2005年 10月
10月5日 (水)

昔に比べてあまり「ガーン」と落ち込まなくなった。昔ならばとても些細な事でも、この世が終わってしまうのではないかと、まさに、WTCビルが崩れてしまうように何もかもが総崩れに跡形も無く崩壊していった。例えが不謹慎かもしれないが、本当に、あの悪夢的な映像のように、自分の自尊心から虚栄心から自己統一性までが総崩れになってしまうような大惨事が日常的に起こっていたのである。

しかし今は違う。そんな「ガビーン」なんていう事はまず無い。ああゆう瞬間的で巨大な崩壊はまったく無くなった。同じような事が私の身の回りで今でも普通に起きているんだろうけど、それほど深刻に感じなくなったんだと思う。ただ、そういう一過性の衝撃が減った分、なんだか分からないけど漠然とした不安がいつも付きまとっている。そして、おそらく、この不安の根底にあるものは昔「ガビーン」となっていた頃の衝撃的な何かと質としてはあまり変わっていないような気がする。その対処の仕方が変わってきたのであろう。

その根本原因である「何か」というのは「私はどのようにして生きるのか」なのだと思う。けっこう簡単な命題に見えて、なかなか難しい。そして、多くの人々は常にこの命題で悩んでいるのである。買い物に悩んでいる人も、恋愛に悩んでいる人も、就職に悩んでいる人も、つまりは「私はどのようにして生きるのか」という事が悩みの根源である。そして、年代によってそのアプローチの仕方が微妙に変わってくる。もちろん、その命題の表れ方によっても、個々人によっても対処の仕方が変わってくるが、若い時は当然ながら多感であり、無力である。だから「ガビーン」となって何も手を尽くせずに自らを崩壊させていたが、今の私には昔のように何もかもを一からやり直す暇は無い。今は漠然と、しかし、決して離れること無く、空気を吸うように日々この命題に立ち向かう時期なのだろう。そして、その場合の一番の対処法は自らを崩壊させ再構築する事ではなく、自らの周囲を崩壊させ再構築する事である。

罪な方法論である。

10月9日 (日)

私は人前で放尿をした事がある。渋谷のど真ん中で、それはまさしく、世界の中心で愛を叫ぶ如き、生理的、必需的、自意識的な「生」の発露であった。

しかし、他人の放尿を見たのはこれが初めてだ。それは清々しく、ある意味で健やかだった。ただ、しかし、その後の醜悪は世界中の全ての価値観を凌駕するものであった。25歳の尿漏れは、ある意味で心地良く、ある意味では想像を絶する醜態である。まさに正と悪との対峙であった。

しかし、私は感じてしまった。あの、蛇口をひねる時に発する、爽快でいて、重苦しいあの音こそが「生」の響きであり、その後の切迫した陰と陽のバランスこそ「生」そのものなのである。

放尿を経た者だけに分かる「生」への自意識。

彼はもはや「生」の象徴と化した。そして、この後の放尿と共に「宇宙」に昇華した。私はそんな奇跡の目撃者である。

10月10日 (月)

2人の新人さんが入って来るという事で、職場ではさっそく歓迎会の話が持ち上がり始めている。おそらく今回は新宿近辺で催されるであろう。楽しみである。

しかし、そんな楽しい歓迎会であるが、今日、その企画の段階でちょっとした論争が巻き起こった。それは、ドタキャン者に対する処罰を「市中引き回しの上、打ち首獄門」にするか「市中引き回しの上、江戸十里四方追放」にするかの議論である。

私としては「市中引き回し」か「晒し」、厳しく見ても期限付きの「遠島」ぐらいが妥当なのではないかと考えるが、やはり、それは幹事などの重役を避けてきた軟弱者の戯言でしかないのかもしれない。

最終的には、「打ち首獄門」までの罪状は無いという事で「市中引き回しの上、江戸十里四方追放」という事に落ち着いたが、まあ、この辺からしてみても今回の歓迎会への期待は膨らむばかりなのである。

私はこういった机上の机上の空論がけっこう好きである。

10月11日 (火)

2004年度の国別年間平均セックス回数ランキングでは、私が国籍を置く日本という国が最下位である。これがもし進学校の偏差値ランキングであれば、クラスの平均点を下げているお荷物落第生である。しかもダントツである。まあ、ここにはイスラム圏の国があまり名を連ねていないが、もしイスラム圏の国々が参入してきても日本は同じような落第生になるのではないかと思う。

まあ、偏差値ならば、勉強をしていないという事が浮き彫りになるぐらいで済むのだが、こういった人としての営みが著しく欠如しているというのは、おそらく何かが異常なのであろう。統計の数字ぐらいであまり色々な事は言えないが、人の温もりを忘れた国、ニッポンである。身を置く者としては淋しい限りである。

10月13日 (木)

東京都知事が都内の公園に住むホームレスを一掃すると言っているらしい。その関連の報道で、あるコメンテーターが「たしかに、ホームレスは困るけれど、一掃はやりすぎなのではないか。まず、ホームレスの方々の生きる気力を回復する対策が必要だろう。」といった内容のコメントしていた。

まあ、私も直接ホームレスに知り合いがいるわけではないが、今の東京都知事からは嫌われそうなその日暮しを営んでいる方々を昔のアルバイト先で何人か見てきている。たしかに、そういった社会通念からちょっと逸脱しているような生活スタイルで生きている人をそのスタイルだけで見ていると、ちょっと、大丈夫なのかなぁ?なんていう疑問もあるにはあったが、個人的に話したり、飯を食いに行ったり、関係を深めてゆけばゆくほど、「生きる気力」に関して言うならば、その辺の赤提灯で管を巻いているようなサラリーマンよりはよっぽど前向きである事が分かる。

まあ、そんな事をふまえて、おそらく、公園や街中で生活されているホームレスの方々に生きる気力の無い人はいないだろうと私は個人的に推測するし、実際、その報道でホームレスの援助に当たっている団体の方なんかも「生きる気力の無いホームレスなんていません」と件のコメンテーターを嗜めている場面があった。本当に生きる気力が無かったら既に死んでいるのだろう。至極簡単な話である。

ただ、このコメンテーターが口走った疑うにも足りない誤解は決して人ごとではない。少なからず私にもこういった類いの誤解や偏見はある。主にそれらは社会通念に対する無意識的な自分の負の価値観をそういった弱者に押し付ける事によって自らの合理化はかるために機能している。ただ、それはいたって無意識的に行なわれるために、自分自身では気がつかない事が多い。恐ろしい事である。

ある意味において「ホームレスは生きる気力がない」という発言は「ニガー」や「ジャップ」などという言葉さえ比にならない程に差別的要素を含むものであり、それと同時に差別を意識させない常識的な社会通念にもなりうるのである。そして、そういった類いの誤解や偏見は当事者がまったく持って意識していないために、計り知れない悪意となって一人歩きを始める。

今回の件で言えば「ホームレスは生きる気力が無い」と口走ったコメンテーターよりもなによりも、ホームレスの一掃を具体的に推し進めようとしている東京都知事の行動は、そういった感覚と無意識が暴走した悪意以外の何ものでもないと私は思う。

まあ、自分も含めて、こういった直感的な人間には幼稚で臆病な人間が多い。今の総理大臣にも同じような印象を感じる。しかし、その直感が大衆を巻き込んで流れを持ち始めた時(直感的な行動は大衆を巻き込み易い)、それは何かの破滅の始まりでもあると、私は直感的に感じてしまうのである。幼稚で臆病な大馬鹿者ほど魅力的な存在はいない。ただ、そういう人間は政治的な力を持ってはいけない。なぜなら、大馬鹿者だからである。

10月16日 (日)

おそらく、このまま行くと、私は来月の給料日の前に破産するだろう。ちなみに、今月の給料日は昨日だった。

しかし、幸いな事に来月の給料日までに2週間の秋休みがある。その期間、実家に身を寄せてひっそりと過ごしていれば、なんとかなるかもしれない。しかし、不幸な事に来月の給料日までに文化祭という行事もある。なかなか、キワどい一ヶ月となるだろう。Dead

Or Aliveである。

ちなみに、先日「Sin City」という映画を観て来たのだが、かなりDead

Or Aliveな感じなハードボイルドさがコテコテに出ていて良かった。ハードボイルドを忘れた日本男児は観に行くべしである。俺はもう充分にハードボイルドな生活をしているので大丈夫だ。

ジェシカ・アルバ扮するナンシー。このヘソ!

デボン・アオキ扮するミホ。

ハードボイルドにはイイ女が欠かせない。

その他サイドを固めるベニチオ・デル・トロやミッキー・ローク(あのミッキー・ロークが!)もかなりヤバい。

10月17日 (月)

我が家で家財道具と呼べるものは引っ越して来た時に購入した洗濯機と冷蔵庫と欅の座卓ぐらいのもので、ここ国分寺にやってもう来て半年になるが、この三種の神器以外に家財道具と呼べるようなものは増えていない。ゴミ箱すら無いアパートである。まあ、経済的にも切迫しているという事もあるのだが、それにしても我ながら前近代的な生活をしているなぁと感心する。

もちろん、我が家にはテレビも無いので、生活の娯楽といえば、本を読む事ぐらいに限られてくる。たまに津田塾大学の図書館(津田塾大学に行くのも娯楽の一つである。なんせ女子大だから。)で最近興味を持っている人文系の学術書を読む事を別にすれば、普段は近所の古本屋で購入した文庫本を読んでいる。主に日本人作家の軽めの短編小説が主である。寝る前のささやかな時間の為のささやかな短編が良い。あとは、ささやかなエッセイなんかもなかなか良い。変に出来すぎた文章を読むと頭の中がギラギラしてしまって眠れなくなる。だから、ごくささやかに。

そういった面で言うと村田喜代子や川上弘美、あと吉本ばなななんかの女性作家ははなかなか良くて、すうっと眠りにつける。文体もささやかなら内容もささやかなのである。優しいと言ったほうが良いかもしれない。

ただ、最近はそういったささやかな作家の本も読み尽くしてしまって、心地良い眠りにつける良い本が無くなってきている。そこで登場してきたのが村上春樹と椎名誠である。野郎バリバリだ。なぜだかこの二人の文庫本が増えてきている。まあ、村上春樹について言えばささやかではない事もないのだが、椎名誠はものによってはなかなかギラギラしたものも多い。しかし、この両者もなかなか良い眠りを僕に提供してくれる。そこで僕は考えた。ジャンルも文体も全く異なるこの両者がなぜ僕をこんなにも心地良い眠りに誘ってくれるのだろうか?

そう、なにを隠そう、彼らは現在僕が生活している国分寺という土地に多少なりとも所縁があるのである。つまり、私はそういった曲がりなりにも自分の腕一本で生活している人がこの何もない国分寺という町を経ている事に多少なりとも安堵を感じていたのである。その安堵感が心地良い眠りに繋がっていたのだ。

まあ、少なからず何かしらのプレッシャーを感じて人は生きている。ただ、そのプレッシャーがこんなささやかなところにも出てくるのだなぁと思うと、ちょっと窮屈な気持ちにもなる。せっかく前近代的な生活を送っているのだから本ぐらい気楽に読ませてもらいたいものだが、時代は既に21世紀も5年目なのだ。

10月25日 (火)

甘く切ないあの夜の、赤裸々な思い出をここで打ち明ける。

もう一ヶ月以上も前の、たった一晩の出来事なのに、私は彼女の肌の温もりや息遣い、そして、頬の火照りや唇の感触までを克明にこの腕に思い出すことができる。今までも、おそらく、これから先も、彼女のような女性には出逢うことはないだろう。彼女は全てにおいて完璧な女性だった。ルミカ。それは夢か幻か、そんな一夜の出来事だった。



私のうす汚れた国分寺のアパートに、ルミカは突然やって来た。部屋にあがるなりルミカは私の腕に全身を絡ませ、はしゃいでこう言った。

「今晩泊めて欲しい」

ルミカは薄っすら発光していた。

躊躇する私に悪戯っぽい笑顔で微笑みかけたルミカは、そばにあった植物に霧吹きをかけ始めた。湿り気を帯び、仄かに光沢した葉を眺めているうちに、私はある種の苛立ちをおぼえ始めていた。

闇雲な苛立ちを抑えようと、私は冷蔵庫から缶ビールを持ち出した。しかし、このアルコールが後の展開に大きな影響を与える事になるとは。それを知ってか知らずか、ルミカは私が口を付けた缶ビールを横から奪い取り、不敵に微笑みながら残りのビールを飲みほした。

少し酔ってしまった。酔い覚ましにシャワーを浴びる。アパートの出の悪いシャワーの湯がじっとりと身体にまとわりつき、その妙な温かさが私の芯を妖しく火照らせてゆく。「これは夢なのだ」そう自分に言い聞かせているにも関わらず、ルミカが私の腕にそっと寄り添ってきた。私はもうルミカから逃れられない。もはや、腕に巻きつくルミカは私を虜にする手錠である。私はルミカの虜となった。

シャワーで濡れた身体もそのままに、私たちは布団に潜りこんだ。常軌を逸した行為である。しかし、これが男女の営みである。ルミカの冷たい光りが今にも蒸発しそうな私の身体に心地良い。

それは熱く激しく、そして冷たかった。ルミカはその灯火を更に明るく輝かせ、私に迫る。

そして、それはやって来た。それはある種の衝撃である。何にも変える事のできない衝撃である。

眠るルミカ。私はこの世の中で一番美しい存在の目撃者となった。

朝、ルミカの光は絶えていた。

一夜限りと運命づけられたルミカの命の尊さの中で、私は完全なる女性を体験し、その完全なる光の忽然たる消失を体験した。この空漠とした虚しさは癒えることはないだろう。

私は生涯、ルミカの手錠の虜となって生きてゆく。しかし、この烙印は決してネガティブなものではない。その存在が漁業目的に起因していようとも、私は彼女の儚くも完全な美しさの虜である。この気持ちはむしろポジティブとしか言いようがない。



君もルミカをゲット!一夜限りの儚さを追体験!

10月26日 (水)

私が通っている武蔵野美術大学では今週の土曜日から来週の火曜日にかけて「芸術祭」と呼ばれる学園祭が開催される。テーマは*ムサビ的テーマパークだそうだ。ちにみに学園祭の名前は「ムサパー」だそうだ。今年は愛知万博が開催されて「~EXPO」なんて銘打っているカッコつけた学園祭が多い中で、我が校の学園祭のコンセプトとタイトルは個人的にけっこう気に入っている。なんか、ダサくてイイじゃないか。うん。

ちなみに、去年は最低だったが。

まあ、そんなこんなで、私も「マチコ屋」という屋台の出店に非力ながら参加させて頂いているので、予定が空いている人はぜひ遊びに来てもらいたいと思う。おそらく、人生最初で最後の学園祭参加となるので、ベロベロに酔っぱらって待っている。飲もう!

*武蔵野美術大学を略して「ムサビ」と呼ぶ。