぎ声を録音し、明日の満員電車に備えようと思う。

楽しみだ。

11月4日(水)

実は、先週から今週にかけて、かなり体調を崩していた。

時期も時期なので、インフルエンザの検査を受けることになり、まあ、幸いにも検査は陰性であったのだが、陰性であっても感染していないとは言い切れないらしく、症状も症状だったため、完全に落ち着くまで自宅待機を命じられた。

けっこう大変だったのである。

さて、そんな病院からの帰り道、ちょっと図書館に寄った。本というのは病気の時に一番の介添人となるのだ。

しかし、図書館。

かなり久しぶりに行ったのだが、個人的にずっと気になっていたが、なかなか読む機会に恵まれなかった、いわゆる、生き別れ本の類いがかなり充実しており、色々と手に取っているうちに、貸し出し限度を超えてしまった。

こんな生活の身近に知の宝庫があるという図書館の革新性を改めて知ったわけだが、私が借りた本は、発行から数年を経ているにもかかわらず、読まれた形跡の無いものばかりだった。

なんとも。

11月10日(火)

この間、遥か遠くの南の国に住む友人から電話があった。

辛いことがあり、片っ端から友人に電話をかけていたらしいのだが、残念なことに、悩み相談相手としては落伍者でしかない男がつかまってしまったのだ。

電話すらも出不精で、普段、知らない番号に出るようなことは間違っても無いのだが、その時は、奇跡的に出てしまったのである。本当に申し訳ないことをした。

さて、そんな電話を終えて、私は思う。

人というのは、皆、とてつもないジレンマを抱えて生きている。ある時は酒を飲み、ある時は美味しいものを食べ、ある時は煙草を吸い、ある時は眠る。

そんな姑息な手で、巨大なジレンマを騙し騙し生きているのだ。

しかし、ふとした瞬間に、我々は自分の背後にのっそりと横たわるジレンマに気が付き、驚愕する。私は電話を置いた瞬間、そのジレンマの存在に気が付いてしまったのである。

恐怖のあまり、私は静かに横たわることしかできなかったのだ。

おやすみ。

11月11日(水)

先日、合コンへ行ってきた。

最後に行ったのは、大学に入る前なので、6年ぶりぐらいになるだろうか。

しかし、今まで経験した合コンがそうであったように、相も変わらず、合コンというのは血液型とスノボとディズニーの話題で持ちきりなのだった。

血液型やスノボやディズニーといったものが、日本人の若い男女関係において、何かしらの普遍性や必然性を持つものなのかもしれないが、そういったものに関して不可知な立場をとる私にとっては、淡い期待も冷めるというものだ。まったく。

私のジレンマは、こうしてどんどん大きくなってゆく。もう寝る。

おやすみ。

11月12日(木)

ジレンマの話が続く。

ジレンマといっても核心的にジレンマの状況にあるのか、周縁的にジレンマの状態になったのかでだいぶ違ってくる。

多くの人が当初は前者の、主体的な選択に迫られていたと思う。ただ、年を重ねるごとに後者の、なし崩し的な二者択一に迫られるようになってくる。

可愛い二羽のウサギのより可愛いほうを追っていたら、一本道に迷い込み、気が付けば前に狼、後ろに虎、さあどうする。そんなジレンマだ。

まあ、そんなジレンマは、どこか遠くに放っておいて、その決断は先送りにしたいものだ。ただ、そんなふうにジレンマを遠ざけているうちに、ジレンマの存在すら忘れてしまうのである。

「ライ麦畑で~」のホールデン君のように。

つかまえようと思っていたら、つかまっていたのだ。インチキなのだ。

11月14日(土)

先日、丸の内の丸善にできた「松丸本舗」という本屋へ行ってきた。

「未知との出会い」をコンセプトに、編集者の松岡正剛が本屋自体を編集するという、ありそうで無かった試みである。

ネット上では「千夜千冊」でお馴染みの読豪・松岡正剛だが、私も読んだ本の後追い検索で、何度もお世話になっている。

まあ、そんな松岡正剛プロデュースの「松丸本舗」だが、本が踊る本屋とでも言おうか。レイアウトひとつで、これ程までに本屋が多彩で機微で衝撃に溢れる現場になるものかと、圧倒されてしまった。

デザインも編集作業ではあるが、デザイナーをしても、ここまでの編集能力を持った人は滅多にいないだろう。必見である。

さて、ちょっと話は変わる。

以前、初めて話した女の子に何かの拍子で「何でそんな色々知っているの?」と聞かれたことがあった。

私が答えに窮していると、隣の友人が「つまらない本ばかり読んでいるからだよ。」とフォローしてくれた。

それからというもの、私はこの「つまらない本ばかり読んでいるからだよ。」を気に入ってしまった。その時の、けっこう自嘲的な感じが気に入ってしまったのだ。

まあ、それだけの話です。おやすみ。

11月15日(日)

初めてバイクに乗った時から、初めてのチュウを経て、初めてヨーゼフ・ボイスに出会うまで、様々な衝撃と衝動を私は今まで経験してきた。

そして、それらの経験によって私は実際に突き動かされ、今に至るわけだが、やはり、それらの感動はある種の若きジレンマによって裏打ちされていたように思う。

ジレンマというのも、なかなか。

さて、そんなバージン体験の数々ではあるが、若き日のバージンの衝撃は、その後の人生の価値観を大きく左右したりもする。

そういう意味では広末涼子。

好む好まざるは別にして、私にとって、ある種の指針である。

11月16日(月)

トップページを見て頂いて、もう皆さまも分かっていらっしゃると思うが、このサイトの創設8周年記念日まで、あと18日と迫ってきた。

ご存知の方はご存知だと思うが、このサイトも個人的な都合や権威的な圧力によって存続を脅かされたこともあった。

そんなサイトを8年間も運営することができたのは、半分は私の自己顕示欲の強さによって、もう半分はその顕示欲を包括的にあしらっていただいた皆さまの優しさによるものである。

そんなわけで、おこがましいことではあるが、3年前から始まった私への労いと皆さまへの感謝の気持ちを表明させて頂く周年行事なのである。

皆さま、お誘い合わせのうえ、どうぞお気軽にお越し下さい。

詳細は、トップページのカウントダウンをクリック!

12月4日(金)

以前にも紹介したLOOLBOOK.nuというFashionSNSのサイトを、ちょこちょこに覗いたりしているのだが、最近、私も参加したいという欲求が募っている。「join LOOKBOOK.nu」という項目に何度マウスを揺らしたことか。

各国のオシャレガール達に私も協同したいのだ!

ただ、残念ながら、ファッション的センスも、カメラマンをやってくれそうな友人もなく、更に、女子でもない私に、協同の余地があるのかどうか。

模索は続くのである。

ちなみに、みんな自分のブログなんかも公開していて、本当に見ていて飽きない。あと、オシャレガールはみんな自然豊かな場所に住んでいる。

12月6日(日)

やりたいとか楽しみたいとか思う以前に、その行動に踏み出すことへのリスクを考えてしまうのは、私特有の生まれ持った個性なのか、はたまた、長らく培った負け癖なのか、それとも、人類共通の防衛本能なのか。

まあ、そんな話は何とでも説明が付くのだが。

私もようやく少ないながらも定期的な収入を得られるような身分になり、経済的に安定した生活を送っている。まあ、悪く言えば飼い馴らされた生活を送っているわけだが、個性だろうが癖だろうが本能だろうが、リスクを顧みず、この安定をぶち壊したくなる衝動に駆られるというのは、なかなかどうして、説明が付かない。もし、うまく説明されても納得がいかない。

まあ、何事も、うまい説明で始まる事なんてない。

人生だって。恋だって。物語だって。始まるものは始まるのだろう。

12月7日(月)

明日はいよいよ8周年である。

早速ながら、続々と祝辞が届いているような、気がする。

まあ、4人席を20時からとっておくので、来られる方は気軽に来ていただき、気軽に帰っていただきたい。

ちなみに私は次の日に有給をとっているのでご心配なく。

免許とパスポートの更新に行かなくてはならないのだ。

年の瀬だ。

12月10日(木)

先日の8周年オフ会にご参加の皆さま。

師走のお忙しい中を、わざわざ足をお運び頂き、ありがとうございました。お祝いの品々まで頂き、本当に感謝感激でありました。

後日、宴の模様は掲載させて頂きます。

さて、話は変わり。

最近、私のパンツが無くなっている。10枚ほど所持していたパンツが、確認できるだけでも3枚ぐらいしか見当たらない。おかげで、ノーパンで過ごす日が増えてしまい、困っている。

まあ、皆さんに聞いたところで仕方ないのだが、私のパンツ知らない?

まあ、知るはずもない。というか、そんなこと知りたくもないだろう。

世の中には、知らなくても良いことに溢れている。

12月15日(火)

時めきを忘れて幾年。

最早、諦めていた感情だったが、先日、異国の少女と、画家の青年が、お互いのポートレートを描き合う光景に、私は時めいた。

仮初めの場での、仮初めの光景に、何かが呼応したのだ。

時めきを取り戻した記念に、私もその二人にポートレートを描いて貰った。仮初めでも良いから、少しでもその感情を保持していたかったのだ。

いや、むしろ、時めきは仮初めなのだ。

歳を重ねると、仮初めが何なのかも分からなくなってしまう。