2006年 5月
5月1日(月)

メーデー。

本日は労働者の祭典である。貴方も僕も、そして、街を颯爽と歩く綺麗なおねえさんも、日々を労働に捧げる労働者階級、プロレタリアート。装いが華麗でも、生活スタイルがヤップでも、私たちは血塗られた歴史の中で常に虐げられてきた民。数万年の呪われた時代の中で子孫を残しつづけてきた民。あらゆる困難を掻い潜り、その狡賢さと生への執着を受け継いできた民。最早、身体の組成そのものがプロレタリアート。

そんな我々、プロレタリアートの祭典であるから、メーデーはゴールデンウィークには組み込まれない。

さあ、今日も元気に登校だ!

5月2日(火)

春の陽気はまだなのかと思っていたら、春を通り過ぎて、いきなり夏になってしまった。アメリカみたいな気候の過激さだ。情緒の欠片も無い。

陽気が過激に変化すれば、服装も過激に変化する。昨日までカーディガンを羽織っていた人が、突然、半袖一枚なんかになると、やっぱり戸惑う。もちろん、女性のことを言っている。

まあ、僕も男だから、女性の肌の露出にはそれなりに敏感で、特に、半年間も長袖の下に隠れていた真っ白な二の腕なんかが突然露出されるわけだから、これはなかなか生々しいし、なかなかエロティックだ。あまりの衝撃に何か間違いを起こしてしまうことだって、あり得ないこともない。

まあ、とにかく、そんな危険な事にもなりかねないので、こういった馬鹿みたいな気候の変化の根本原因である地球環境の問題について真剣に向き合ってゆこうと思う。

突然、露になる女性の二の腕は僕をエコロジストに変えてしまうぐらい危険なのだ。女性の方でも気を付けて頂けたらと思う。

不良の笑顔はイイ。

5月2日(火)

僕がアパートを出るのを見計らったように、大家が僕のところにやってきた。ゴミならちゃんと出したし、家賃も滞納していないし、ワーグナーを大音量で流したりもしていない。第一、迷惑がかかるような住人はこのアパートにはもういない。しかし、何かもの凄い嫌な感じが背筋に走る。

「真平くん」

「はい?」

「部屋のことなんだけど」

「なにか?」

「誰か良い友達いたら紹介してくれない?紹介料もはずむから」

なぬ~!紹介料とな!

アパートの住人が僕以外全て出て行ってしまった現在の国分寺アパートは、文字通りこの僕が唯一の大黒柱なわけで、不動産屋からも新しい入居者の便りが全く無いまま過ぎてゆく事態に不安を感じた大家は、この僕に助けの手を借りにきたのである。

という訳で

家賃は4万前後で1K、風呂・トイレ別。部屋によっては2K。

最寄駅は

JR中央線西国分寺駅 徒歩10分

JR中央線国分寺駅 徒歩20分

西武鉄道恋ヶ窪駅 徒歩10分

近所にイトーヨーカドー有り 徒歩1分

何も無いし、交通の便も悪いので、何かに集中したい人にはうってつけ!たまに僕からの焼酎の差し入れあり!若い女の子大歓迎!

たつみコーポ入居者求む!

5月8日(月)

このゴールデンウィークは力の限り労働した。そして、その労働の僅かな合間には気合を入れて遊んだ。おかげで僕の経済は破綻。体力も気力も限界だ。

新しい環境にも慣れてくるこの時期、そして、そんな時期にやってくるこのゴールデンウィークを契機に、ちょっとした鬱状態になるのが五月病というやつだが、一般的な五月病が継続的時間性の凹において呼応するのに対し、僕の今回の五月病は凸に呼応した。

この僅かな連休の間に、ある種のバブル原理が働いたとでも言うべきだろうか。ワンレン、ボディコン、お立ち台で扇子をフリフリ、ジュリアナトーキョー!的な。ちなみに付け加えると、連休バブル絶頂期に達した僕も西麻布のクラブに行き、我が友でもある地下料理研究家のスープンが考案したツンツクダンスでフロアを縦横無尽に踊り駆け抜けた。おそらく浮れ過ぎた人間とは踊ってしまうのだろう。今や都内ファイン系クラブでツンツクダンスを知らないやつはモグリだ。

まあ、そんな訳で、皆さんご推察の通り、現在、僕は景気良く五月病に突入している。1日12時間寝ても足りない。このままずっと目が覚めなくてもいいかな。みたいな。

バブルを経験した者だけが経験する悲壮感。

まあ、言葉では言い尽くせないものである。

5月16日(火)

やあやあ、御無沙汰!御無沙汰!

いやあ、あれよ、あれっ!作品作ってたのよぉ!学校の課題でねっ。

なんとか間に合った!良かった!

という訳で、これが作ったやつね。うちの大学で一般公開で展示してるから、まあ、物好きな人は見に来たらいいよ。うん。

5月17日(水)

三ヶ月以上も、いや、個人的なものに限定すれば、およそ半年ほど創作活動から離れていた為、今回の学校の課題はかなりきつかった。いや、本当にきつかった。もう学校辞めようかと真剣に考えたほどだ。

しかし、まあ、いろいろと問題はあるけれど、作品は無事に完成したし、当初の目的であった「自分の奥底にある意味不明でへんてこなモノ」を引っ張りあげることにも、ある程度は成功したように思う。

何事においてもそうだけど、継続的にやっていないと積み上がってはいかないんだなとつくづく感じた。思い出したようにちょこちょこ焦ってやったって、それは毎回ゼロからのスタートで、たまに10ぐらいまでは行くけれど、次にスタートする時にはまたゼロから始まるのだ。

水の上を走る為には、足が沈む前に駆け出せばいいなんて話があるけれど、ある意味ではとっても的を射ていて、水の上を走ろうなんて初めから無理だと思っている人は別にして、何かよく分からないような所へ分け入っていく人にはなかなか重みのある話だ。

結局、走ることを辞めてしまえば、水に沈んでいくわけで、おそらく、沈んでいるのに気が付いた頃にはもう手遅れなのだ。もう、水面に顔を出すこともできない。そのままズブズブと水の中へ、取り返しのつかない事になってしまう。ゼロからじゃなくて、勝手にマイナスへ進んで行っちゃってる。みたいな。

「今は学ぶ時だ!」なんて思って、いろいろとあっちやこっちに行っていたけれど、知らず知らずに疎かになっていたところっがズブズブと沈んでいて、結局「僕、死んでました」なんてね。笑い話にもならないからね。

危ない。危ない。

5月19日(金)

この二日間、ファッションショーなるものにモデルとして参加させてもらった。照明を浴びることは個人的には満更でもないし、知り合いが服のデザインをするという事もあって気楽に承諾したのだが、これがなかなか大変だった。

とにかく「ショー」であるわけだから、時間ものなわけで、しかも、アドリブが効かない一発勝負みたいなところがあるから、万が一のことも起こってはいけないのだ。そして、その為に出演するモデルは徹底的に管理される。とにかく管理される。囚人のように管理される。出入り口を施錠されてしまったりする。小便とかも行けない。煙草も吸えない。もちろん酒も呑めない。服を損なわないように最小限の動作しか許されない。

さて、先にも書いたけど、僕は照明を浴びることが大好きで、なぜ大好きなのかというと、照明は人から見られるために当てられるわけで、でも、照明を当てられると当然その照明の向こうにいる観客なんて僕からはぜんぜん見えなくて、ただ、やっぱりそこには大勢の観客がいて、じっと僕のことを見ている。視覚的には分からないけど大勢の人間が目の前にいるっていうのはその場の気配で感じるし、その視線が自分に集中しているっていうのも何かしら感じる。普通の人はそこで緊張してしまうんだろうけど、僕はその姿の見えない不特定多数の人間の視線を受けるあの感じがとっても好きなのだ。自分の容姿に自信があるからとかそういう事じゃなくて、肩を揉まれると気持ちいいとか、人に髪の毛をいじられると心地好いとか、そういう類いのものだ。外圧によるある種の快感として、僕は視線の圧力がけっこう好きなのだ。

そして、今回のこのファッションショーは大変には大変だったのだが、その照明という快楽に至るまでの一連の儀式として、僕にとって最高のものだった。まず、服を着せられ、メイクをされ、ちょっとうんざりするぐらいの時間監禁され、並ばされ、またうんざりするぐらい待たされて、いよいよ照明を浴びに行く。直前に舞台袖で待機してる時なんて、失神してしまいそうなくらいワクワクドキドキに高揚してしまった。

これは病み付きになる。周りはカワイイ子がいっぱいだし。本当に気持ち良かった。機会があればまた出たいものだ。

そうゆうアトラクションとかがディズニーランドとかにあればいいのに。大盛況間違いなしだと思うけどな~。

5月27日(土)

いや、久しぶり、久しぶり。御無沙汰しております。真平です。

日記のように継続的な積み重ねに価値が生じるような形態をとっているこのホームページにとって、今回のように期間が空いてしまった場合にちょっと困ってしまう。

書きたいことは沢山あるのだ。ただ、前回の更新から一週間以上も経ってしまっていると、始めの語り口から困ってしまう。空いてしまった時空間のどの物語から語ればよいものなのか、どのような媒介的物語を一週間前の自分と今現在の自分とに当てはめるべきなのか。そして、たとえ語り始めることができたとしても、一週間以上もの時空間に存在する物語の量はなかなか膨大で、なかなか一言では語り尽くせない。

そう、これはたんなる日記であって、「イリアス」や「オデッセイア」のような一大叙事詩などとは違うのだ。インターネットを使ってまで壮大な伝説を読み解こうとするような物好きな人はいないだろう。目が痛くなってしまうし。

という訳で、やはり更新頻度は少ないまでも、日記としての形態を保つため、僕は毎日国分寺のアパートで手書きで日記をつける事にしよう。夢やアイディアなんかもそうだけど、日々起こる出来事や、そこに生じた自らの感情や考えなんかも、表出した途端にみるみる消えていってしまう特質がある。そして、そういうものは日々励んでいなければ留めていることはできないし、こういう日記の面白さっていうのは、どんなに下らなくてもそういうみるみる消えていってしまう何モノかのほんの欠片でもいいから留めておくことができるという事だ。それは僕にとっても貴方たちにとっても魅力であるはずだ。

ちなみに、昨晩、真平革命の一環として焼肉を喰いに行ったんだけど、思っていたよりは美味しく喰うことができた。特に、ロースやカルビはとても美味しく喰えた。真平革命としては勝利した。

ただ、焼肉ってのは結局、若い者のために存在する喰いもんだと思う。喰うために喰わないければ喰うことさえ許されない。そういう哲学的な喰い物だ。そして、もう僕はそこまで一心不乱に一つの物事に邁進してゆくほど若くは無い。肉だけじゃなく、ビールやナムルやキムチにもうつつを抜かしたい。しかし、そんなところに寄り道をしているうちに簡単に振るい落とされてしまうのだ。

しかし、ああいった喰い物にもう少し早く出逢っていれば僕の青春時代も少し変わったものになっていたのかもしれない。出逢いとは常にタイミングである。

5月28日(日)

疲れた。

最近、朝起きると既に肩が凝っていたりする。寝ている時にも疲労が溜まっているのだ。おちおち睡眠もとっていられない。どうしたものだろうか。

身体的全盛期を迎えてしまった者にとって、身体とはもはや「悪」の存在でしかないのだ。世界宗教の多くが唱えているように、それは消滅の象徴として、今、僕に大きく降りかかる難題だ。しかし、私、真平は一筋縄ではいかない。

ここでその問題に付随した不思議な問題を取り上げよう。

身体が衰えれば、それに類する性欲や肉欲といった身体的欲望も衰えてゆくはずだと皆さんは思うだろう。そして、多くの人達はその定石通りの論理の中でそういった欲望を衰退させてゆく。

しかし、私は逆なのだ。

詳しく説明するのもアレだが、とにかく、疲労を溜めれば溜めるほど、私の欲望は大きくなる。身体という「悪」が消えるかわりに、欲望という「悪」が私を支配する。つまり、私の存在自体が一定の「悪」を保つために機能しているのだ。

だから次に会う時には私のことをこう呼んでくれ。「悪魔く~ん!」ってね。

「エロイムエッサイム エロッス!」

5月29日(月)

中央線。僕の目の前には車内の混雑にも関わらず足を組んで座っている若い女の子がいる。自分がどう観られているのか、そういう自分をどう表現すればいいのか、自らを主体的に、そして、相対的に熟知している、そういう女の子だ。鞄から単行本を出して読み始める。これもある種の演出だろう。

しかし、その演出はこの中央線という車内で最大限の効果を発揮している。うつむきかげんの顔。電車の振動で軽やかに揺れる髪の毛。スカートから露になるほっそりとした白い足。その姿を私たちが気兼ねなく観賞できるよう、彼女の視線は本の文字に落とされている。

舞台美術を学んでいる僕ですら、彼女のその演出には感心させられたし、実際、その素敵な物語りにすっかり魅了されてもしまった。

良い演出ってのは悪くない。

5月30日(火)

毎週火曜日は早稲田大学に通う日で、今日も夕方から「現代の作家群像」と「美学」という授業を受けてきた。「現代~」のほうは現代の文学や美術の作家が行っている芸術活動から学問的に未知や未開の領域を感覚的に明らかにしている何モノかを学ぶ授業だ。「美学」のほうはその名の通り「美しさ」についての授業で「美」を多角的に検証し「美」を明らかにするものだ。なかなか面白い授業だ。

さて、今年から通い始めた早稲田にはそろそろ2ヶ月ほどの付き合いになる。学食なんかでもバクバク定食を食べられるし。喫煙所でもスパスパ煙草を吸えるようにもなり、もはや、俺は早大生?なんて勘違いまでしているほどだ。しかし、早稲田はそんなに甘く無い。そろそろ慣れ始めた早稲田のキャンパスで、僕は衝撃的な違和感を感じてしまったのだ。

そう、皆が早稲田大学を周知であるように、早稲田は社会的にエリート大学として存在しているし、実際、僕の周りで早稲田に行った人間も小学生の頃から勉強漬けで、今もエリート企業でバリバリ働いているような一目置かれる存在なのだ。もちろん僕にとっても彼らが異形の存在であることは揺ぎ無い。

つまり、そういう畏怖の存在と一緒に机を並べて学んでいることに今日僕は気が付いてしまったのだ。物凄い違和感を感じてしまったのだ。慣れ始めた授業の中で少し周りを見ることができるようになった僕は彼らの存在を直に感じとってしまったのだ。

これはまったくの僕の偏見であり誤解、なのかもしれない。でも、僕の感覚が感じとってしまった事実でもあるし、実はそんなに重大にも感じてはいない。

だから「まぁ そんなの なんでもいっか」みたいな感じ。

適当。

5月31日(水)

僕の国分寺アパート、そう、たつみ荘、改め、たつみコーポはようやく2階の部屋が埋まったようだ。1部屋はお子さんだけを連れて実家に戻ってきた大家の娘が使っているようだが、旦那はどうしたんだ?なんて突っ込みは無しにして、まあ、これで大家も安心だろうと、なんだか僕も胸を撫で下ろしつつも、短かった単独篭城のあの頃も懐かしく思うのだ。

ただ、私の生活している1階の部屋たちの埋まる気配が無い。全く無い。形跡すらない。そこまで悪い物件ではないのだが、どうしたものだろうか?あぁ?

だぁあー!!!

そうか、原因はこれだったのか。僕の部屋の扉に貼ってあるレーニンだ!間違いない!僕が新しい部屋を探しているとしたら、絶対にこういう隣人がいる部屋だけは避けたいところだ。

でも、僕は剥がさないよ。