2005年 1月
1月1日(土)

明けましておめでとう。

バイトから帰還した真平だ。今年もよろしく。

バイク歴9年。自動車歴6年。

こんなに酔っぱらって運転したのは初めてだ。

年明けから、新しい第一歩を歩み始めている。

今年の真平は乞うご期待だ。

1月3日(月)

正月といえば、凧揚げだ。

以前にも書いたが、凧揚げとゆうのは遊び相手が対地球とゆうとても優雅な遊びで、僕ぐらいのクラスになってくるとアクロバティックな操作の追及なんてゆうような小手先の技術を見せびらかす事はしない。

そんなもんは地球に失礼だ。

ただ高く揚げる。

これが俺の凧揚げだ。

噂によると、宇宙まで凧を揚げた伝説の凧師がココ品川にいるらしい。

風船オジサンに次ぐロマンチストだ。

宇宙まで、あと99750m。

1月4日(火)

年賀状の数が人の全てを決めるわけではないけれど、小学生ぐらいの頃、親に来る年賀状が200枚も300枚もあるのを見て、大人になったらアレぐらい年賀状が来なければいけないんだなと、子ども心に思ったものだった。

僕も、もう25歳だ。立派な大人になった。

そして、2005年、三箇日を過ぎて、手元に届いた年賀状は。

2枚だ。

過去最低だ。

仕方ないので、現在、今までの名簿を総動員して、できる限りの知り合いに年賀状を書いている。たぶん、7日過ぎには皆の元に届くと思う。

届いた頃には、もう年賀状なんて返せない時期だ。

年賀状テロだ。

俺に年賀状を出さなかったお前達!今年1年、俺に年賀状を返せなかった後ろめたさを背負って生きるがいい!

そして、今年、俺に年賀状を出してくれた2人!俺はお前達を生涯「アミーゴ」と呼んで敬う事だろう!

1月5日(水)

言葉には形容できない。

昔、僕は何もかもが言葉に転換できると信じていた。言葉で説明できないモノなんか、この世には存在しないと。

しかし、そんなものは眉唾だった。

言葉は愚か、そのモノはそのモノでしか知覚することはできないのだ。

もし、こんな「言語の神話」をまだ信じている人がいるなら、悔い改めたほうがいい。俺が言うんだから本当だ。

だから、物事を本当に理解したい奴は、今後一切、俺に「もっと、ちゃんと説明して」だとか「分かるように言って」とか聞かないでほしい。言葉になんかできないのだ。言葉に落ち着くような終着地点を持った経験なんぞ俺は持ち合わせていない。

いや、実のところ俺にもよく分からねえんだ。事実を本当に知りたいなら、行け!行っちまえ!

1月6日(木)

何もやっていない間は、常に海外のライブチャットに繋がるようになっている。僕のパソコンの言わば「スリープ状態」だ。

↓クリック(広告が出る場合は何度か挑戦)

今さら「俺はエロくない!」なんて言い訳はしないが、一つだけ分かって欲しい事がある。それは、エロ目的とは別の、一種の「憧れ」を持って僕はこのライブチャットを見ているとゆう事だ。

空を自由に飛んでみたいから鳥を飼う、水の中を気持ち良く泳いでみたいから魚を育てる、そんな事と同じ願望なのだ。

つまり、いたって健全な趣向なのだ。

ただ、恍惚の眼差しでこの画面を見つめている姿を親に見られた今日のような日には大変だ。この罪悪感はなんだろうか?

1月7日(金)

今年の尿素君は闇の中から飛び立ってゆく。しかし、尿素君はこのままどこへ飛んでゆくのだろうか?たぶん、尿素君は、ただただ、飛べるだけ飛んでゆくだろう。それが尿素君の飛んでゆく目的であり、目的地なのであるのだろうから。

着地地点が定まらないで飛び出されるのはかなり迷惑だ。尿素君のように迷惑にならない存在なら良いのだが、そうもゆかない。

だから、今年の僕は目的地を決めて飛び立とうと思う。酉年とはそうゆう年なんだと思う。ただ飛べってゆうんじゃない。きちんと操作しないと。

尿素ブースターは往きだけの燃料しか積んでません。

それが、尿素君の強みです。帰って来なくていいからね。ニーハオ。

1月8日(土)

ゴロゴロしている内に過ぎてしまった2005年の8日間。

そんな、年始から余裕たっぷりにウカウカしていた僕はやっと昨日年賀状を書き終えたとゆうのに、再来週からは試験週間に入る。

果たして、こんな状態で乗り越えるのだろうか?

と、一抹の不安を覚えた僕は「これじゃイカン!」と、やっと重い腰を上げ、レポートや課題や試験勉強に全力を上げて取り組もうと思った矢先。自室のストーブが壊れた。

もちろん、買い替える余裕など無い。

築30年程経つ寒風吹き荒むボロ家の、無駄に10畳もある自室は、この時期、もの凄く寒い。だから、やってられん!やってられんのだ!

と、いろんな事のせいにしてみて、せっかく卒業124単位中の62単位が取れる筈の今年の頑張りを全て棒に振ってしまうとゆうのも、なかなか豪快で男気があるように思ったりして、惚れぼれする。

しかし、まあ、そんな事ができていたら、韓国人俳優並にわけも分からず今頃モテモテなっているわけで、やはり、僕は今年もコツコツとソツなくこなすマメな男なのだろう。ダサいな。

うん、ダサい。

1月9日(日)

一昨年の春、同級生が自ら命を絶った。

それは僕らの中で未だに結論が出ずに残っている。

知らない人にとってはどうでもよい事かもしれないが、僕ら一人一人にとってはすごく根が深い事であったし、友人同士でもなかなか共有する事ができなかった事だった。

そして、それが今日爆発した。

誰一人として答えは出なかったし、意見も言えなかった。しかし、その事はこれからの一人一人の人生に大きく関わってゆくと思う。

人が一人死ぬってゆうのはそうゆう事だ。

1月9日(日)

だあ~、ダメだ。

最近、冬になると必ず風邪をひく。ダメだ。

昨晩、色々あったのだが、そのドサクサに紛れて、友人から「タッチ」の最終巻まで借りてきた。

そして、今日は病に伏せりながら、南ちゃんにメロメロになっている。

ダメだ。究極の幼馴染。ダメだ。朝倉南。

1月10日(月)

BBSのリンク。見た?

僕は、ああゆう無防備の人間に対するささやかなイタズラが大好きだ。

あんな馬鹿で平和な笑いは他に無いと思う。

中学の頃は、ああゆう油断を突くイタズラが沢山あって、無防備になりやすい場所ほど、緊張感を持っていなければならなかった。

学校で一番無防備な場所。そう、トイレだ。欺き、騙し、裏切り、貶める。そんな陰謀渦巻く場所がトイレだった。

それ以外にも、トイレはよく不良たちの天誅が行なわれる場所でもあって、なかなかバイオレンスでドラスティックな場面にも出くわしたものだ。そんな意味でも、やはり気が抜けなかった場所だった。

最近、トイレで気を抜いてのんびり小便などをしていると、あの頃の事が、甦ってくる。俺は、いつからこんなに気を抜いて小便ができるようになったのか?こんなに気を抜けることは良いことなのか?こんなことを幸せと言うのだろうか?平和と言うのだろうか?

否!こんなものは仮初めだ!ふざけるな!

世界がこれほど不調和なのに、ココだけが幸せで平和な場所であるわけがない!気の抜ける場所なんてゆうのは、この世に存在しない!させてはいけない!本当に平和な世界がやってきた時に初めてそうゆう場所が現れればいい。

とゆう事で、トイレで俺はやる!初心に返る!皆!気を抜くな!

俺はトイレのプロフェッショナルだ。

1月11日(火)

頭が痛い。ちょっと気を抜くとすぐに体調が悪くなる。

冬は駄目だ。駄目な季節だ。

こんな日は、最低なニュース番組だが、ニュースJAPANのアナウンサーの眠たそうな柔らかい声を子守唄にコロっと寝ちまうのが一番だ。ってゆうか、あんた本当にアナウンサーか?

1月12日(水)

ChristianDior。

現在ではLVMHグループでもMarcJacobsと人気を二分するJohnGallianoをデザイナーに迎え、今まで以上に人気を集める有名服飾ブランドだ。

ChristianDior。

まあ、僕の手元には一生やって来ない代物だろう。

ただ、僕の周りでは大いに現実的な代物らしい。

例えば、こないだのクリスマスでも、ヴィトンかエルメスかディオールか、どのバックを彼女に与えるかで、大いに悩んだ男達が少なくはなかったらしい。

ちなみに、僕の知り合いは、悩んだ挙句にChristianDiorの4万円のパーティー用のハンドバックを彼女に買い与えたらしい。馬鹿げてる。

パーティーって?

ここで、ChristianDiorのデザイナー、JohnGallianoを紹介しよう。

彼だ。ジョン・ガリアーノ。

僕が推測するに、彼はたぶん変態だ。いや、僕でなくても、そう直感する人は少なくないと思う。おそらく変態なのだ。

ただ、彼が変態である事は揺るがし難いのだが、彼の生み出すスタイルも、なかなかどうして、揺るがし難く難解(ガリアーノをクリック!)なのだ。まさに、公私共にアバンギャルドをいったアバンギャルダーがChristianDiorのデザイナー。JohnGallianoなのだ。

そろそろ、お分かりだろう。

彼の嗜好が僕らパンピーの嗜好に合うわけがない。そんなことを悩んだって仕方ないのだ。特に、クリスマスの彼女へのプレゼントにヴィトンかエルメスかディオールかで悩んでいるような輩の嗜好に合うわけがないのだから。

だいたい、ヴィトンとエルメスとディオールと、全くの別なものを持ち出して何をどう考えれば悩めるのか?そっちのほうが悩ましいのだ。

1月13日(木)

課題が溜まってる。レポートも溜まってる。

とにかく、明日までに仕上げなければならないものから片付けていこう。なんて、こんな学生特有の追い込みに右往左往していると「俺も大学生になったんだな~」と、しみじみとなってしまったりして、こんな風に、日記に想いをしたためてしまいたくなる。

でも、物事ってゆうのは、そんなに気楽なものでもなくて、いくら日記に自分の想いをうまく記録できたとしても、現状は何も変わらない。

印象派として生きている僕にとってはつらい事だ。

ただ、こんな日に、タモさんが元気モリモリトークをしている姿を見ると、俺も立ち上がらなければならないと考えさせられる。

現在、正午。まだまだ一日はこれからだ。がんばる事にしよう。

もし今夜、日記を更新するような事があれば、間違いなくそれは課題もレポートも、いや、大学生活さえも諦めた事だと思ってもらっていいだろう。

でも、タモさんの名にかけてそんな事はしない!

1月13日(木)

今夜は日記の更新はしない!と公言したが、書かずにはいられない出来事が起きてしまったので、ここに記す。

ウチの学校が燃えた。

しかも、学園生活の軸となる僕らCクラスのロッカーが置かれた校舎が燃えた。明日までの課題が控える中での火事。たぶん、早めに課題を終わらせロッカーに入れておいた優等生の作品は、最悪、燃えて無くなっている事だろう。

明日、学校が燃えて無くなってしまえばいいのに!

と、昔はよく願ったものだが、25歳にしてその願いが初めて叶ってしまったのだ。まさか、本当に燃えるとは。。。

1月14日(金)

クラスメイトが吉祥寺の駅ビルの一番人通りの多い階段の角で偶然前期の実技課題の先生に出会ったらしい。

先生は何をするわけでもなく、込み合う階段の角で独り孤独にたたずんでいて、クラスメイトは先生に「待ち合わせですか?」と尋ねたらしいのだが、先生は「いや、考え事をしていた」とのこと。

人込みの中に独りたたずんで考え事をする。なんて独特なんだ。

彫刻をやっている先生で、僕は授業の時からこの先生にはけっこう好感を持っていたし、独特な雰囲気を持っている人だなとも感じてはいたのだが、今回のエピソードを聞いて、なおさら興味が湧いてきた。

たぶん、人はこの先生のような人の事を「変だ」とか「変わっている」とか言うのかもしれない。でも、僕はこの先生の姿勢ほど素直で真面目なものはないように思う。同じ価値観の中で競争している人達よりも、よっぽど魅力的だし、面白いと思う。

変なところが一つも無い人間ほど変なものはない。だから、そんな人達よりはよっぽどマシだと思う。

でも、良い変な人と悪い変な人がいるので、変なのが全て良いとゆうわけではありませんよ。

1月15日(土)

レポートを書いていると、結論に凝りたくなる。

婉曲したアプローチから導き出される新しい視点からの結論ほど魅力的なものはないと感じているからだ。

例えるなら「キテレツ大百科」のような、そんなレポートを書きたい。

でも、よく考えてみると、レポートとゆうのはその名前からしてみても、結論を求められるような質のものではないのだ。ただ、事実を観察して克明に書き記せばいいものなのだ。元々レポートとゆうものはそうゆうところで己の真価が問われるものなのだ。

ならば、俺はなぜ結論ありきのレポートに固執してしまったのだろうか?

たぶん「キテレツ大百科」だ。

波状した物語が最後には見事な終焉を持って丸く収まる。毎週、毎週、手に汗握る30分間のスペクタクルは幼いながらも見事と言うほかなかったのだ。

キテレイズムも困ったものだ。

P.S.

とうとう僕も勉三さんと同じ歳になってしまった。しかも、まだ大学生だし、たまに学生服も着たりしている。

まさか!これもキテレイズムの影響なのか!?

1月16日(日)

なんとか明日提出の4科目のレポートを書き終えた。字数にして約1万字。俺もなかなかやるもんだ。

そして、いよいよ明日から試験週間だ。まあ、試験自体に関しては日頃から勉学に勤しんでいる僕にとってあまり問題ではないのだが、試験日程がなかなか問題だ。

月 4限 色彩学

火 3限 東洋美術史

水 3限 西洋美術史

木 3限 英語

金 5限 英語

土 3限 仏語

と、毎日あるのだが、1日1科目の試験しか行なわれないのだ。

しかも、金曜日の英語に関しては試験開始が5限の開始時刻である16時20分なのだ。これでは気が抜けてしまう。

なんだか、もの凄い無駄な一週間のように思える。馬鹿げてる。

早く俺を卒業させてくれ!

妖怪人間達の叫びの意味がやっと分かった感じだ。

1月17日(月)

来週、とある会社の入社試験を受けてくる。

知り合いからの推薦なので、まあ9割方は内定確実だ。

ある時は美大生、またある時はサラリーマン。。。。。

なかなかいいじゃないか!よっし!

そんなわけで、来月からは、学生と社会人の二足のワラジを履くことになる。しかし、これでようやく胸を張って自分の事を「25歳です!」と言える立場にもなった感じだ。一安心。

こうなれば、あとはもう、狙うポストは経理部長の座しかない。

俺も「ブチョー」と呼ばれる日は遠くないわけだ。

武蔵野美術大学1年 経理部 部長 真平だ。

悪くない。

俺の理想の経理部長像

(こうゆう軽快さが欲しい)

1月18日(火)

運転免許証の更新に行ってきた。

バイクで鮫洲の試験場まで10分もかからないのだが、その間に追突事故に遭った。僕は完全に止まっていたので、100%相手に責任があるのだが、追突と言っても、チョコンとバンパーが当たっただけなので、見逃してやる事にした。

たぶん、ちょっと前の僕なら、首が痛いだの、車体に傷が付いただのと言いがかりをつけて、慰謝料だのなんだのとボッタグリにいっていただろうが、なんとゆうか、もうそこまでの元気が出なかった。歳のせいだろうか。

まあ、そんなわけで無事に免許を更新してきたのだが、試験場で加勢大周に会った。講習中もずっと隣りの席だったのだが、なんとゆうか、どうでもよかった。おっ!芸能人!とかゆう元気が出なかった。これも歳のせいなのだろうか。

平成22年と言えば、俺はもう30歳だ。

1月20日(木)

毎日、毎日、1時間半かけて試験を受けに行き、1時間にも満たない試験を終え、また1時間半かけて帰って来る。しかも、定期を切らしてしまったので、交通費が往復¥1200かかる。1週間で¥7200だ。

この負担は、時間的にも経済的にも肉体的にも精神的にもけっこう馬鹿にならない。とゆうか馬鹿げてる。っつうか馬鹿だ。

もう、何が馬鹿なのか、馬鹿の所在はどこなのか、そんな事を考えるのも嫌なほど馬鹿げてる。

ところで、先日、メダカの水槽の水を取り替えようと、メダカ達を別の容器に移し替えていたら、一匹、片目の取れかかっているメダカを発見してしまった。

なにか、もの凄く見てはいけないものを見てしまったような、そんな不気味さとゆうか、おぞましさとゆうか、ハッキリ言って気持ちが悪かった。

そして、僕はその気持ち悪さから逃れる一心で、そのメダカを庭にある水草用のバケツに移したのだ。たぶん、餌をやらなければ、この寒さだし、自然に死んでしまうだろう。春になれば、きっと僕の記憶と共にそのメダカも跡形も無く消えて無くなってしまうだろう。そう願った上での行為だ。自らの手を汚すわけでもないし。

でも、もしかしたら、春になってもそのメダカは生きていて、もしかしたら、そんな事を忘れてそのバケツを覗きこんだ僕は、きっと、何か取り返しのつかないような、そうゆう気持ちになるんだと思う。

その日以来、僕はずっと妙な後ろめたさを常に感じて生活することになった。忘れようにも忘れられないあのバケツ。玄関を出る度に視界に入ってくるあのバケツ。

そして、とうとう、僕はある恐ろしい計画を思いついてしまったのだ。

バケツの中の水と一緒にメダカごと庭に撒いてしまおうと。

そして、いざ、計画に着手しようと、バケツを持ち上げたその時だった。小さな黒い影が水面に浮かんできたのだ。

そこには、全ての器官が収まる所に正常に収まった五体満足なメダカの姿があった。なんで?

馬鹿げてる。

今まで俺の引きずっていた罪悪感や背徳感は一体何だったんだ?

目が取れかかっているのに正常に戻るメダカもメダカだ。馬鹿だ。

全部がうんこだ!

1月21日(金)

最近、ブログ(Blog)とゆうものが流行っているらしい。

確かに、ネットウェーブをサーフィンしているとよく出てくる単語で、以前から気になってはいたのだが、何のことかサッパリ分からなかった。

そこで、さっそくググッて(Googleでの検索行為)みた。

なんて、インターネット用語を使ってみたりして。

Googleによるブログ(Blog)定義によると、

Blog――(weB LOG)

ブログとは基本的にウェブ上で閲覧できる日誌である。典型的なブログは、技術的な知識をほとんど、あるいはまったく持っていない人にもブログを更新・維持することができるようなソフトウェアを使って日々更新される。ブログへの投稿は、たいてい時間の逆順に並べられ、最新の追加が一番目立つようになっている。

とゆうのがブログ(Blog)とゆうものらしいのだが、これって、僕がやっているこの毎日の日記更新作業も立派なブログ(Blog)になるではないか!

なんか、腑に落ちない。

三年前から個人的な行為を個人的に言語化し表現しコツコツとやってきたものを、流行だからといって簡単に一般的な言葉で語られるのは不満だ。しかも、奴は造語だ。ふざけるな!

たぶん、僕のような姿勢で今までWebの管理運営をしていた人は沢山いると思う。そして、ある日突然、今まで積み上げてきた行為をぽっと出の造語に概念化されてしまったわけだ。こうなってはもう個人でやる意味なんか無くなってしまったではないか。自由だからやってきたのに。さぞかし皆さんの不満もひとしおなのではなかろうか。

と、まあ、だからと言って、概念に支配された!なんて思う人はいないとは思いますが、なんか、もう、なんでもかんでも分かり易く概念化する傾向ってもう止めてもいいのではないかな?と思うのですが、いかがでしょうか?

ちなみに、ブログ(Blog)を運営している人達に不満があるとか、そうゆう事ではありませんので、ほんとに。

1月23日(日)

友人から聞いた話だが、京大の学内に学長だかなんだか、とにかく偉い人の銅像があって、その銅像が一夜にして力石徹像に作り変えられていたとゆう事件があったらしい。

詳しい経緯はよく分からないが、その銅像ってゆうのが、過去にも「ケンシロウ」や「ナウシカ」や「ゴルゴ13」といったキャラに作り変えられたり差し替えられたりする事件に遭っているらしい。なんか、すげえ。

クリック↑

一見すると侮辱的で卑劣な事件のようにも思えるが、立体物を作る人間として一つ言えることは、生半可な気持ちではこんな悪戯はできないとゆう事だ。

俺もこうゆう姿勢は見習いたいと思う。

とても小粋だ。

1月24日(月)

僕はけっこう軽口を叩く。

良くない事だとは思っているんだけど、経験の甘さからなのか、馬鹿だからなのか、つい口にしてしまう事が多い。いけない。

詳しく言うと相手の素生が分かってしまうし、いろいろ語弊も出てくるので言わないが、今晩も軽口を叩いてある人をとても不愉快な気持ちにさせたような気がする。いや、あれは不愉快だったと思う。

言ってみてから気がついた。いけない。

仲が良くなっているのだから、気を遣うのもなんだけど、あまり、適当な事を言うのもまずい。

分かっているのだけれど、そのボーダーラインってとても繊細で、しかも個人の意図しないところで発生したりもする。もの凄く難しい事情だ。

風呂に入るか入らないかぐらい緊張感のある事柄だ。

これからは、重い責任を持って軽口を言う事にしよう。

1月25日(火)

誕生日からそろそろ一ヶ月になる。

誕生日が年末なので、今まで、祝われる事って少なかったんだけど、なんか、年が明けてから色々な人が僕の25歳を祝ってくれて、プレゼントまで頂いてしまっている。

なんとゆうか、25年間生きていて、こんなに多くの人が僕の誕生日に注目してくれて、プレゼントまで頂いた経験は今までなかった。

これは率直に嬉しい。うん。嬉しい。

ありがとうございます。

誕生日とは関係ないんだけど

祝いには歌がつきものなので

うちのクラスのミニマムデュオです

でも、心の貧しい僕は、もしかしたら、皮肉で祝われてるのか?なんて情けない妄想にかられてしまったりもしたりして、、、情けない。

緊急報告

私、真平は本年度をもって、この慣れ親しんだ品川から出る事になった。経済的な問題から言って、たぶん、学校近辺で一人暮らしをする事になると思う。シティーボーイからサバーバンへ、だ。

まあ、もう25歳なのだから親元を離れることなんかあたり前の話なのだが、慣れ親しんだ安心感や地理的な利便性や長年培った人間関係に25年間もドップリと漬かっていたせいで、自立しなくてはいけないと思いつつも、なかなか踏み出せないでいたのが実情だった。

今考えると実に情けない。いや、甘かったのだ。

とにかく、もう決まった事は仕方ないので、荷物をまとめて出る。

それだけだ。

簡単に言うなら、地元の皆さん、しばしさようなら。学校の皆さん、しばしこんにちは。と言ったところだろう。たいした事はない。宇宙の果てに行くわけではないんだし。ましてや、東京から東京なのだから。

でも、さようなら品川。

品川にいない自分なんて、ぜんぜん想像できない。

春から僕は一人きり♪

場合によってはこのホームページも本年度中で閉鎖とゆうかたちになるかもしれません。なんせ、金が無いのよ。

1月26日(水)

入社試験と面接を受けに池袋に行って来た。

実際に勤務するのは五反田なんだけど、本社が池袋なので。

地理的に池袋ってゆう街には特別な用事が無い限り行く事が無いのだけれど、大学に入る前に半年ぐらい通っていた予備校が池袋だったから、予備校以外の池袋は何ひとつ知らないけど、池袋にはちょっと特別な思いがある。

池袋みたいな汚い街は嫌なんだけど、閑静な郊外よりはこんな汚い街のほうが大好きで、実際に僕の想い出はこんな都会の汚い街の中にあるわけだし、はっきり言って居心地が良かったりする。

そうゆう事を考えると、例えば、田舎から都会へ出てきた時の空虚感ってゆうのはいろんな人がいろんな所で口にするけど、都会から郊外や田舎へ出てゆくほうがよっぽど空虚な気がするのは、僕がそうゆう状況に置かれているから思うだけのことなのだろうか。

なんて、ちょっとビビッてみたりして。まあ、可愛い猫でも飼おうと思う。

1月27日(木)

以前、Blog(ブログ)とゆう言葉にみられる安易な概念化に対して「そりゃいかん!」と一刀両断した真平ではあるが、最近、そうゆう一刀両断系お笑い芸人が流行っているらしく、ちょっと反省気味であったのだが、そんな反省も束の間、なんだか、また新しい言葉をよく耳にするようになった。イート?ミート?ニート?

NEET【Not in Employment, Education or Training】

いわゆる「引篭もり」と言われていた人の事を指す言葉らしい。

なんだか、とっても分かりにくい。As Soon As

PossibleをASAPって略す外人ぐらい分かりにくい。まあ、構造的にはそうゆう単語なんだけど、そんなもん、日本男児の俺には分からん。

しかし、そんな分かりにくさも早々に、今日もJ‐Waveでは「ニートは本当にダメなのか?」なんて事をテーマにリスナーから意見を募集していたり。本当にJ‐Waveって横文字が好きだ。日本FMなのに。

まあ、つまり、僕はこの「ニート」って言葉も気に入らないのだ。

むしろ、Blog(ブログ)のほうが、新しい領域に対した造語とゆう意味で、まだ正当性があると思う。いくら外来語であっても、その成り立ちは頷ける。嫌だけど。

しかし、「ニート」ってなんだ?「引篭もり」って言葉があるのに、なんで置き換えちゃうんだろうか?そうやって、ネガティブな社会的要素を言葉を置き換えてしまう事で、社会的な一要因としてソフトに形骸化していってしまう事になりかねないような、そんな事に末恐ろしさを感じるのは僕だけか?

J‐Waveの「ニートは本当にダメなのか?」みたいなテーマで、結局「ニートはダメだ」とゆう結論に至る。それで終わりみたいな。そんな事になりかねないような。気持ち悪さ。

話は変わるけど、今は亡きレイ・チャールズから音楽のハウトゥーを直伝されたクインシー・ジョーンズってゆう名音楽プロデューサーがいて、その人が大島渚監督の「愛のコリーダ」ってゆう阿部定事件をモチーフにした映画に共感して作った曲がある。その名も「Ai

No Corrida」。

超70sソウルなダンスナンバーで、サビの部分で普通に「アーイノ♪コリーダ♪」って歌っている。でも、もしこの曲が「Last

point of love」とか「Love of end」とか、英語はよく分からないけど、そうゆう風に訳されちゃったりしていたら、いくら「愛のコリーダ」に影響された曲でも、それはそれ、これはこれ、みたいな感じになっちゃってたと思う。いくら良い曲でもね。

だから、今回の「ニート」問題につなげるとだね、つまり、言葉は適切に選べ!って事かな。だめ?大雑把すぎ?

だって、「愛のコリーダ」にしてみると、阿部定事件が回り回って黒人文化にぶつかって、あんなにソウルフルになっちゃって、唖然としつつも、確実に影響されてる事が分かるじゃん。

深みを持ちつつも広がって動く言葉選び。難しいけどね。

でも、止まったら死ぬし、面白くもない。意味だけの言葉にならないようにって事で、どう?

1月30日(日)

僕は煙草を吸う。

初めて口にしたのは小4の時だけど、日常的に吸うようになったのは高2ぐらいからだったと思う。

最近は分煙なんて言って、喫煙者は肩身の狭い思いをしているし、ゆくゆくは、もっと喫煙者を孤立させて、たぶん喫煙とゆうもの自体を無くす方向にもって行かれるのかもしれないけど、僕はあまり気にならない。とゆうか逆に嬉しく思ってる。

なぜなら、喫煙所が孤立を深めるにしたがって、更に喫煙所が喫煙所らしくなってきているからだ。むしろ、孤立とゆうよりは独立なんじゃないかな?なんて思えるぐらい、ものすごくインディペンデントな雰囲気を文化的に深めつつあるような気がする。

特に、喫煙所での人々の会話は、一見すると愚痴のようにも思えるんだけど、なかなか表立っては言えない本心であり、望みであり、夢であると思う。しかも、その実はとても真剣で切実で真面目なのだ。

こんな社交の場所は今現在喫煙所以外には存在しないと思う。

そして、この、いわゆる「本音トーク」とゆうものがこの分煙ブームに乗じて、更に過激に、更に密に、質量共に興味深い方向へ、行動力を伴って発展してゆきそうな気が個人的にする。

まあ、こんな風に喫煙所を眺めていると、革命ってゆうのはこうゆう所から起こるものなのかもしれないなあ、なんて気分になる。

喫煙者革命でも目指すか。

1月31日(月)

そっか!俺は3月一杯で辞められるんだ!

なんて事を考えながら、日々の会社業務を遂行する真平です。

まあ、なんとか仲良く話せる人も見つかり、日々頑張っている仮社会人真平なのですが、まったく、実に、何の変哲も無い普通の一般企業なので、やはり、個人的な話、特に美術の大学に在籍しているなんて事をポロっと話した日には「?」です。

で、何?絵が好きなの?芸術家になるの?学校で何やってるの?それをやるとどうゆう資格が取れるの?なんでこの会社に来たの?なんてゆう質問が次から次へと来るわけで、かと言って、それをうまく説明しようとしても、なかなか理解して貰うのは難しく。

まあ、仕方ない。

ただ、学校では最年長の僕ですが、今の会社ではダントツの最年少!

周りの人がとても親切に面倒を見てくれるので、それだけはとても良い気分です。

でも、良い事はそれぐらいしかありません。