2006年 3月
3月1日(水)

変な話になるかもしれないが、26年間生きていると、自分に対する他人からの目というのも解ってくる。どうやら、自分は器量は良いらしい。

ただ、変な話になるかもしれないが、26年間生きていると、他にも解ってくる事がある。どうやら、器量よりも気立てなんだなという事が。

ただ、時代に平走した器量の良さが、たまには役立つ事もあるんだなと、初めて思う。なぜなら、赤間監督作品の短編映画「あなたに呼びかけている。」に出演する事になった。

私も期待するし、皆様も乞うご期待。

ちなみに言っておこう。

ショートピース仙台短編映画祭

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭

水戸短編映画祭

インディーズムービーフェスティバル

札幌短編映画祭

出品予定作品である。あくまでも予定であるし、あくまでも予定である。

3月2日(木)

言葉に関して類い稀なる才能を発揮する者がいる。銀河・L・ベンダーのバギー松木氏(彼は言語以外にも様々な才能を開花させている)が私の周りでは代表格だが、それ以外にも、何なんだ!お前は!というような言葉の魔術師が私の周りには存在する。

そんな魔術師に先日、新たなメンバーが加わった。

ここで、彼から私の携帯メールに頂いた貴重な文章、いや、詩を紹介しよう。

さすがの種と自己責任レベル

朝:徹夜勤務明け暖かさのかけらもなひE231系ミドリック(北方系)種に乗りましたが今朝の冴えない天気に素晴らしく同調しておりし。こちらのインバータサウンドは現主流的サウンドながら永世革命志で有り続けるであろう、寒冷トリップノイズですし。120キロ走行をチョット期待。

昨日:遂遂偽科学で批判されている江本氏の本を中古で最安値でして買ってしまった。一昨日は羽生さんの歩の手筋の本が最安値でして見逃すわけなく買いました。

例の水の話は知っていたのですよ~。波動に関しては自己の範囲内では科学的に解明されきってない部分もそうとみなして行きます。しかもこちらは自己責任がないだけあって使い易いんですよ~。

これが運とかの話になると疑いがでますしサプリメントになりますと自己責任が問われますから特に科学的に解明されていることが大切になります。といってもそうでないのも使ってますがこりゃ自己責任を感じます。こちらが一番科学の目で見抜くべき分野ですが感覚がかなり大切ですから難関。

種が増えて行くのはいい事と思って来たがリスクも増えて行くとなると複雑な心境だ。米国はその点は北極だ。今は冷たさ極まる5000系初回盤にいますし。

言語という記号的メタファーの枠を飛び越えて、何か、言語では汲み尽くせない実体を私たちの目の前に露にしている。しかも、言語を使って。

最早、これを魔術と呼ばずして、何と呼ぼう。

このような彼からのメールが週に一度ほど私の携帯電話に届くのだが、この文章を解読するには、私には一週間では時間が足りない。

映画館などで映画を観終わると「内容が難しすぎて意味が分からなかった~、もう一回ちゃんと観ないと理解できない~」などとほざいている馬鹿女が必ず一人はいるが、本当の難しさとは、彼のような文章の中にこそあるのだ。

私などは、二回読んでも三回読んでも、まだ理解できないのだから。

3月4日(土)

漫画を描いてみて、漫画家ほど大変な職業は無いと痛感した。物語を考え、構成を考え、絵まで描く。もちろん一人で。しかも、期限までに。

こんな大変な職業は他にそう無い。

ジュ~シ~トリオで連載が始動した私のコミック

「新感覚少女漫画 チャ~ミ~さゆり」

期待してくれ。

しかし、作者は1ページ目にして既にくじけそうだ。

漫画家は過労死覚悟の職業だ。

3月5日(日)

今日、友人の3才と2才になる子供に会った。いつも、子供に会って、ちょっとしたコミュニケイトをすると思うのだが、子供というのは、なぜあれほど健気で無邪気で若いのか。

まあ、当たり前の事かもしれないが、全てにおいて若いのだ。若僧の私からしてみても彼らは立派な青二才だ。青くて固く、そして、苦い。つうか、渋い。

大学で若い子達を見ていても「青いな~」なんて事が多々あるが、子供を見ると「青ぉっ!」って感じだ。ただ、大学生も二才児もやはり青いには青いのだ。青さは変わらない。ちょっと大きさが違う程度のものだ。女の子の方はちょっとは色付いてきたけれど、男は駄目だ。青い。もちろんこの私も含めて。

ただ、そんな新鮮な青さを目の当りにして私は思う。

朽ち果てる直前まで青い果実でありたいと。

3月6日(月)

明日は休みだ。さて、何をしようか。

最近、休日を上手く使えなくて困っている。何かしようと思って、色々と作戦や段取りを練っているうちに休みが終わっている。もっと酷い時は前日に夜更かしをしたり、飲み過ぎてしまって、休日をまるまる棒に振る事もある。

とりあえず、明日は部屋の掃除をしよう。

案外、そういう身の回りの事から始めると、休日っていうのは上手くいくもんだ。特別に考えず、明日は部屋の掃除から。それがいい。

さあ、そろそろ寝よう。

3月7日(火)

こちらに生の世界があって、あちらに死の世界があって、それが時に交差したり、あるいは死の世界の者が生の世界へ足を踏み入れてしまったり、それとは逆のパターンであったり。

そういう話っていうのは、ずっと昔から世間には沢山あって、この科学万能の時代(って言うのも変だけど)においてもずいぶん沢山ある。

僕の周りにだって、そういう事を感じることのできる友人(なぜか女の子に多い)は沢山いるし、実際、そういうモノが現れているという現場に立ち会った事も何度かあるけど、僕には全く何にも分からない。何も無いところに何かいると言われるのだから、ちょっと薄気味悪いけど、それ以外には何も感じない。

ごく当たり前のことだけど、僕はそんな見ることもできなければ感じることもできないような世界は信じないし、もちろんそれに付随する幽霊だとか亡霊だとかも信じない。というか、そんなものはそもそも無いと思っている。

そんなものが存在したら、ただでさえ複雑怪奇なこの世界は破滅的な混乱に陥るだろうし、実際、僕のごく身の回りの世界において、生の世界だ死の世界だなんてものが本当に表裏一体に存在していたら大変な事になる。色々なことがとっても面倒になると思うし、僕自身、また一から世界観を改めなくちゃいけなくなる。それは困る。

だから、そんな世界は無い。もしかしたら遠い将来、そういう世界がやって来るかも知れないけど、とにかく、今、現時点では、この地球上にそんな世界は存在しない。冷静に考えても、熱烈に考えても、そんな世界はどこにも無い。

ただ、死の世界だとか幽霊だとかの存在は認めないけど、そういう世界を感じる事ができる人間の存在は認める。だって、実際に僕の周りにも幽霊や死後の世界が見えちゃう友人がいるし、実際、その現場にも立ち会った事もあるしね。嘘をついているようにも思えないし、特に、そういうモノを見ちゃってる時って本当に大真面目な感じだしね。茶化すと本気で怒られる。だから、幽霊や死後の世界を見る事ができちゃう人はいる。彼らは何かが見えているし、感じている。これは間違いない。

常々思う事だけど、そんな、存在しない世界が見えてしまうような、そういう人間の想像力の方が、僕にとっては死の世界や幽霊なんかよりもずっと不思議だし、面白いし、そして、とっても恐ろしい、と思うんだけど、どうでしょう?

人間って何なんでしょうかね?

あ~、ちなみに付け加えておくと、妖怪はいる。

昔、小学校生の頃、僕は一反木綿を見た。「東京は冷たかところばい」と言って、夕陽に向かっていそいそと飛んでいるところを目撃したのだ。幼心に自分の住む東京というところは冷たいんだなと噛み締めたのを憶えている。

それ以外にも、子泣き爺には何度か負ぶさられたし、砂かけ婆にも砂をかけられた事がある。妖怪は存在する。オッケー?

3月8日(水)

昨日の幽霊の話について付け加えて。

ニューアカの旗手、中沢新一の精神史や宗教学の本なんかはその辺の人間の思想信条について、世界の宗教観や世界観を取り上げながら丁寧に紐解いているので興味深い。

自然科学の分野だけではなく、人間の思想信条、偏見や誤解といった精神分野にも深く科学のメスを入れていこうという、第三次唯物革命なんかも唱えていて面白い。

もう1つ、ちなみに、中沢新一は去年までは中央大の教授だったんだけど、今年から多摩美の教授になるんだそうだ。なんで、うちの大学に来なかったんだろうか。非常に残念だ。

今、私は中沢新一の著作「はじめてのレーニン」という本を読んでいる。これも精神史観を通した新たなレーニン像に興味深く迫っていて面白い。まあ、ただ、やっぱり学者だから、ここぞ!って時にぐっと来るものに欠けるのは確かだ。

さて、話は変わるが、本日、歯医者へ行ってきた。例の左奥歯は以前にもまして崩壊が進んできていて、私としても迅速な対応を求めていたのだが、その処置について歯医者が方針を改めたと言うので聞きに言ったのだ。それが恐るべき方針だとも知らずに。

まず説明しておこう。歯というのは顎の骨と歯自身との間に腱のような組織を有しており、その腱の働きによって顎の骨に定着しているそうだ。しかし、私の奥歯はその腱組織はおろか歯の根っこの部分すらもズタズタなっており、顎に定着しているのが不思議なくらいの状況にある。

もちろん、この奥歯は抜く。これは以前から決定していた。

しかし、抜いたは良いが、歯の根っこまで取り除いてしまうので、差し歯といった処置が取れず、位置的に入れ歯というのも大変難しいらしいのだ。だから、抜いたらそのままの状態にしておくのが歯医者的には一番簡単で安牌なのだそうだ。

でも、私はごねた。奥歯が無くなるのは嫌だ!

そこで、歯医者が考えてくれたのが、差し歯も入れ歯も使わずに奥歯を形成する悪魔的禁断処置だった。

先にも挙げたように、歯は独自の腱組織を有していて、これがなかなか繊細でいて強靭なのだそうだ。どこかの健康な歯をその奥歯の跡地に移植すると、その腱組織が自然と歯を固定してくれるらしい。そして、私の口腔には巧妙に隠された2つの健康な歯が眠っているというのだ。親不知だ。

今までの、この移植処置の成功率は99.5%。かなりの高水準を有しているらしい。しかし、問題は繊細な腱組織を傷つけずに健康な歯を摘出することができるかどうかなのだそうだ。しかも、相手は眠れる獅子、親不知。そして、歯医者は言った。残念ながら、私の技術ではできません。

しかし、歯医者は付け加えた。実はこの処置を確実に遣り遂げるであろう天才的技術を持った歯科医師を私は一人だけ知っています。いや、事実においても、彼の神業的な技術においても、彼を医師というのは間違っているのかもしれません。

しかし、彼は私が見た中で最も医師らしい人物です。私は彼をあなたに紹介しましょう。ただ、前もって言っておきます。彼は医師免許を持っていません。モグリの医者なのです。そして、彼はあなたに法外な治療費を請求するかもしれません。でも、彼の技術や意識は素晴らしいと言わざるを得ない。彼の名はブラック・ジャック。優秀な医師です。

明日、私は彼に連絡を取る。あのブラック・ジャックに。

3月11日(土)

本日、ブラック・ジャックに会って来た。処置の前に、綿密な症状を把握しておきたいので、診察をさせて欲しいとのことだった。

クリニックは針葉樹の森を抜けた海岸沿いにあり、周囲は世界の果てを思わせるような、恐ろしく切り立った断崖絶壁に囲まれている。カントリー風の建物の前には恐ろしく古い型の真っ黒なセンチュリーが、何かの暗示のように停めてある。その強烈な暗示を少しでも和らげようと、私は乗ってきたバイクをそのセンチュリーの隣りに停め、エンジンを切る。

ほどなくして、建物の扉が開いた。ブラック・ジャック。その人だった。オールドブリティッシュなかっちりとしたカッターシャツに折り目がきっちり入った真っ黒な細身のパンツ、そして、その上から真っ白な白衣をまとっている。想像通りの風貌だ。厭世家らしい。

しかし、そんな私の予想に反して彼の問診はとても穏やかで親身で丁寧なものだった。言葉の端々から窺える患者に対する慈しみの気持ち。症状に対する的確な判断と率直な説明。あまり医者にかかったことがない私でも、彼の医師としての素晴らしさが、その立ち振る舞いや仕草からひしひしと伝わってくる、そういう人だった。

ただ、何かが私の胸の奥で引っ掛かる。26年間生きてきて、いろいろな人々に出会ってきて、その経験からの直感とでも言うべき何かが、このブラック・ジャックという素晴らしい医師の一挙手一投足の中から、何か言い知れぬ緊張感を感じている。

そして、私はとうとう解ってしまったのである。彼は変態だ。性的趣向がどうのとかいう事ではない、とにかく彼は素晴らしい医師であると同時に、何かしらの背徳的な嗜好の持ち主であるという事を私は感じ取ってしまったのだ。決定的な何かがあった訳ではない。しかし、彼は変態なのだ。

そして、私は全てに納得がいった。私の奥歯は根元まで腐ってしまっていて抜かなければならない事、そこに親不知を抜いて移植する事、それを処置する医師はモグリの医師であるが技術も意識も素晴らしい事、そして、その医師が変態である事。そういう全ての事を理解したのだ。

私は今回の歯の処置を全て彼、ブラック・ジャックに委ねる事にした。そして、おそらく、処置は完璧に成功するだろう。なぜなら、それ以前の準備、いや、それが執り行われる「場」というものが、最早、完璧すぎるほど完璧に、調ってしまっているからだ。こういう経験は二度とやってくるものでもないし、二度と経験したくもない。だから、私は今回ブラック・ジャックによろしくした。

皆さん分かっていると思いますが、実際、歯の具合が悪く、かかりつけの歯医者から新しい歯医者を紹介されましたが、それはブラック・ジャックでもなければ、モグリの医者でもありません。医師免許を持った立派な歯医者さんです。しかも、口腔外科治療に関してはなかなか優秀な技術を持った歯医者さんです。なので「今度、真平がブラック・ジャックみたいな超優秀な無免許外科医に治療してもらうんだって~」なんて事をお母さんに言ったりしないで下さいね。(事実談あり)

ただ、その紹介された歯医者さんはとても丁寧で技術も確かなのですが、変態である事も確かです。何があったわけでもないのですが、とにかく僕は直感してしまいました。そして、それでも移植処置をお願いしたのも事実です。いくら変態でも歯科医としての腕は確かですから。とにかく、歯科医としてはとても素晴らしい方を紹介して頂きました。

3月13日(月)

最近、日記の文章が長くなる。書きたい事を書いていると、どんどん文章が長くなって、結局、時間も精神力も尽き、最後まで書けない。

なんだかな~。歳かな?

もしかしたら、文章を書くこと自体が僕には向いていないのかもしれない。でも、まあ、いいや。良くわかんないけど、向いてるとか、下手とか、そういう事じゃない。

例えば、今日の僕は全身を原因不明の筋肉痛に襲われていて、訳も分からず一日中苦しんでいたけど、その筋肉痛の原因が分かったところで、その苦痛は変わらない。なんか、この日記もそういう事の延長線上にあって、原因も結果も全ては自分の中に存在し、そして、その内に消滅する。そういう質のものなのだ。

つまり、そんな日記を読んでくれている貴方は、ある意味で僕のかなり自己完結的な、筋肉痛のような一面を垣間見てくれている訳で、逆に考えると、そんなものに多少なりとも時間を割いてくれる貴方はとても奇特な方なのだ。

それでいいでしょ?ねっ。

筋肉痛で疲れたのよ。今日は。

なんか、優雅にエスケープしてみたい。

3月14日(火)

Porsche 550 spyder

1954年、ポルシェがレース用に開発した初の市販レーシングカー。クラス別レースでも輝かしい成果をあげる。アメリカに送った最初の4台のうち1台をジェームズ・ディーンが購入し、その後、1955年9月30日、ジェームズ・ディーンはこの車と共にこの世を去る。

世の中に永久不滅のものは無いけれど、この車はジェームズ・ディーンという英雄を永遠のものにした。

こんな車でエスケープできるのなら、僕は今すぐにでも、どこにでも、何ものからも、逃げ切る事ができる気がする。そして、そういう車が世の中に1台ぐらいあると思うと、僕はどこへも逃げ出さず、今日も元気に出社できる。

いってきまーす!

3月14日(火)

横四方固めを決められて、唯一、動くのは手足の先端部分だけ。相手の吐息を直に感じながらも、全く抜け出せない。相手がどこかの可愛い女の子だったらこのままでもいいけれど、どう間違ったって横四方固めを決めてくる奴が心地良い相手である筈がない。

気持ち悪い。でも、動けない。苦しい。そして、なんか臭い。

こんな風に固められてから、どれくらい経つだろうか。もう、抵抗する元気も残っていない。それぐらい強固に僕はがっちりと羽交い絞めにされている。畳の匂いが爽やかに渋く香る。

よく見ると、横にも同じように横四方固めを決められてる奴がいる。僕はぐったりとしながら、その様子を観察する。奴もがっちり固められている。むしろ、奴の方が僕よりも強固に締め付けられている。絶望的だ。

でも、奴は唯一自由な左腕を器用に使って、誰かに電話をかけ始めた。

ピッポッパ。ルルルルル。ルルルルル。ピ。

「ヤバいんだけど。 いや、リアルに。 けっこうヤバめなんだ。」

この後におよんで、なんていう会話なんだろう。朦朧とする意識の中で僕は考える。リアル?

3月16日(木)

最近、オッパイが気になって仕方がない。形、色、体積、質、存在意義、そして、感触、全てが気になる。具体的なオッパイであろうが抽象的なオッパイであろうが、それが形而上学的オッパイとしての体裁を調えていれば問題ない。とにかく気になって仕方がないのだ。まあ、僕も男であるから、健全な悩みと言えばそうなのかもしれないが、ちょっと困る。

あと、最近、気になっているのはレーニンだ。あの革命家のレーニンだ。容姿、言動、癖、趣味、そして、思想、全てが気になるのだ。スターリンじゃない。レーニンだ。ゲバラでも毛沢東でもない。レーニンだ。これも、まあ、私が共産主義者である以上、健全な興味の対象なのかもしれないが、度を越えて気になりだしていて、ちょっと困る。

なんだか唐突に僕の赤裸々な興味について書いてしまったが、一見すると全く相反する2つの興味ではあるが、実はこの2つの興味を裏の方でがっちりとづなぎとめているものが存在している。実はこのことに僕もさっき気が付いたのだ。

その存在。それは、ずばり、僕である。

   

3月18日(土)

本日。映画。リハーサル。台本読み合わせ。

演技なんて、その辺のアイドルでも普通にこなしているような代物で、この俺様なら数行の台詞ぐらいすぐに憶えられるし、26年間の生き様において、演技のほうも大部分はカバーできるはずだ!と、余裕綽々で、なんの準備も無しに現場に入ったのである。

しかし、甘かった。俺は一切が甘かったのだ。

俺は全くのド素人。いくらその辺のアイドルでも、彼らは彼らでプロであって、それで稼いでいる。しかも、俺たちが息を呑むような金額を稼いでいるのだ。彼らは全てを自分の肩に背負って表現をしている連中だ。物や情報といった二次的な触媒で表現している俺たちとは違うのだ。

俺が甘かった。

役者ほど緊張感を持った職業は他には無い。

来週、俺の出るシーンの撮影だ。撮影が終わった頃には、俺はそのプレッシャーによって廃人となっていることだろう。

ある意味、期待してくれ。

あしたはどっちだ。

3月21日(火)

拝啓 スープンへ

あなたのスープ好きが昂じて、そう呼ばれるようになったのはいつからでしょうか?それほど経ってないようにも思えますし、ずいぶん前からそうだったようにも思いますし、そんな話すら初めから無かったようにも思えます。

それにしても、先日の館山旅行。大変楽しかったですね。オチビちゃん2人と、でっかいオチビちゃんのスープンを連れて、大人4人はてんやわんやでした。アクアラインを数分で走り抜けたり、鮫を捕獲したり、ロープウェイで鋸山に乗ったり、トランプで世の情けを知ったり、釣り竿でペニー(ポニー)を叩いてみたり。とにかく、目まぐるしく時は過ぎ、おかげで、私は旅行から戻ってきてちょっと体調を崩してしまいました。明日の仕事も行けるかどうか、ちょっと心配です。

あと、今日の野球の試合。キューバも最後まで喰らいついていたのですが、結局、日本が初代チャンピオンになってしまいましたね。この事で日本人が変な自信を持たなければいいのですが。愛国主義者でプチナショナリストを代表するスープンとしては本望な結果だったでしょう。血の色まで真っ赤な私にとってはちょっと残念な結果となりました。一緒に観戦できれば良かったですね。

さて、来週からスープンは地下活動に身を投じ、この大都市のアンダーグラウンドに潜るそうですね。寂しくなります。でも、たまにはマンホールから元気な顔を皆に見せて下さいね。あと、立ち入った事かもしれませんが、アンダーグラウンドでどんな地下活動を行なうのかも、できたら教えて下さい。とにかく、体調に気を付けて頑張って下さい。

館山に向かうアベちゃんの禁煙車で、喫煙者の権利を必死に守ろうと、一人、抵抗運動に身を投じるスープンの写真を同封しておきます。

あの運動は、残念ながら弾圧されてしてしまいましたが、あのレジスタンス的ゲリラ的抵抗活動には目を見張るものがありました。後のアングラ活動でも役立つことでしょう。

こうやって手紙にしてみると、あなたがどれほど出鱈目な存在なのかよく分かりますね。でも、そんなスープンを、私はとっても好きですし、そして、なかなかうんざりもしています。

3月22日(水)

本格的に風邪をひいてしまった。ようやく起き上がれるようにはなったが、まだ、ちょっと厳しい状態で、職場の方々には大変申し訳ないが、明日も休みを頂かなければならないかもしれない。

今日一日、そんな虚弱な状態で、僕は夢と現実の狭間を漂いながら過ごしていた。ふと気が付くと夢から醒め、ふと気が付くと夢の中に。でも、ふと気が付くとどんな夢の中にいたのか忘れていて、そうこうしていると、また夢の中へ。その繰り返し。

そして、そのとても曖昧で些細な意識の流れの中で僕は重大な事実に気が付いてしまったのだ。それはとてもクリアな確信に満ちて僕の脳裡にやってきた。

「これは風邪じゃない!鮫だ!」

先日、館山でスープンが捕獲し調理した鮫を僕は食したのだ。そして、僕はまだ自分の中にあの鮫が燻っていることを感じ取ったのだ。消化されずに僕のどこかで燻っている鮫の姿が。

原因は奴だったのか。。。

そりゃあ起き上がれないわけだぜ。鮫なんか食うんじゃなかった。

3月23日(木)

文化を見る際、その観察方法は数多くある。どのレンズを使い、どこに注目し、どこから観察するかによって、その文化の捉え方が大きく変わってくる。これは文化だけに言えることではなくて、世界万物の観察において言えることかもしれない。もちろん女湯を覗く時にもだ。

例えば、そういった意味で文化人類学でよく取り上げられるのがバリ島の例で、皆さんもご存知の通り、バリ島にはケチャやワヤン(影絵)といった古典芸能とされる文化がある。なかなか見応えのある素晴らしい芸術文化だ。

ただ、このケチャやワヤンは20世紀初頭、ドイツ表現派のヴィルター・シュピースやロシア構造派のロッテ・ライニガーらの芸術家によって再構成された文化であることは有名で、もちろん、そこに文化としてのケチャやワヤンの様々な矛盾が表出してくる。

ケチャやワヤンはバリ島の古典芸能なのか?いや、それ以前に文化と言えるのか?文化でなければ何なんだ?バリの本当の文化はどこにあるんだ?etc......

と、まあ、色々と。

とにかく、何かを観察し理解するには、なかなかひとくくりにはできな事だらけで、でも、ひとくくりにしなければ始まらない事でもあり、その為に編み出された観察方法が学問であったりするわけだ。対象に向かって突き進む、我々人間の本性的な技術とでも言うべきだろうか。人間の本性であるから学問は楽しいし、そして、とても多様でつかみ所がない。

しかし、それが学問という形を取らなかったとしても、何か対象に突き進む力に満ちていた場合。それに触れた時、私たちは心動かされ感動する。だから、キンタロー、僕はあなたに感動した。あらゆる誤解と、あらゆる偏見の中で、あなたは対象に向かって軽快に突き進んでいる。

Official Web

http://kintarowalksjapan.com/

Movie Web

http://video.google.com/videoplay?docid=3067683435545761102

対象に対して模索する力。それは同時に、自分自身の内側に向けられた力でもある。恐れを知ってしまった私たちに決定的に欠けているものだ。

3月24日(金)

風邪4日目。

症状はそれほど重くなくて、横になっていればぜんぜん平気なんだけど、身体を起こすとどんよりと奥の方から辛さがやってくる。今朝も、治ったかと思って職場へ行く仕度をしようとしたらひっくり返ってしまった。だから、職場の方々には大変迷惑をかけてしまうけど、仕方ないので今日もお休みを頂いた。思い掛けない長期休暇になってしまった。長期休暇はいいけれど、4月からの国分寺の生活に響きそうで不安だ。

さて、そんな不安は置いといて。

今日も一日安静にベッドで横になっていたんだけど、ここのところ連日連夜眠りっぱなしなので、なんだか目が冴えてしまっていて。だからと言って何かをしようとすると、またひっくり返ってしまうし。さて、どうしたものかと考えていたら、前に図書館で借りてきて聴かずにそのままになっていたビージーズのアルバムがあったから、それを聴く事にした。

何気なく聴いたビージーズ。これが、とても良かった。

甘ったるくて、切なくて、気だるくて、歌詞なんか分からなくても、そのメロウな音を聞いているだけで、歌の内容を自然に感じることができる。

今のアンニュイでレイジーな僕にぴったりだ。

70年代に青春を過ごしていた人って、ビージーズももちろんだけど、色々な素晴らしい音楽に囲まれて過ごしていたんだなと思う。とっても羨ましい。だって、70年代の音楽って本当にティーンエイジの甘ったるくて、切なくて、気だるくて、優しくて、攻撃的で、なんか変で、ちょっとした病な感じ、そうゆう要素を全部備えていて、そんな音楽に囲まれて一喜一憂してたなんてね。豊かだと思う。

3月25日(土)

桜のつぼみがほころび始めるように、僕にもようやく兆しが見えてきた。

4日間も寝込んでいるとさすがに不安にもなるけど、僕は26歳で、若くて、まだ変化に恵まれていて、元気な時もあれば、病気の時もたまにある。でも、病に臥せたとしても、それが絶望的なものでなければ、まだ治る力に漲っている。

まあ、率直に言って、これはとても嬉しいことだ。

大袈裟かもしれないけど、4日間寝込むってけっこう辛いことだ。特に病気に滅法弱い僕にとっては4日間あれば全てが真っ暗になるのに充分な期間だ。

でも、何度も言うけど、今、僕は回復に向かっている。未来は確実に輝いていて、おそらく、良いことしか起こらないだろう。そして、率直に言うけど、これはとても嬉しいことだ。そして、率直に言うけど、僕は非常に単純な人間だ。

3月28日(火)

僕はまがりなりにも学生で、学生は今春休みまっただ中のはずなのだ。

4月から始まる新しい学年に期待や不安を感じながらも、この春休みという一時のモラトリアムをごく曖昧に、そして、実に穏やかに、それでいて存分に、謳歌しているはずなのだ。あたかも桜の白い花びらがひらひらと舞い落ちているかのように。

この時期になると、中学の卒業式の事を思い出す。式を終えた僕らは胸に花のピンバッジをつけたまま酒屋で缶ビールを買い求め、暖かな光に満ちた縁側でしみじみと乾杯した。ほろ苦くも爽やかで、ひと口ごとに身体の奥が温かく、そして、心地好くなってゆくあの感じ。

あれは最も理想的な春休みの形だった。

私たちは四季の中で生きている。時には大胆に、そして、大らかに、その季節に身を委ねてしまうのも悪くはない。特にこの季節に身を委ねてしまうのはなかなかだ。

僕らはまがりなりにも学生で、学生は今春休みまっただ中のはずなのだ。しかし、今の僕らには学生らしいことなんて何もできない。春に身を委ねることすらできない。

3月29日(水)

出演予定だった映画が志し半ばにして頓挫してしまった。制作の方々もたいへん熱心に取り組んでおられたのに、とっても残念なことだ。

詳しい理由はここでは書けないけど、世の中には本当にロクでもない人間がいて、そのロクでもない人間は、みんなが丁寧に大切に育んできたかけがえのないものを無残にもかき乱して去っていく。

何かを作る場面においては、一定の衝突は避けられないのだが、それはより良いものを作り上げるために起きる衝突だ。しかし、本当にロクでもない人間は、その衝突を破壊の為に行使する。自分の手前勝手な価値観によって、もののみごとに全てを崩壊させるために。そして、彼女は涼しい顔をしてこう言うのだ。

「私は素晴らしいものを作りたいの☆」と。

キーッ!

26年間生きてきて思うのだが、ものを作る現場に限らず、世の中ってのはこういうロクでもない人間にとても優しく、そして、非常に脆く出来ている。とっても困ったことだ。

しかし、私たちは何度破壊されようとも、何度踏みにじられようとも、このかけがえのない積み木をひとつひとつ丁寧に積み上げていかなくてはならない。そして、この積み木が見事に積みあがった時、破壊者であるロクでもない彼女は一言こう言うだろう。

「素晴らしいわ☆」と。

キーッ!

写真拝借元

dacafe

http://www.dacafe.org/

3月30日(木)

今日、歯の移植手術を行なった。

どんなリスクがあろうとも、可能性があるなら挑戦する。それが僕の哲学だった。しかし、もう、何もかもがどうでもいい。誰か僕を助けてくれ。この思いもよらない激痛を取り除いてくれ。僕が甘かったのだ。

おか~さ~ん!!!

3月31日(金)

激痛で目覚めた。

これ以上、寝覚めの悪い起き方はないんじゃないだろうか。むかし、海岸沿いで野宿をしていた時に、嵐で目覚めたことがあるけど、あの時以上に苦しかった。

想像を遥かに超えて、生きるっていうのは一筋縄じゃいかないようだ。

ほんとにも~!