2005年 3月
3月1日(火)

病、まだ完治せず。だが昨日よりはいくらか楽にはなってきている。

仕事は普通に休日なので、今日は気兼ねなく休めるが、明日からはさすがに通常勤務に戻らないとまずいので、今日は気合を入れて養生している。さっきの食事で今日6食目に突入だ。

最近、僕はmixiと呼ばれるコミュニティーサイトに参加し始めた。

このサイトは友人からの招待が無ければ参加することはおろか内情を知ることすらもできない、なんとも秘密倶楽部的なサイトなのだが、蓋を開いてみれば、実に健全な、言わば「あいのり」的なコミュニティーサイトだ。実にチャラい。

ただ、チャラいはチャラいのだが、コミュニティーサイトなので一般的なサイトに見られがちな匿名性は薄く、その辺には潔さを感じる。まあ、その潔さが、チャラさをかもし出している原因なんだとは思うが。

僕が今まで生きてきて感じていることの一つに、中学卒業以降にある一定規模のサークルなり部活動なりの団体に所属したことのある人間で、そこに一瞬でも一生懸命になったことのある人間ってゆうのは、ある一定のチャラさを持っている。特に男女混合のコミュニティーに属した人間は最もチャラい。

それは、地元から離脱した社会の中で、自らの行動と責任で形成した関係性に対する自信と自らのアイデンティティーの再構築から来るある種の傲慢さに由来しているんだと思う。

つまり、僕らの世代の言葉で分かりやすく言うと「高校デビュー」乃至「大学デビュー」を果たした人間とゆう事になる。ある一定の「デビュー」を果たした人間のチャラさ。それがコミュニティー特有のチャラさだ。

ある意味での安心感がチャラさにつながるのだ。

だから、俺は一生チャラくはならないだろう。なぜなら、どこにも安心などしないからだ!

チャラいのがいけないと言ってるわけではない。俺はそうなりたくないと言っているだけだ。

「健全で安心感のある居心地の良いコミュニティを醸成」などと謳っているが、出会い系サイトなんだろ!トップページからしてチャラい!

ただ、仄かな期待をしている自分がいる事も確かだ。

3月2日(水)

風邪完治せず。

職場の方に感染してはいけないので、マスクを着用しながら業務遂行。

風邪の事など忘れて働く。

しかし、気が付けば、マスクの中は鼻水でベトベトになっていた。

尿を漏らした時のような嫌な感触が口元全体を覆う。

その時、

「真平さんお昼行きましょうよ」

しまった!飯か!マスクを取らなければならない状況になる!

もはやこれまで。

さらけ出した。全部さらけ出した。

職場では、妻夫木君に似てる!とか言われ、チヤホヤされていたけど、そんなのもういいよ。俺のビロビロの鼻水を見てくれ。

が!なんかスーっと引いてた。サラサーティーみたいに何もなかった。

むしろ、サラサラしていた。良かった良かった。。。

まてっ!?まさかぁ!?俺はサラサーティーをしてたのか?

普通のマスクだった。良かった。

そんなわけで、今日は凄く不思議な日だった。メルヘンチックとゆう言葉はこうゆう時に使うんだろうか。メルヘン。

3月3日(木)

明日は引越し先としてピックアップした物件を何件か見に行こうと思っていたのだが、大雪らしいので断念。まあ、気の進まない事柄は往々にして遅れるもんだ。仕方ない。雪だるまでも作ってやろう。

さて、話は変わる。

世の中には、口癖のように「忙しい」と言っている人がいる。あと「時間がない」と言っている人もいる。まあ、本人が言うのだがら実際に忙しいのだろうし、時間もないのだろう。

でも、それって、凄くツマらない。

面白いとかツマらないとかの問題ではないけれど、そんな事を言われた方にしてみたら「あー、そー、タイヘンだねー」としか言えないし、会話を膨らまそうと努力をしても、結局下らない苦労話に付き合わされてしまう。まあ、ツマらないのだ。

あと、侮ってはいけないのが、そうゆう言葉を口にする奴が特有に持つダークサイドの吸引力だ。気が付くと自分まで「時間がない」とか洩らしていたりする恐怖。奴らの吸引力は意外と強い。

だから「忙しい」とか「時間がない」とゆう言葉を使う人間には細心の注意をはらって付き合うようにしている。そうゆう言葉を発音した時点で自分が受け身になるからだ。

もし俺が「最近忙しくてさー」なんて口にしていたら、頬を思い切り殴ってくれ。ダークサイドから抜け出す道は鉄拳制裁しかない。



本当に忙しくて時間がない人達

それは自分の意思と責任で好きなことをやっている人達だ

ちなみに、口癖のように「金がない」と言っている奴には、金がなくて何も出来ない奴と、金がなくても何かやっている奴と、2つのパターンがあるのでよく見極めろ!

3月4日(金)

中学の校庭には大きな椎の木が堂々と立っていた。放課後になると、その周りの石垣に不良の先輩達がよく溜まっていて、僕はその光景をいつも教室の窓からホウキ片手に眺めていた。

不良達の動向も気になるところだったけど、一番興味を引かれていたのは、不良の周りにいる魅力的な女の先輩達だった。見惚れていたのだ。

魅力的な女性ってゆうのは危ない所によくいるもんなのだ。

だから、僕は日頃から魅力的な女性の密度の高い場所では注意をしている。そこが極悪な場所である可能性が高いからだ。実際、何も分かっていない奴がそうゆう場所で調子に乗って、奈落の底に落とされる光景を何度か目の当りにした事がある。

でも、そうゆう緊張感の中で見る美しい女性とゆうのもなかなか惹かれるものがある。デンジャーとセクシャルは同義的なのだ。



魅力的な半ケツの婦女子がこんなに沢山いる。

俺が判断するにココは相当ワルい場所だ!

3月5日(土)

世の中には良いヒエラルキーと悪いヒエラルキーがあって、きっと、スノッブなヒエラルキーってゆうのは僕の中では悪い方に入る。

ただ、それも仕方のない世の中なのだ。

優しい僕はそう思う。

3月6日(日)

感化される事は自分がスポイルされる事だと考えていた僕は、毎晩見る夢にさえも感化の兆候がないかとチェックしていた時期がある。

何かにもの凄く脅えていたんだと思う。それこそ、実にスポイルされきっていた。今思えば、感化されるぐらいの余裕があってこそである。

ただ、そこまでストイックだった自分にも少し憧れてみたりして。

3月7日(月)

容姿はそれほどズバ抜けているわけではないけれど、立ち振る舞いが妙に魅力的な女子がいる。

なぜか?と考えた時、そこにはスカートがあった。

最近はズボンを履く女子が増えている。動きやすいし楽なのだろう。でも、やっぱり女子はスカートだ。キュロットも認めない。スカートなのだ。

高校の頃、初めてスカートをはいた時の事を思い出す。

あんな無防備な腰布一枚で、よく女子たちは平気な顔をしているなと感心したものだ。あんなに不安で落ち着かないものはない。

ただ、それを履きこなしてこそ一人前の女子なのだ。

もちろん、スカートの丈の長さに応じてそのレベルも変わる。

3月8日(火)

一定の権限、特にその権限の拘束力が強く、その権限が与えられたものであった場合、その権限を行使できる人間とゆうのはアホになるものなのである。

つまり、警察だ。

小さい頃は正義の象徴として憧れる側面もあったが、今まで僕は取り締まられた経験しかない。犯罪も何もしていない一市民がなぜ取り締まられなければならないのか?しかも、本当に助けて欲しい場面ではまったく機能しないのが警察だ。僕は今までそうゆう動かない警察を何度も目撃した事がある。かなり酷いものだ。

そのくせ権限は行使する。かなり手に負えない。無くなっても支障ないんじゃないかと思う。

つまり、何が言いたいのかと言うと、僕は今日も取り締まられたのだ。

特に罪を犯したわけでもないのに、突然、怒鳴られるわ、説教はされるわ、口の匂いは嗅がれるわ、おだてられるわ(警察は取り締まった後には必ずおだててくる)。ハッキリ言って、非常に不愉快だった。そして、今も不愉快なのだ。

心の底から腹を立てるとゆう事があまり無いのだけれど、流石に今日の不条理さには腹が立った。

あの組織は解体したほうがいい。所属する人間も腐れば、被害を被る人間も腐る。人間を腐らせる組織だ。ヤクザの方が話が分かるぶんまだマシだ。

3月9日(水)

生ぬるくなってきた。もうすぐ春がやってくる。生ぬるい季節だ。

僕は春が苦手だ。

人間関係の始まりはいつも生ぬるい。その生ぬるい出会いの始まりが春だ。「どこ住んでるの?」から始まるあの生ぬるさ。季節の生ぬるさと相俟って僕には耐えられない。

最初から尖っていてもいいじゃないか。

3月10日(木)

やはり春は苦手だ。

何もかもが変化するようで、やはり変化していく。

それは、僕自身でもあり、周囲の状況でもあり、環境であり、人々であり、季節であり、つまり、全てが変化してゆく。

僕は今まで、変化する都市の中で、自分も変化しているような錯角の下、日々の生活を営んでいた。しかし、その弱さは自身の目の前で状況が劇的に変化する春とゆう瞬間に露呈する。

ハッキリ言って怖いのだ。自分の中で何かが変わってしまう、何かが変わろうとしてしまう瞬間が怖いのだ。それが自分で選択したものであればあるほど恐ろしい。

まあ、始まってしまえばなんとかなるんだけどね。うん。

でも、始まるまでは足掻いて、悩んで、寝る前にベットの中で何度も寝がえりをうつ。俺はそうゆうのび太のような人間だ。

追記

新しく生活を始める物件を見てきて、中学の頃に暗記させられた平家物語の序文が頭を過ぎった。あれは変化を嘆く歌だと教えられたが、本当は変化を尊ぶ歌なのではないかと今の僕にはに思えてならない。

3月12日(土)

世の中には唖然とするほどアホな奴が存在する。

例えば、僕の友人には本当にアホで、替え玉までして自動車の運転免許証を取った奴がいる。でも、彼はアホなので赤信号で車を止める事ができない。冗談抜きで本当に止まれないのだ。もちろん、停止線でも止まれない。あまりにも酷いので、一度「なぜ止まれないんだ?」と訊ねた事がある。彼は「赤信号や停止線は見えているのだけれど、ついつい忘れちゃう」と照れながら言っていた。つまり、アホなのである。

ただ、アホはアホなりに優れた部分があるもので、彼の言語能力はケタ外れに秀でている。たぶん、書けない漢字は無いと思う。それ以外にも、的確な語呂合わせや、あだ名などの命名にも優れた能力を発揮する。たぶんラップなんかをやらせたら凄いと思う。

でも、やっぱり彼はアホなので、その能力をうまく活かすことできない。

これは僕のアホ友達の一人だが、これ以外にも僕の周りにはほんとにアホな奴が数多く存在する。でも、僕はアホな奴が大好きだ。なぜなら、彼らは本当にアホだからだ。

ミック・ジャガーはたぶん相当アホだと思う。

そして、ニューヨークに行く僕に「ミック・ジャガーのサインを頼む」と色紙を持たせようとした友人も相当なアホだ。

ミック・ジャーをトラの一種だと思っていた友人も相当アホだが、ちょっと面白かった。

3月13日(日)

僕にはバリバリのデス系音楽が大好きな、物静かな友人がいる。

彼はサプリメントと野球をこよなく愛する青年で、いつも背負っているバックパックの中にはサプリメントと野球の解説書が入っている。でも、今まで野球をやった事はないらしい。

音楽の話題だと、ようやく話が合うのが灰野敬ニや吉田達也なんかの、いわゆるノイズと言われているミュージシャンで、その他のミュージシャンの話をされても、僕には全然分からない。でも、彼は僕に会うといつもデス系音楽業界の行く末や今後のイベント情報を熱心に語ってくれる。目を合わせずに黙々と語る彼の姿にはとても好感が持てる。

そんな彼は、こないだ行なった僕のライブにも来てくれると約束してくれていた。嬉しかった。僕は彼の姿が会場に現れるのドキドキしながら待っていた。本当に、あの時のライブで一番緊張するお客さんだった。

でも、結局、彼の姿を会場内に見つけることはできなかった。なんだか、凄くショックだった。

でも、さっき彼から電話が来た。「こないだのライブ良かったです」とゆう感想の電話だった。良かった。。。何より嬉しい言葉だった。

しかし、一体どこにいたんだろうか。

でも、本当に信頼できる人間とは、こうゆう人のことなんだと思う。

昔、胴上げをされた事があるが、信頼のもてない人間達に上げられる胴上げほど恐ろしいものはない。

3月14日(月)

この歳になると、キャバクラやおっぱいパブ、ちょっと金があると性感マッサージやソープやイメクラなんてゆうのは男として当然のアミューズメントコースになっていて、友人と飲みに行くと「じゃあソープでも行くか!」なんて話になる。

しかし、僕はソープはおろか、キャバクラすら行ったことがない。今まで、女性がサービスしてくれるお店には一度も足を踏み入れたことがない。

だから、そうゆう時は「俺は明日早いからちょっと」なんて言って先に帰る。

興味はある。今なら金も無いわけじゃない。

でも、金で女を喰らうとゆう行為がどうも解せない。ぜんぜんスマートじゃないじゃないか。しかも、人間性を抜きにしてそうゆう濃密な行為に及ぶ神経が理解できない。そりゃあ俺も男だから、多少なりともその快楽は想像できるが、金を払ってまで行く気にはなれない。

なんて、ちょっと嘘をついた。本当は怖いのだ。

実は、日本では行ったことはないのだが、アメリカでストリップに行ったことがある。キャバクラとソープを兼ね備えたようなストリップだ。

別に、変な事に使ったわけじゃないけど、財布に入っていた150ドルが帰る頃には無くなっていた。自らの衝動を抑えるために、白人の揺れる裸を見ながら、高くて不味い酒を呷りまくったのだ。指を絡ませてくる半裸の白人を横目に、高くて不味い酒を呷りまくった。

欲望と理性の葛藤の末、150ドル分の酒のおかげで、なんとか理性が勝利をおさめる事ができた。いや、むしろ酔いつぶれて何もできなかったのだ。後悔が目に見えている衝動を酒の力でねじ伏せたわけだ。

でも、もの凄く不安だった。もしあの時、50ドルしか持っていなかったら、20ドル分の酒でほろ酔いになって、、残りの30ドルでプライベートルームに入っていたと思う。そして、今の僕はいなかったと思う。たぶん、会社も辞めなかっただろうし、大学にも行こうと思わなかっただろうし、一人暮らしをしようとも思わなかっただろう。それぐらいの事が関わってくるような気がしたし、今でもしている。

後悔するのが目に見えているような衝動に突き動かされてしまうジレンマ。そうゆう人間の危いダークサイドを初めて体感した夜だった気がする。偽善的かもしれないけど。僕はあの状況になれてしまうのが怖かった。

あの夜の帰り道、僕は多くの人がいるのも構わずに、街のメインストリートで思いっきり放尿をした。独立記念日の爽やかな初夏の風が心地好い夜。僕なりの勝利の雄叫び。あれから僕は酒を飲むと所構わず放尿するようになったのだ。

金を出して女を抱くんだったら、俺の放尿をいくらでも無償で見せてやろう。

なぜなら、俺は金で女を貪る事が怖いからだ。怖い事には小便を洩らす。

3月16日(水)

例えば、酔っぱらっていて、例えば、一人で歩いていて、例えば、春の到来を感じさせるような暖かな夜の場合。僕の気持ちはどこにも行き場がなくて、結局、道の真ん中に尿を放つ。

例えば、それが警察官に見つかって、例えば、交番に連れて行かれた場合。それがたまたま美しい三日月が浮かぶ昨日の晩だっただけの話。世間に対する認識が放った尿の量だけ身に染み込む。そんな夜がたまたま昨日だった。

例えば、これが尿から糞に変わる場合。きっと僕は新たな段階へ足を踏み入れる。そしたら地中海に浮かぶ島、Ibizaに行こう。今の僕のささやかながらも大きな夢である。

3月17日(木)

例えば、子ブッシュに焦点を当てた時。

僕らはイラク戦争の悲惨な実態や子ブッシュ自身の愚かさを親ブッシュの頃よりはずっとよく知っている。でも、石油の利権だとか、日本の立場だとか、僕らには途方もなく関係ない利害関係を、優しい僕らは親身に思いやり、子ブッシュを柔らかく支持する、乃至、積極的には拒絶しない。

だから、今日も元気に子ブッシュはステーキを食うし、優しい僕らも安心して柔らかいステーキを食う。

これは、ある意味で、とても良い世の中じゃないかと思う。ステーキが大好きな僕らにとってはこの上ない世の中だ。

でも、僕は肉が嫌いなので遠慮しておく。血生臭いもんは好かん。

3月21日(月)

一生「のほほん」と過ごしていたいと願う天邪鬼が、いよいよその願いを現実化すべく動き出す。

出発地点は恋ヶ窪。国分寺市。

今までに見たこともないような巨大イトーヨーカドーが堂々と鎮座する。それ以外には何の取り得もない町から計画は始まる。出発地点としては打って付けのゼロ地点。ここから真の「のほほん」に向けて出発する。

まず、最初の試練は、いかにして恋ヶ窪とかゆう未曾有のワケ分からん土地から抜け出すかとゆう事だ。なぜなら、こんな土地に俺の考える「のほほん」は存在しないからだ。

これで、パリにも早稲田にも心の底から行かなくてはならないとゆう気になってきた。自分に対する使命感だ。

ネガティブな環境は時としてもの凄い向上心に変換されるものだ。

3月22日(火)

職場のある西五反田には「かむろ坂」とゆう名の坂がある。春になるとこの坂は見渡すかぎり桜色に染まり、胸が痛くなるほど可憐で美しい坂に変わる。

話は三百年前にさかのぼる。

若くして人を殺め江戸へと逃げてきた白井権八は江戸へ出てからも金のために数々の人身悪事を重ねた末とうとう捕まる。権八が捕まった事を聞きつけた恋仲の遊女小紫は鈴ヶ森の刑場へ連れていかれる権八の後を追うが鈴ヶ森にたどり着いた頃には時既に遅く権八は亡き後だった。嘆いた小紫はその場で自害する。

その頃、小紫の禿(かむろ)は突然飛び出した小紫を心配して後を追うが、小紫を想うあまりに無防備になっていたせいか、途中、暴漢に襲われてしまう。そして、禿(かむろ)は暴漢たちに辱めをうける前に目の前の池に身を投げてしまう。1679年12月5日(延宝7年11月3日)の出来事だ。

後に、禿(かむろ)の死を哀れんだ村人は身を投げた池に続く坂を「かむろ坂」と呼ぶようになる。

胸が痛くなるほど可憐で美しく、哀しい話だ。

権八は、極悪非道な罪人とされているが、人情、優しさに富む彼特有の魅力を持ち合わせていたとも言われている。遊女小紫は遊女ながらも純真で一途な心の持ち主だったそうだ。

この坂もそろそろ桜色に染まる季節。

僕は明日も元気一杯この「かむろ坂」を下って職場へ向かう。300年前にこの坂を駆け抜けた二人の健気な女達のように、桜色のアーチの中を一直線に駆け抜ける。

禿(かむろ)

太夫などの高級遊女の身の回りの世話をする10歳前後の少女。

後に遊女となる身。

3月23日(水)

大学が休みに入ってから、もうすぐ2ヶ月。

もはや僕の中には自分が学生であるとゆう意識は無い。とても鋭利な刃物で切られた時のように、本当に何も感じない。そして、気がついたら死んでいる。

人間は環境とゆう鋭利な刃物で、いかに生かされ、殺されているかなのである。だからこそ僕は環境を変えなくてはならない。

3月24日(木)

休日、太陽がまだ朝の爽やかさを残しているぐらいの時間。

Kylie Minogueのリズムにノリながら部屋の窓を開け放ち部屋の掃除なんかすると素晴らしく心地良い。曲はCan't

Get You Out Of My Headなんかが良い。Erykah

Baduなんかもけっこう良い。

いわゆるアーバンナイトを彷彿とさせるような曲はけっこう休日の朝によく合うのだ。たぶん、週末の深夜のテンションと休日の午前中のテンションがけっこう似ているからだろうと僕は思う。

ただ、ロックやソウルは良くない。あと、ポップスも。

さて、これから馬鹿な東大に行って来る。

昼下がりの東大はどんな曲が合う場所だろうか。

3月24日(木)

未だ引越しに踏ん切りがつかない僕は荷物の整理も気持ちの整理もまったくもって手付かずで、それなのに数少ない休日の今日も東大の学食で無駄にモヤモヤしていた。

何にそんなに踏ん切りがつかないのかと考えると、僕はもう二度と地元品川には戻らないような、そんな覚悟を決めようとしているらしい事に気が付く。土地への愛着や、培った人間関係、それに伴うしがらみ、そういった今までの25年間を全て捨て去ろうと決めている自分に気が付くのだ。

何をそんなに焦っているのかは僕自身でもハッキリとは分からないが、口では「世の中は駄目だ!」とか「あんなものは嫌いだ!」と言っているくせに、今までの再三にわたる「留まる」とゆう自らの選択がいかに口だけだったのか。それがどんなに楽で生産性の無い非常に保守的な危い道だったかとゆう事を今やっと思い知らされている。

例えば、恋愛の相談を受けて「好きなら砕けろ!」と堂々とアドバイスしてる人間が女子児童に本気で恋して人生諸共砕け散るような、そんな危さの中で僕は生きていたような感じが今はする。

僕は来週金曜、否が応でもこの町を出て行く。女子児童に手を出す前に。

サヨナラトーキョー。

3月25日(金)

何だか没頭してしまう、何だか分からないけど無性に欲求を駆り立てられる衝動。そして、その衝動を実際に行動に移す。

僕はそれら全てがアートだと思っている。結果ではなく、そのプロセスがアーティスティックなのだ。それはどんなに下らない事でもいい。

例えば、面白くない授業中。何気なく机の上に刺したコンパスの針。その卓上の些細な傷から広がる思いがけないひらめき。この辺に穴を開通させれば、机の下からストローを出して授業中でもアップルジュースが飲めるのでは!?そんな素晴らしいひらめきが体中を駆け巡る。

そして、まず掘る。無心に掘る。ジュース計画など忘れて掘る。掘らない時は消しゴムのカスで穴を埋めておく。次第に、掘る事の方が面白くなって、穴はみるみる大きくなる。そして、いよいよ穴が開通する。達成感と喜びの中、ある疑問にぶち当たる。はて?俺は何の為に掘っていたんだっけ?

アーティスティックだ。

中学の頃はそんなアーティストがクラス中に溢れていた。様々に凝った穴がそれぞれの机に刻印されていた。その穴を見ればそいつのアイデンティティーが見えてくるような、そんな穴がいたるところに開けられていたのだ。ちなみに僕は中学の3年間をかけて紙やすりで机に穴を開け、卒業式に記念として机の板だけ取り外して持ち帰った。たぶん、まだ家のどっかにあると思う。

そんな衝動こそが、アートの根源なんだと思う。そして、僕のアート魂はあの頃に開花したのかもしれない。

3月27日(日) 最後のお知らせ

自分が感じた事や思った事を会話を通して人に伝える事が苦手で、伝えたい事は山ほどあるのだけれど、どんな言葉をどんなアプローチで使えば良いのか非常に悩んでしまう。意を決して、たまに口を開けば、思いもよらないところで相手を傷つけてしまったり、不快な思いにさせてしまったり、誤解されてしまったり。

ただ、このホームページとゆう場は、そんな会話下手な僕にとって、素晴らしい伝達能力を持つ媒体であった。と思っている。

会話のように時間や反応に左右されず、自分の思いを自分自身で吟味して公開できたし、そうゆう作業の中でさらに自分の思いを自分自身で整理する事ができた。思いを打ち明けられない事に悶々としていた自分にとって精神衛生的にもすこぶる健康的な媒体であった。

だから、このホームページが無くなるのは個人的にはすごく淋しい。

突然ですが、2005年3月31日を持ってこのページを終了致します。

毎日20人を越える方々に、この真平に注目していただけた事にとても感謝を致します。それではまた会う日まで。

3月31日(水) 最後の日記

僕には目指すべき二つの目標がある。

一つめは

「全ての人から愛される」 僕のモットーだ。

ナンバーワンでもオンリーワンでもない。オールフォーワンだ。

難しい事は重々承知だ。

二つめは

「ビヨンセみたいな女子になる」 僕のドリームだ。

ナンバーワンでもオンリーワンでもない。ベストワンだ。

難しい事は重々承知だ。

二つとも限りなく無理に近い、いや、絶望的と言った方が早いのかもしれない。ただ、現実的な可能性のある目標よりはよっぽど現実的だと思っている。なぜなら、限り無い不断の連続性こそが現実だからだ。絶望的な目標こそ現実なのだ。

そんな僕は明日も元気に引越に精を出す。

世界で唯一のドリーミンなリアリストだ。

じゃあね。