2004年 5月
5月1日(土)

昨晩、クラスの親睦を深めるとゆう主旨の初めての飲み会があった。

以前にも書いたと思うが、1ドリンクに軽食が付くとゆうアレだ。

僕はかなりサブイ飲み会を予想していたので、一杯飲んだらすぐに帰ろうと思っていたのだが、やはり、クラスメイト達もその事はかなり懸念していたらしく、1ドリンクはありえないと、結局、飲み放題になった。

そして、結果的には普通の大学生のノリで、皆ワキアイアイと親睦を深めていた。僕はそんな若さ溢れる状況を肴に酒を飲んでいた。

しかし、前までは、飲み屋に大学生の団体がいようものなら、「何だあいつらは!この世から消えてしまえ!」と思ったものだが、いざ、自分が大学生となって、そこに身を置く立場になってみて、案外、まんざらでもない事に気が付かされた。

大学生よ!大いに飲んで!大いに潰れろ!

俺はもう眠いから帰る!

そんな、優しい気持ちになれた夜だった。

5月2日(日)

今日は久しぶりに家で一人静かに過ごした。

一人でいる時にポジティブな事を考えている人もそうはいないと思うが、僕は誰か他人といる時とは違って、一人でいると、頭の回路がとてもネガティブな思考に切り替わる。(他人と一緒にいる時もネガティブな人はいるとは思う。それはそれで困ってしまうが、一人でいる時にポジティブな人なんかいないと思う。いたら気持ち悪い。百歩譲って、もし、一人でポジティブにならざるを得ない時があったとしたら、何か特殊な状況にあるか、何かに追い込まれている時ぐらいだと思う。例えば、恋とか。とにかく、普通では無い。)

まあ、そんな訳で、今日はとてもネガティブな一日だった。

僕はこうゆう変化の無い退屈な時間、内に篭れる時間が大好きだ。

大勢の人間の中で一人ぼっちでいる時はとても孤独で辛い。でも、周りに誰もいない本当に一人ぼっちでいる時に孤独を感じる事は無い。しかも、誰かに干渉される事も無い。本当に自律できる時間だ。

テレビも見ないし、電話にも出ないし、音楽も聞かないし、本も読まない。ただ、ベットに横になったり、窓から外を見たり、椅子に座ったりして、考えたり、ボーっとしたり、居眠りしたりして、一日を過ごす。

まあ、ボケ老人のようなものだ。

でも、そんな一日を送ると、沸き起こる衝動とゆうか、漲る欲求とゆうか、何か、心の奥底から熱い思いが噴出してくる。

僕はいつもこの気持ちの大噴火を期待している。ここから出てきたものは社会からも世界からも独立し、何者にも止める事の出来ない、本当に自分の為の自分による自分の「気持ち」なんだと思っている。だから、ココで生れた「気持ち」は第一級的に尊重する。

ちねみに、今日の僕の「気持ち」は「メダカが欲しい!」だった。

だから、メダカを買ってやった。でも、エサを買うのを忘れた。

5月3日(月)

古くから、東海道沿線ではお正月よりも五月の端午の節句に男の子の成長を祈って凧揚げをしたらしい。

現在では、そんな風習のほうが逆に珍しい感じがしてしまうが、鯉幟も風を纏って高く揚げるといった意味では共通しているので、違和感を感じるとゆうよりは、なるほど!と納得していしまう。

まあ、そんな訳なのか何なのか、ゴールデンウィーク中に凧揚げをして、その感想文を書いて来いとゆう課題が学校で出された。

さすが美大。訳が分からない。

で、仕方ないので、今日、東海道沿線ではトップランクに入る昭和80年気質たっぷりのダイシン百貨店で仮面ライダーアギトの凧を500円で購入し、多摩川の土手で揚げて来た。

が!20年近くぶりにやる凧揚げは予想以上に楽しかった。

風の谷の風使いになったような、自然は友達☆フフフフフ☆な感じがとても良かったし、風で遊ぶなんて、なんて優雅な遊びなんだ!と贅沢な気持ちにもなった。

一日楽しんだウンチクを語らせて頂くと、凧はあまり高く揚げすぎると風が安定してしまうのでいけない。むしろ低い所を流れる微妙な気流をよみ凧を操る。これが上級者だ!どうだ!

僕クラスになると室内の微妙な気流をよんで揚げてしまう程だ。

5月4日(火)

褌研究。

このゴールデンウェーク中には完成できるとふんでいたが、諸問題(4月28・30日日記参照)の対応に追われ、未だ辛労を積んだだけで、実質的には何ひとつ進んでいない。

参った。

しかも、今週末にはバギー松木率いる「尿素」の展示会があるので、そちらにも追われており、気持ちだけが先走ってしまって、何から手を着けていいんだか、もう、何がなんだか、あたふたしてしまっている感じだ。

まあ、そんな訳の分からなさからなのか、とりあえず、ウクレレで2曲も歌を歌ってしまった。トップページに現れるポップアップページから聞けるようにしてみたので、今の僕の煮詰まりっぷりを聞いてもらいたいと思う。

何かの病気だと思うかもしれないが、その通りだ。

そうゆうことで、今日はこんな感じで終わらせてもらう。

5月5日(水)

私、真平が、香港のミュージシャン、Dejayに宛てたラブソングとして歌われる予定だった数々の楽曲を、私が大学のほうが忙しいとゆう事で、私の歌入れ前にバギー松木が仮歌を入れておいてくれたのだが、これが良い。しかも、素晴らしく良い。

仕方ない、真のアーティストは真に素晴らしいものを個人のエゴで無為にするような事はできないので、残りの楽曲は全てバギー松木に譲る事にした。

ただ、ハッキリ言って、悔しい。

確かに、バギー松木も親がギタリストとゆう環境で育った事実があるのだが、私も10年以上も音楽には従事している。しかも、発声と多くの共通点を持つ吹奏楽だ。

悔しい。

だが、一番初めの楽曲「はなまるサイズになっちゃうね(愛の四本)」を今晩リテイクさせてもらう事になった。

銀河・L・ベンダー、ポチョムキン真平、本日、褌そっちのけ、全身全霊を持って歌わせていただく。期待してもらいたい。

最期の収録になるかもしれない。

5月13日(木)

本日をもって、僕もなんとか忙しさから解放された。

まあ、でも、皆さんの忙しさに比べれば、僕の場合は学生の忙しさなので、甘っちょろいと言えば甘っちょろい。でも、ちょっと聞いて頂きたい。

突然忙しさから解放されるのも困りもので、素直に休んでしまえばいいんだろうが、気持ちはなんだかソワソワしてしまって、何も手につかず、何も成せず、落ち着かず、無為な時間が過ぎてしまう。

結局、今日も家に帰っても何もやる事が無いので、日記を更新しようと思えど、ソワソワしてしまって手につかず、テレビを見ようと思っても、テレビを見ない日が何日もつづいていたので、なんだか面白くなく、どうしたものか・・・と考えていた。

だが、この感じ・・・なんだか・・昔に感じたことがあるような・・・

んっ!んんんっ!この感じは!あの多感な思春期の恋!状況は違えど、感覚は似ている!!

何かしなきゃいけない!とゆう強迫観念だけが先行し、実際は何も出来ていない。しかも、何をすればいいんだかもよく分からない。

似ている!

とゆう訳で、往年の青春名画大林宣彦監督の「時をかける少女」を借りてきて見てしまった。

むんんん~。原田智世。可愛い。

今日はそれだけだ。

おやすみ。

5月16日(日)

今日、映画を観に行った。以前からずっと観たいと思っていたソフィア・コッポラの最新作で、アカデミーショーの脚本部門も受賞している「Lost In Translation」とゆう映画だ。

かなり良かった。

東京が舞台になっている事を除けば、言う事無しの映画だった。

ソフィア・コッポラは長編映画はまだ2作しか撮っていないが、一作目の「The Virgin Suicides」は僕の心を捕らえて離さなかった。そして、今回の「Lost In Translation」にも僕はかなり魅了された。

ソフィア・コッポラの映画の一体何が僕をそんなにも引き込むのか。

僕の憧れの全てを詰め込んだような、僕にとっての憧れの出会いや、憧れの人間関係や、憧れの恋や、憧れの別れが、ソフィア・コッポラの映画の中にはふんだんに詰め込まれている。

そして、その中でも僕が一番憧れるのはソフィア・コッポラの映画全体を包み込む甘い気だるさだ。

とにかく、うっとりしてしまうぐらいに僕を魅了するソフィア・コッポラの映画。皆さんにも一度は観てもらいたいと思う。

真平が何を考え、何に基づいて生きているかは、あの映画を観れば分かってもらえると思う。馬鹿じゃないのかと思うのも良いし、気持ち悪いと思うのも良いし、退屈だと思うのも良い。でも、僕はアレがいい。

http://www.lit-movie.com

5月17日(月)

今週末、パーティーがある。

空間演出デザイン学科主催で、どこだかのクラブを貸し切って、なにやら盛大にやるらしい。共通科目の授業内にチケットを配布するらしいので、学校公認のパーティーのようだ。

早い話は新入生歓迎パーティーなんだと思う。

しかし、どうかしている。

確かに、美大だから、他の一般大学とは違うのだろうと思っていた。そして、確かに、一般大学ではあまり見かけないような学生ばかりで、実際に、会話を交わしてみても、どこかおかしいし、教鞭を持つ講師達もなにかおかしい。

まあ、そこまでは予測していた範囲なので善しとしよう。

だが、入学式の時のパーティーと言い、今回のパーティーと言い、学校側が公認とゆうのはちょっとやり過ぎだと思う。物分かりが善すぎる父親のようで気持ちが悪い。

僕はどちらかと言うと押さえつけられて伸びるタイプだ。だから、学校側には規則規則で縛られたい。縛られるからこそ、そこから抜け出す思索にも燃えられるとゆうものだ。

叩かれて、叩かれて、叩かれた振りをして伸びる。

この美大の寛大さ。もう少しどうにかならないものか。。

それか、今回のパーティーをぶち壊す良い方法があるとよいのに。。

5月19日(水)

僕が「Lost In Translation」とゆう映画を観に行った事は先日の日記にも書いたので皆さんご存知の事だと思う。

この映画は東京が舞台になっているとゆう事も先日の日記に書いたので皆さんご存知の事だと思う。

この映画の唯一の欠点が、東京が舞台になっている事だとゆう僕の意見も先日の日記に書いたので皆さんご存知の事だと思う。

では、なぜ東京が舞台になっているのかが欠点なのか?

去年、この映画がアメリカで上映されている時、友人がアメリカでこの映画を観ている。東京が舞台であるから、それなりに日本語の会話が出てくるのだが、アメリカではその日本語に一切の訳が付かなかったそうだ。友人も「字幕が付かないのに意味が分かるのか?」とぼやいていた。

しかし、ここに監督ソフィア・コッポラの意図があるのだと思う。それは題名からしてみても分かる事だ。この映画では別に日本語の意味なんか分からなくてもいい。いや、分からないからこそ、この映画に一層の魅力が出るんだと思う。そして、その日本語が分かってしまう僕らにとってはその魅力がストレートには伝わって来ない。実に残念だ。

とゆう事で、素晴らしい映画であるだけに、日本人である僕にとっては東京が舞台になっている事、日本語が分かってしまう事は欠点になってしまうのだ。

しかし、東京が舞台とゆう事での利点もある。

それは、自分も「Lost In Translation」とゆう世界に存在している一部分なんだとゆう、ある種の共感を得ることができる事だ。

この映画を観る事で、自分の生活しているこの街があんなにも甘く、切なく、アンニュイな世界だったのかと、新たな価値観を与えてくれる事は間違いないだろう。そう言った意味ではこの映画、映画とゆう枠を飛び越え、芸術へと昇華しているとも言える。

しかも、この東京とゆう街をあんなにも甘く、切なく、アンニュイな形で見せてくれるアーティストは今のところソフィア・コッポラしか僕は知らない。

とにかく、東京に住む皆さんは必見だ。

と、まあ、僕なりに大絶賛してみた。

付け加えて、スカーレット・ヨハンソン(主人公=シャルロット)の尻もこの映画の魅力の一つだ。なんせ、のっけから尻のアップだ。(上写真参照)

5月20日(木)

おはようございます。

早朝バイトから帰ってきました。真平です。

ひと仕事終えて、清々しい気持ちで登校しようと思っていたら、台風2号の影響で、東京はあいにくの空模様。もう台風!?

しかも、実は今日、無事終了したはずの褌課題の事で研究室から呼び出しがかかっている。

「前回の「身体とモノ」の課題の事について話があるので、本日、12時10分に空間演出デザイン学科の研究室に来るように」

とゆう呼び出しをうけたのだが、僕自身、呼び出される理由がサッパリ分からない。かなり謎な呼び出しだ。「話がある」とゆう一節がかなり意味ありげに思えて仕方がない。なんだか、不安だけが先走り、今日の空模様のように、僕の心も曇り気味だ。

呼び出されるからには、何かがあるはずだ。そして、その何かは良い事か悪い事かのどちらかしかない。天国か地獄だ。天国は魅力的だけど、地獄はまっぴらゴメンだ。出来る事なら、どっちにも行くことなく、平穏に過ごせればそれでいい。と、考えれば考えるほど学校へ行きたくなくなってくる。

は~。最初から最後まで、辛労続きの課題だ。

褌、恐るべし。である。

5月21日(金)

今、最愛の妻を亡くし、その過程を作品として表現している芸術家に夢中だ。まだ、高村光太郎や荒木経惟ぐらいしか知らないのだが、この二人だけでも、充分すぎるぐらいに、その悲劇的な辛さは伝わってくる。

僕には最愛の妻なんていない。そして、そんな妻を亡くした事もない。しかし、彼らを通して少し分かった事は、最愛の人を亡くす事程辛いものは無い。とゆう事と、そんな絶望的な状況からも人は立ち直る事ができる。とゆう事だ。

そして、その回復のプロセスとして、芸術的表現とゆうものが大きな役割を果たしている。

僕はその絶望の縁からも這い上がる力を与えてくれる芸術表現に、長雨の続いた後の今日のような晴れた朝が否応なしに僕らを清々しい気持ちにしてくれるような、そんな素晴らしい力を感じる。

そして、僕はそんな素晴らしい力に魅了され過ぎて、今日は学校を休もうかと本気で悩み苦しむ。

5月21日(金)

最近、メダカが卵を産みまくっている。

今現在、24個の卵を確認済みで、まだ、お腹が大きいメダカやお腹に卵を抱えているメダカもいるので、卵の数はまだまだ増えそうだ。

しかも、メダカは馬鹿なので、自分で産んだ卵を食べてしまったり、生まれてきた稚魚を食べてしまったりするらしいので、卵は成魚とは離して管理しなくてはならず、ハッキリ言って、このままでは飽和どころか、過密、いや、過剰な状況になる。やばい。

ちなみに、僕の机の上はこんな有様だ。

さて、話は変わるが、今、大学ではようやく生活が落ち着いてきた新入生達が、これでもかと言うほどに友達作りに奔走している。

しかも、大学側でもそれを助長するかのように、他学科との交流会や他学年との交流会が催されている。

要するに色んなパーティーが学内で行なわれている。

美大だから生徒同士、刺激を与え合い高め合うとゆう目的で企画されているのだろうが、何か違うと思う。

そんな企画での薄っぺらい出会いが一体何を生むのだろうか。そして、自分のキャパシティーを超えた人数の友達を作ってどうするのだろうか。友達が沢山いる事が良い事だとゆう妄想に苦言を呈したい。

一度、メダカでも飼ってみて、メダカすら管理できない己のキャパシティを思い知るのがいいと思う。

5月22日(土)

今日は、大学の僕が所属する学科のパーティーだった。

たぶん、皆さんが予想する映画に出てくるような憧れのパーティーに近かったと思う。僕自身、あんなにパーティーらしいパーティーは初めてだった。

出会いアリ、恋アリ、意気投合アリの、かなりオープンで、楽しいものだったんだと思う。

ただ、「だったんだと思う」と言っているだけあって、僕自身、ちょっと味気ないものであった事はお分かりだろう。いや、楽しかったには楽しかったのは確かだ。そして、憧れのパーティーだったのは確かだ。しかし、やはり、味気なかった。

なぜだろうか?

やはり、その場しのぎである事は否めなかった。

そこにつきると思う。

詳しい話は明日しよう。

とりあえず、オヤスミ。

5月24日(月)

ちょっと遅くなってしまったが、先日のパーティーの事後報告をしよう。

大体の印象は先日書いてしまったが、まあ、書いた通りで、楽しかったが、もの足りなかった。僕自身、美大のパーティーだからとゆう期待もあったので、そうゆうもの足りなさを感じてしまったのかもしれないが、24歳の大学一年生にとってはやはり刺激は少なかった。

でも、それは僕自身の問題なので、特に文句とゆう訳ではない。

だが、そんな中でも、ちょっと気になった事がある。これも先日に書いてしまった事なので、重複してしまうが、「その場しのぎの感じ」とゆうのがフロアー内に充満していた事だ。

具体的に言うと、フロアーで交わされる会話だ。

「楽しんでる~?」

「飲んでる~?」

「楽しまなきゃ損だよ~!」

「踊らなきゃ損だよ~!」

なんだこれは?

まあ、パーティーなんだからとゆう意識が働いているからこういった言葉が出てしまうのは分からなくもないが、ハッキリ言って余計なお世話だ。飲みたい奴が飲めばいいんだし、踊りたい奴が踊ればいい。楽しくなかったら帰ればいい。別にそれをしないからといって損ではない。その場しのぎの連帯感を強要するのはやめてもらいたい。世の中、飲まない奴や踊らない奴や楽しくない奴がいるから面白いのに、厳しすぎるかもしれないが、こんな事を人に問いかけるなんて、美大生として薄っぺらすぎる。なっとらん!こらっ!

そんな訳で、僕は一足早く、このパーティーを後にさせてもらった。

明日はこのパーティーの後に起きたちょっとしたハプニングと、そのハプニングが示してくれた本来のパーティーのあり方とゆうものをお話しよう。

おやすみ。

5月25日(火)

昨日の続きで。

不甲斐ないパーティーを一足早く後にした僕は、同じように不甲斐ないと感じて一緒に店を出てきた友人と不平不満を話しながら駅まで歩いた。

彼女はイギリスに二年間も留学していて、その後、やはり二年間フラフラとバイトをして、その不甲斐なさから一念発起して大学受験を決め、一発合格をし、今の大学に来た。僕と同じ特殊系で、僕とも歳が近いので色々と話が合うのだが、むしろ、彼女の方がこのパーティーには不甲斐なさを感じていたようだ。

吉祥寺駅まで、そんな感じで話し込みながら歩き、その彼女とは家が反対方向なので駅で別れ、僕は東京行きの中央線快速に乗り込んだ。

一週間の疲れもあったのか、ぐっすり寝込んでしまった。しかし、運良く新宿で目が覚め、無事に山手線に乗り換える事ができた。

後は、大崎で降りて、ピューっと帰れば、ぐっすり床に就ける。

微かな尿意を感じていた事以外は全てが順調に進んでいた。

山手線で、代々木辺りから、尿意の異変に気が付いた。原宿でちょっとダメかな?と思い、渋谷ではもうダメだ!と思って降りた。

だが、酔いのせいもあったのか、焦りがあったのか、駅構内ではなかなか便所が見つからず、仕方ないので、渋谷の街に出て、そこらのパチンコ屋やコンビニに入ってトイレを探したが、やはり見つからず。

結局、渋谷の街で僕は失禁した。

とても呆気なく、あまりにも突然にやってきた失禁に、むしろ、カジュアルささえ感じた。カジュアル失禁。流行るだろうか?

しかし、足に纏わりつく重く濡れたズボンを引きずって歩いていると、だんだんと切なさが押し寄せて来る。とても嫌な気分だ。

だが、僕はこんな状況を打破する術を知っている。

「楽しんでる~?」

「飲んでる~?」

と言った問いかけは僕には必要ない。楽しむ時は楽しむし、飲む時は飲む。そして、今、この瞬間がその時だと悟った。

街で一番お洒落なカフェバー。

それが、今の僕にとっての最高の舞台だ!と直感した僕は、今まで培ったお洒落カフェバー知識をフルに活かし、渋谷で一番お洒落度が高いと思われるカフェバー「FRAMES」に向かった。

店内は都会の洗練された男女が集い、インテリジェンスな喧騒に満ちていた。そこに、尿で湿ったズボンを惜しげも無く振り乱し、颯爽と席に着く男が一人。視線は独り占めだ。

Party people in the place to be!

本当のパーティーは今ここから始まる。

5月27日(木)

この前書いただけでもまとまらなかったので、今日もまたパーティーの話をさせてもらいたい。結局、三部作となってしまうが、今回で完結する。。。。。と思う。

さて、そもそも、パーティーとは何のために行なうのか?

日頃の鬱憤を晴らすためなのか?可愛い(格好良い)子を捕まえる為なのか?泥酔するためなのか?

僕が個人的に考えるところ、パーティーとゆうものは、自分ないし皆が能動的に何かに取り組んで、その結果、何かを達成した記念や締めくくりとして行なわれるんだと思う。

では、先日のパーティーは何だったのか?名目上は僕ら新一年生を歓迎すし、大学入学達成を自分達と上級生とで祝うパーティーだったんだと思う。名目上はパーティーらしいと言えるだろう。

ただ、その中身と言えば、結局はマンネリ化の様相を見せ始めた学生生活への憂さ晴らしでしかなかったように思う。

「楽しんでる~?」とか「楽しまなきゃ損だよ~!」とかゆう言葉からも分かるように、たぶん、普段の生活があまり楽しくないんだと思う。そして、結果、一過性の憂さ晴らしに華を咲かせる。

ちょっと、これではあまりにも寂しすぎる。仮にも美大生なのに。

そして、実際にこの僕も、渋谷の失禁事件が無かったら。その一過性のイベントに不満を感じつつも、まあまあ楽しんで終わってしまうところだった。

現実での充実が伴わなければ、いくら乱痴気騒ぎをしても、何の前進も無いし、後退とまでは言わないが、それに近い停滞でしかない。

言葉で言うと、ただの正論にしか聞こえなく、は~そうね~、と流してしまう事柄だが、僕は今回の失禁によって、それを身をもって悟ってしまった。この体験は非常に意味あるものだ。

そして、その事実が、今回の一見ネガティブな失禁とゆう行為をとても充実したものへと昇華してくれた。しかも、能動的ではなかったが、実際に自分のやった行為(失禁)によって、ある結果(諸々)をもたらしてしまった。そう、パーティーを執り行う材料までも、今回の失禁は揃えてくれてしまったのである。

そして、二重の意味で結果を僕に与えてくれた失禁を記念するパーティーを一人で行なった。とゆうのが、先日の一連の流れだった。

まさに、

Party people in the place to be!

な一夜だった。

以前、泥酔した上に電車の車内でゲロを吐いてしまい、その罪悪感から、JRに謝罪文を書いて送ったとゆう真面目な友人を僕は知っている。

でも、僕は思う。反省してしまったら、物事はそこまでで終わってしまう。だから、反省する前に、もう一度ゲロを吐いてみればいいんだと思う。

ネガティブな状況にこそ、何か光るモノが必ず落っこちているはずだ。

そう言った意味では、無理にとは言わないが、失禁、オススメだ。やってみると、意外とカジュアルな事に気がつくだろう。

5月29日(土)

最近の知識の吸収と交友関係の広がりは、ここ3年分のそれらに匹敵する。いや、上回りもするかもしれない。

交友関係は別にしても、知識の吸収の面では、どれだけ自分が自分の知的好奇心に無関心だったのかがよく分かる。恐ろしい事だ。

さて、そういった意味では、ここ最近、知的好奇心に関しては爆発寸前の僕なのだが、自分がそういった状態にあるだけに、周りの学生達の冷めっぷりには憤りを感じる事がある。

先日の事だが、クラスメイトがこんな会話をしていた。

「今日の3限は何とってる?」

「うーん、なんだっけ・・・? あっ! なんか女の人の脇の下から仏像が生まれてくるとかゆう授業だ!」

「え~!なにそれ~!気持ち悪いっ!」

「そうなんだよ。あんまり面白くない授業だし、辞めちゃおうかなって思ってるんだ」

「そうだね~」

っと、こんな感じの会話だった。

脇の下から仏像が生まれる・・・・・。なんだか面白そうじゃないかっ!!

とゆうか、実は僕もこの講義をとっている。東洋美術史概説Ⅰとゆう講義で、東洋哲学が東洋美術にどのような造形的影響を与えているのかとゆう事を紐解いてゆく、なかなか興味深い講義だ。

ちなみに、上記の会話の補足をさせてもらうと、釈迦誕生の話で、夫人が白象が胎内に入る夢を見て釈迦を身ごもり、ルンビニー園という花が咲き乱れる園でアショーカの花を取ろうとして手を伸ばした拍子に夫人の右脇の下から釈迦を出産した。そして、生まれたばかりの釈迦は、前後、左右、上下にそれぞれ7歩ずつ歩き、右手で天、左手で地をさし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん:この命はかけがえのない尊いものである)」と言った。とゆうような一連の物語のレリーフ彫刻の説明が、かなり端折られて「脇の下から仏像」とゆう形になったんだと思う。

しかも、この一見突拍子もない話にはインド哲学の緻密な思想の基本的概念が隠されているとゆう一番重要で興味深い事もその時の講義で説明されたのだが、その事には一切触れられていなかった。たぶん彼女はその時には寝ていたんだと思う。まあ、たぶん起きていても右から左へ通り過ぎていたんだろうとは思うが。

人によって関心度とゆうのは違ってくると思うので、彼女にとって今回の話はそれほど興味をくすぐるようなものではなかったのかもしれない。

でも、自身の知的好奇心に気がついてしまうと、あらゆる事柄の関連性に気がつき、その興味の的は際限ないものへとなってゆくはずである。そう言った意味では「脇の下から仏像」はちょっとお粗末過ぎるような気がする。

ちなみに、彼女は女子校上がりの現役生で、地方から東京に出てきたばかりで、現在、会った事もないメル友からプロポーズをされ、周りからはヤメロと言われているにも関わらず、本気でそのメル友と会おうかどうしようか悩んでいるところだ。その理由は、けっこう優しい人だから。とゆうものだった。

確かに、釈迦がどこから生まれてこようと、インド哲学がどんなものであろうとも、今の彼女にとってはどうでもいいことなのかもしれない。この4年間でこんな彼女がどう変わってゆくか優しく見守ってゆきたいと思う。

実は、冷めているとゆうのは僕の勘違いで、熱すぎて蒸発してしまったのかもしれないし。

5月30日(日)

日に日に文章が長くなっているような気がするこの日記。

僕もそうなのだが、たぶん皆さんも、パソコンではあまり長い文章を読みたいとは思わないと思う。ハッキリ言って面倒だし、疲れる。

その上、僕が書く文章と言ったら、読みずらいし、ごく個人的な内容だし、支離滅裂だし、誤字脱字も多い。そして、極めつけとして、最近は長編の様相すら見せるようになって来ている。

なんだか、これほど、最低で最悪なものは無いようにも思えてきた。

しかし、僕のこの反省を覆してくれる人物が現れた。映画監督のクエンティン・タランティーノだ。

「レザボアドッグス」や「パルプフィクション」と言った名作を撮っている彼だが、今回、話題になっている彼監督の「KILL BILL」とゆう2部作の映画はやばい。なんだあれは?

最低で最悪で俗悪で、しかも、ごく個人的で滅茶苦茶なのに、なんだか凄く面白い。

完璧なマーケティングリサーチに基づいて作られたモノよりも、ごく個人的なものをとことん追及し、やっぱり個人的に打ち出していくモノのほうが、よっぽど人に影響を与える事が出来るし、感動を与えるし、魅力的だとゆうことがよく分かる良い例だと思う。

たぶん、それは人間関係の作り方にも当てはまる事で、一般的に通じるような話題ばかりでコミュニケーションをとるよりも、やっぱり、個人的な主張や感覚を話題にした方がよっぽど面白いし、相手との距離も縮まると思う。

だから、たぶん、僕はこのままでいいんだと思う。

別に、この日記を読んでもらう人の事なんか考えず、日々の自身の思い付きをどんどん書いていけばいい。それが、読んでくれる人を楽しませる事が出来る一番の方法なんだと思う。

まあ、この日記はそこまでたいそうなモノでもないとは思うが。。

5月31日(月)

去年の今頃ぐらいに我が町にある立ち飲み屋「肉の前川」がOL達に占拠されつつあると書いたのを覚えているだろうか。実はあの頃から、あるムーブメントが生まれており、今、そのムーブメントがひとつの終着点を向かえようとしている。

「立ち飲みバー」の出現だ。

元々はブルーカラーの労働者達の為に早くて安くて美味くて、一日の疲れや憂さを晴らせる憩いの場として生まれたのが立ち飲み屋だ。

それが、今や、お洒落とゆう位置付けで、OL達に食い潰されれようとしている。

ふざけるんじゃない!ばかやろう!

うだつの上がらないお父さんや、気の弱いおじさんや、気のいいおやじはこれからどこで酒を飲めばいいんだ!お前等の虚栄心を満たすためだけにおじさん達の居場所を奪うんじゃない!

競馬場がトゥウィンクルレースを行い、喫茶店がカフェに取って代わり、居酒屋がカフェバーになり、立ち飲み屋が立ち飲みバーと名を変える。

なにもかもがお洒落の名の下にお洒落好きなどうしようもないOL達に食い潰されてきた。もういいだろ!これ以上奪わないでくれ!

シロガネーゼだ、カリスマだ、セレブだ、イケメンだ、負け犬女だ、勝ち犬女だ、もういい加減にしてくれ!

世界では各地で非道な侵略が行なわれているが、この日本でも例外ではない。OL達の文化的侵略はそこかしこで行なわれ、際限を知らない。

そろそろ、僕達が立ち上がらなければならないと思う。

お洒落スポットと言われる場所の形だけのお洒落幻想をぶっ飛ばし、本来の文化的お洒落を取り戻す!

カジュアル失禁作戦をここに発動する!

皆さんの勇士に期待する!