2006年 11月
11月5日(日)

「遥か出雲へ イザナミに誘われ・・・ ツアー ’06 秋 」

本日、往復1980Kmの道程を走破し、この遥かなる神話旅行の終止符を打つこととなった。長い旅を終え、思うところは沢山あるが、とにかく、この日本という国は想像以上に山深く、広大であり、そして、複雑である。

まあ、そんなわけで、とにかく、疲れた。 眠る。

11月6日(月)

本日は実家に越してから一発目の登校であったのだが、やはり、二時間の道程は、想像以上に遠く、そして、険しかった。しかも、神話旅行の直後でもあった為、今の現実にうまく焦点が合わないというか、気持ちの居所が微妙にずれているというか。とにかく、旅行の後によく見られるような倦怠感が常に付きまとい、あれだけ気がかりだったメーリングリストの問題もどこ吹く風か。まあ、それはそれでマズイのだが、そんな感じであった。

さて、実家や現実に戻されついでにひとつ。

実家に戻り、ようやく腰を落ち着け、まじまじと現実を見渡してみると、なかなか、これが厄介で、というか、厄介だから実家に戻された訳だが。

祖父である。

夏に倒れて以来、祖父の症状は劇的な変化も無くそのままで、記憶も言葉もなかなかうまく出て来ない。記憶や言葉がうまく出て来ないという事がどういう状況を生み出すか、これはちょっと経験してみないと分からないとは思うが、厄介なのである。現実的に、とても厄介なのである。

ただ、現実的にどんなに厄介であろうとも、この祖父との対話に、僕は何かしらの価値を見出せそうな気がするのは何なのだろうか?

いや、これは本当に厄介なのだ。ジェニファーのように、頑張れば何か役立つ情報が得られるコミュニケーションでもない。しかし、僕はこの祖父との対話によって、とんでもない何かを発見できそうな気がするのは何故なのだろうか?

祖父の存在は現実的な今の価値観で言えば、老人であり、病人であり、弱者である。言葉では平等とは言われても、蔑まれ、貶められる対象であり、厄介者である。

しかし、そこには私たちの存在の根底を揺るがす何かが介在しているように思えてならないのだ。知念里奈で言うところの、プレシャス・デリシャスが潜んでいるようでならないのだ。

それが一体何なのか。今はまだおぼろげではあるが、明確になり次第報告してゆこうと思う。

11月7日(火)

引越し直後に神話旅行へ旅立ってしまった為、実は、荷物の片づけが全く進んでいないのだ。

国分寺の私のアパートに来たことがある方なら知っていると思うが、私の国分寺での営みは特殊なスローライフ&ロハス、且つ、過激なエコロジカル&ミニマム路線をとっていた。だから、一般的な学生の一人暮らしに比べると荷物はひじょうに少なく、かなり質素であったのだ。

しかし、その少ない荷物でさえ、今の私にとっては許し難い程に無駄が多い。私自身がどうこうというよりも、まず地球に優しくない。そこが許せないのだ。

地球に優しく。人に優しく。それが私のモットーだ。

そうしなければ私が優しくされない。優しくされないと寂しい。辛い。それは困る。だから、私は際限なく何者にも優しい。そして、その優しさの第一の対象として、私は地球を据えたのである。

よく、ワイドショーなんかで「奥様お手軽収納術!」なんてやっているが、私は地球を愛するが為に、まずこの収納という概念を排除する決定を下した。収納なんていうものはあればあるほど、人はまた新たな物を買い足し、分不相応な価値までも自分の手元に置きたがるだろう。まあ、それが人間の性質だから仕方が無い。

だが、その人間の眠れる性質に火をつけたのが、この収納というシステムである。つまりは蔵だ。蔵は富を蓄積する。この蓄積というのがまず地球に良くない。地球の循環体系に滞りが生じるのだ。良くない。そして、この蓄積は、更に、その管理や分配の段階において必ず偏りが生じる。つまり、人間社会にヒエラルキーが生じるのである。これまた良くない。それから、このヒエラルキーは連鎖的な相乗効果をもたらし、更なる蓄積を求めだす。それは物質的な価値の形すら失い、紙幣や株券やゴルフ会員権に取って代わる。最早、訳が分からない。

そして、地球は蝕まれ、人も蝕まれ、私も蝕まれる。これは良くない!

だから、まず収納を排除するのだ!

はぁ~、それにしても、早く片付けないと、何もできねぇ~!

11月8日(水)

まず、ここに上げた2つの写真を見比べて頂きたい。

ちょっと見ずらいかもしれないが、同じ場所、同じマネキン、同じヅラ、そして、そのヅラをかぶる同じ人物。取り巻く人物の有無はあるが、この写真を構成する基本的な要素に大きな変わりは無い。両写真の撮影者も、私、真平である。

撮影された場所は滋賀県甲賀市「甲賀流忍術屋敷」の屋根裏部屋であり、マネキンは忍者の黒装束衣装を紹介する為に展示されているものである。

ちょうど今から10年前。高校2年生の頃。17歳。僕らはこの「甲賀流忍術屋敷」に修学旅行で訪れた。たしかあの日のスケジュールはクラス別の選択制で、他クラスが京都周辺の有名な社寺を選択する中、僕らのクラスは「甲賀流忍術屋敷」という渋いチョイスをしたのだった。そして、上の写真は、その当時、ちょうど10年前に撮られたものである。マネキンにかぶせられたヅラを剥ぎ取って悪ふざけをする高校男子の姿である。

あれから10年。僕らは偶然にも、同じ季節、同じ場所、同じマネキン、そして、同じヅラによって、かつての自分たちに再会することとなったのである。それが下の写真だ。最早、その姿は悪ふざけというよりは、哀愁すら感じさせ、且つ、かなりドラマティックでもある。

滋賀県甲賀市「甲賀流忍術屋敷」にある屋根裏部屋のマネキンのヅラは僕らを過去へと誘う。あのマネキンのヅラを装着した時、僕らは過去へとタイムスリップする。あのヅラこそタイムマッシーン。それをかぶった者なら、なおさらそう感じていることだろう。

「遥か出雲へ イザナミに誘われ・・・ ツアー ’06 秋 」

まさに神話的。時空間を超越する旅となった。

近いうちに今回の旅の記録をアップしたいと思う。

11月8日(水)

昨晩、久々にリリー・フランキーがJ-WAVEで番組をやっていたんだけど、これが、なんだかとても懐かしかったのだ。

ちょうど3年前の今頃。僕を取り巻く状況は全てが破綻の道を歩んでいた。仕事の問題。将来の問題。恋愛の問題。そして、その諸問題の活路として始めた大学受験でさえも、かなり厳しい状況に置かれていた。

そんな時、心の支えとなっていたのが、当時、リリー・フランキーがやっていたJ-WAVEのTR-2という番組だった。まだ、リリー・フランキーという名前が今のように有名になる前の事である。

番組は、適当で、下らなくて、卑猥で、とても禍々しいものだったけれど、当時、社会的に宙ぶらりんの状況にあった僕にとって、その反社会的な姿勢がとても心地好く、心強かった。

今では、何の縁か、リリーさんが通っていた大学に所属し、学科まで同じで、当時ほどの閉鎖感も無く何とか元気にやっているが、あんな頃もあったんだなと思うと、なかなか懐かしいわけである。

さて、負の連鎖について。

負の連鎖は確実に続く。円運動のように終わりは無い。堂々巡りを繰り返す。しかし、そのある場面で、ある種の笑いを実感した時、僕らは次の段階へレベルアップができるのだろう。破綻的な状況でも何かしらのポイントはあって、そのポイントには必ずトリックスターが介在している。そして、そのトリックスターに触発された時、僕らは負の対応関係から、劇的に飛躍できるのだろう。それは、もう、螺旋運動のような上昇運動巻き起こすのだろう。

その事を、変化とか成長とか呼ぶ人もいるが、僕はあえてこう呼ぼう。この飛躍は「革命」である。そして、私はその飛躍の引鉄となるトリックスターを目指す。適当で、下らなく、卑猥で、とても禍々しいトリックスターに私は憧れる。

11月9日(木)

さて、先日、祖父の事で記述した事を憶えて頂いているだろうか。

まあ、別に、憶えてても、憶えて無くてもいいんだけど。ちょっと解明された事があるのでひとつ。

祖父のコミュニケーションには対応関係が著しく欠しい。僕らが日常的に行なっている対応的な言語のコミュニケーションとはちょっと違うのだ。まあ、病気であるのだから仕方ないし、それがとても厄介な部分ではあるのだが。

では、対応関係が無いのなら、そこにはどんな関係が介在しているのか?と私は考える。

辻褄は合わない。意味は不明。しかし、祖父は祖父なりの関係性を持って行動し、表現している。数式でいえば「1+1=2」が数における対応関係だが、祖父の場合は「1+1=swでfrgthyじゅきおl;p:@」とかになる。イコール部分で何が起こっているか良く分からないのである。しかし、祖父は「1+1」を感じ、「swでfrgthyじゅきおl;p:@」と変換し、その事を私に伝えようとするのだ。だから、私はそこに何かがあると考える。いや、むしろ、私はそこに興味を感じたのだ。

今、学校では「衣服の領域」というテーマにのっとて、あらゆる意味での領域(境界)(突端)を露にするために、とことん突き進んでみる、という作業をしているが、僕はこの祖父との対話を通して、境目という現場は、理性的な対応関係で突き進んでいても見えないのではないかと感じている。境目の幅を狭くする事こそできるかもしれないが、それが何であるかというところまでは到達できないと思うのだ。

つまり、その存在に触れること。自分以外の、いや、自分も含めた外部に接触すること、そして、私にとっては一番身近なこの祖父に触れること。そういった接触というのは、今、僕らが通常の思考として持っている対応関係の中では到底到達できないのである。

しかし、おそらく、祖父は今、「存在との接触」を、日夜行なっていると私は考えている。なぜなら、祖父はそういった対応関係を持たないからだ。最早、酒井大阿闍梨にも負けず劣らず、凄い存在なのかもしれない。

でも、まあ、私はサルトルかハイデッガーぐらいで留めておこう。

あまりにも存在に触れようとするとゲロしちゃうからね。

11月11日(土)

今、ダーツが静かなブームになっているけど、こんなブームになるずっと前、まだまだダーツが本当に静かな営みとしてしか認知されていなかった頃から、たまに行くダーツバーが品川にあるんだけど、地元にも帰って来たことだし、久しぶりにそのバーに行ってみたんだ。

店内は「静かなブーム」のせいあってか、なかなか明るい喧騒に包まれ、昔のような余興としてのゲームではなくて、皆、真剣にゲームに対峙している。大真面目に的に向かって射を放つ。出鱈目な遊び方をしていた僕にとっては、その光景がどことなく滑稽に見える。もちろん「静かなブーム」特有のなかなか冴えない客達が目立つのと、「静かなブーム」特有の奇妙な盛り上がりが目障りなのも要因のひとつかもしれない。

静かであろうが、賑やかであろうが、「ブーム」はその対象となってしまった事物の一番大切な価値を損なう。そして、ダーツの価値は、既に、貶められてしまったんだ。

だから何だと言われると、別にダーツに特別の思い入れがあるとかそういう訳ではないんだけど、クアーズを飲みながら、そんな事を考えていたんだ。クアーズはライトなのにちょっとしたエグみがあってなかなかうまい。まあ、B級の嗜好ではあるけれど、ブームになっていないぶん、下手なA級よりは確実に存在感を持ったビールだ。

でも、そんなクアーズの2杯目のビンを空けた時、僕は目の前の妙な輝きに気が付いてしまったんだ。その不思議な存在感、奇妙な形、様々なバリエーション。そして、その見事なまでに鈍い輝き。

それは、知恵の輪だったんだ。

「知恵の輪バー」

酒とパズル。この組み合わせは、なかなか。興味深いのである。新たな迷宮へと私たちを誘うことであろう。ブームにならないで欲しいものだ。

11月15日(水)

やあやあ。

気候は一段と冬の気配を増し、私は身体と心と現実的な予定のバランスが全くかみ合わない今日この頃ではあるが、皆様は如何お過ごしか?滞りなくお過ごしか?

さて、私の一番軟弱な部分が表面化しているこの頃ではあるが、多少の滞りを抱えつつも、なんとか、寸でのところで日々をやり過ごしている。しかし、世の中には、そんな事をもろともせず、ズンズン我が道を進んでゆく人がいて、その我流の最たる高みに達した人を、私は「ちょい悪おじさん」と呼んでいる。もちろん、最近流行っていた件の語彙とは全くもって意を隔する。

昔、大学の合格が決まってから入学するまでの一月ちょっとの期間に港湾人足の仕事をしたことがあったんだけども、ここで出会ったおじさんたちがものの見事に「ちょい悪おじさん」だったのだ。

家を持たないおじさん、栄養失調で歯が抜けてしまったおじさん、賭け事は馬しかやらないおじさん、元ヤクザで兄貴分が捕まってしまったおじさん、中国人を蔑視するおじさん、借金が1000万円あるおじさん。

とにかく、その当時、私が知っていた「おじさん」と呼ばれる年齢層の男性とはかけ離れた型破りさとポリシーを持っていたのが、彼ら「ちょい悪おじさん」達で、その少年の心を留めたようなおじさん達の魅力に、僕はものの見事に惹き込まれてしまったのだ。たぶん、実際にそのちょい悪さがどんなものなのかは出会ってみないと伝わらないかと思うけど、スタイルだけに拘る「ちょい不良オヤジ」よりはよっぽど奥深く懐が広いのだ。

そして、そんな「ちょい悪おじさん」達の姿を思い浮かべると、たかが小石ごときにつまずいている自分の姿がなんとも滑稽で、私は新たな一歩が踏み出せそうな、踏み出せなさそうな。とにかく、なんだかちょっと安心できるのだ。私はまだ「ちょい悪」でもなんでもないのだから。

最近、NHKドラマの演出(監督)をやっている方とお近づきになる機会があったんだけど、失礼ながら、私はこの方に「ちょい悪おじさん」の香りを感じるのは何故なのだろうか?あんまり会話を交わした事がないので、断定的なことは言えないけれど、やはり、あの耳毛の長さが最たる要因か?

とにかく、魅力的な何かを持っていることは確かだ。

気になる存在だ。

11月16日(木)

何がともあれ、私を取り巻く状況は刻々と複雑に絡み合いつつも、なんとか巧いこと折り合いをつけながら、その歩みを確実に一歩ずつ行進している。まあ、その良し悪しはとりあえず置いておいて。

でも、とにかく、明日がある意味での山場である私ではあるが、なんだか訳も分からず、ボジョレーヌーボーの解禁だかなんだかで、苦~い赤ワインを飲み、悪酔いしてきた直後ではある。

しかし、今の私は、何だか心地好い。

なぜならば、そんな悪酔いの中でも、私は何だか何だか、ちょっとしたものをつかんで来てしまったのだから。

私は、友人とか、友達とか、仲間といった関係は、ある状況下にあれば勝手にできてくるものだと思っていた。なんとなく時間を共有していれば、人間はある共通認識の元に、友人や知り合いや仲間になれると筈なんだと。まあ、思い出の共有だ。

例えば、学校のクラスが一緒だったとか、部活が一緒だったとか、ゼミが一緒だったとか。会社で部署が一緒だったとか、席が隣り同士だったとか、趣味が合ったとか。

でも、僕は、今日、気がついたんだ。その認識は偽りだ。

僕らは自発的な行動の中でしか、本質的な関係は結べないのだ。与えられた環境や、偶然の産物の中では、決して本来的な人間関係は生まれない。全ては自発の中でしか生まれないのだ。

考えて欲しい。今、あなたが長く付き合っている人物を。それは決して偶然の産物ではない筈だ。自らが自発的に動いた結果として生まれた関係ではないか?違うか?もし違うならそれは偽りだ。そこまで私は断言しよう。

自らが踏み出した結果としての出会いがあるならば、それは最も尊ぶべきものである。そして、私は、その尊ぶべきものを果てしなく拡大するであろう。つまり、自発の中でお互いが何かを構築する経験、それを共有した者同士を本来的な友人、友達、仲間、として、私はこの後、認識するであろう。いや、その認識以外に、そういった関係はあり得ないのだから。

11月20日(月)

さてさて、こんばんは。

スタッフの皆様には大変ご迷惑をかけ、且つ、不甲斐ない演技しかできなかった自分自身に後ろめたさを感じつつ、ドラマ撮影はなんとかクランクアップを迎え、申し訳なさを抱えながらも密かに肩を撫で下ろす真平である。

しかし、ひと波終われば、またひと波。世の中の流れとは、かくも期待を裏切るもので、そのせいか、私はいっちょ前にも「いつになったら私には気の休まる時間がやってくるのだろうか」などと、勘違いめいた想いを巡らせるのである。嗚呼、なんと小者なのだろうか。

ただ、そんな中でも、最近、想うことがひとつ。

私は政治的には民主主義をとことん貫く共産主義者である。むろん、血の色まで真っ赤だ。が、ひと度、モノ作りの現場に立ち戻ると、この政治思想はことごとく覆るのだ。

というのは、今の学校に入ってから、グループでの課題制作が何度かあり、現在も、このグループでの課題に目下取り組み中なのだが、こういった多人数の制作の中で、民主的に、皆が納得したところで決まった造形なり演出なりの力の無さといったら、全くもってあり得ないのだ。

つまり、皆が納得するような事というのは、政治的に目指さなければならないものであるが、私の属しているような美術や芸術といった現場では、むしろ削いでいかなければ、いや、そういった皆が納得するようなところに新たにメスを入れてゆくには、やはり、民主的な視点でいてはまずいのではないかと感じるのだ。

例えば、コラボレーションという手法がデザインや音楽の中でもてはやされているけど、あれだって、せいぜい2つ乃至3つぐらいの要素のタッグであって、それが10も20もになれば、いくら個別的には素晴らしいものであっても、最早、その存在はより平坦に、均質化されてくることであろう。つまり、力が無くなるのである。

地方の土産物屋で売っている何だか訳の分からない置物とかキーホルダーとかは、民主主義造形物の最たる例である。最終的には処分に困る存在にしかならないのだ。

まあ、あれはあれで嫌いではないけれど、やっぱ、いらない。

11月21日(火)

その形態、その様式、そして、その思想においてまで革命論理に終始し、今年、私にとって最も革命的な事件のひとつにも数え上げられるであろう出来事。既に5回を数えるこの闘争の中から学んだ事は数限り無い。そして、そのすべての経験が私の思想的土台を揺り動かす、つまり、真の革命であったのだ。

我々の自由とは、今日、自由になる為に戦う自由な選択以外の何ものでもない。大衆よ集え!そして団結しよう!モツ鍋の前に!

最早、この造形を見ていただければ、全てが納得いただけると思う。

ここで革命が起きなければどこで起きるのだ!

突然の鍋の変化に、動揺が走る同志達。

諸君!ここで結束を緩めてはイカン!

モツの叫びは!我らプロレタリアートの叫び!

粘り強い闘争の甲斐あって、無事、モツが煮あがる。

プロレタリアートは動物の臓物まで喰らう!

これぞ我々が生に直面し、生を尊ぶ証である!

プロレタリアートの胃は底なしに深い。

我々は常に飢え、だからこそ、常に新しい道を切り拓く主体となるのだ!

我々プロレタリアートは生に貪欲だ。

今日、喰えるものは、今日、とことん喰わなければ!

そして、未来の革命の活力に!

しかし、我々プロレタリアートの現社会での経済力は乏しい。

これが、これが現実なのか!?

これが革命のなれの果てなのか!!!

否!

人間がこの地球上に生き続ける限り闘争に果てはない!

我々プロレタリアートは死をも活かす!

最早、その姿は死のスープをかき混ぜる悪魔の様相である。

しかし、我々プロレタリアートは知っている。

我々の生はかくも死にまみれているのだ!目をそらすな!

見よ!同志諸君!

これぞ生と死の混ざり合った。まさに我々プロレタリアートの姿である!

革命的なひと椀である!

喰らえ!

そして、自由を勝ち取ろう!

かつて、ある革命家が言った。

「どんな政治的自由があっても、それだけでは飢えたる大衆を満足させない。」

我々は、最早、この問題をモツ鍋によって克服した。しかし、貪欲なる我々は新たな段階へと足を踏み入れるであろう!大衆よ集え!そして団結しよう!モツ鍋の前に!

鳥小屋

(本店) 東京都目黒区上目黒3-5-22

03-3710-6762

(東山店) 東京都目黒区東山1-5-11

03-5704-1707

11月22日(水)

明後日までに提出の作品の制作が、どうにもこうにも上手くゆかん。泣き言をいうのは簡単だが、泣き言だけではどうにもならん。でも、泣き言をいいながら、本当に泣いてみるとちょっと気分が晴れる。

で、気がついたんだ。涙ってのは酒のようなもんだ。

涙も人を酔わすんだ。

まあ、そんな事に気がついたところで、現状は何も変わらんし、課題提出前に泣き言いって本気で泣いている年増の大学生は、ただただキモイだけだ。全てが悪循環。埋めては湧く瞬間。留めておく羅漢。

は~。だみだ~。

11月23日(木)

昨日も言ったけど、明日が課題の提出期限なんだが、制作の方は今だ何も進んでいない。でも、だからって手をこまねいて、家で悶々と悩んでいるだけの俺ではないぜ。

そう、だから、今日は秋葉原へ行って来たんだ。

なぜ秋葉原かって?昔、働いていた職場の上司が、こんな事を言っていたんだ。「東京には3つの欲望渦巻く街があるんだ。性欲の街、新宿。食欲の街、横浜。そして、物欲の街、秋葉原。」ってね。ゾクゾクするだろ?えっ?横浜は東京じゃないって?そんな野暮な事は言いっこなしだぜ。どっかのランドだって千葉なのに東京を名のってるじゃないか。

とにかく、俺は昔の上司のそんな言葉を思い出して、シンシティーに次ぐバイオレンスシティー、秋葉原へと足を踏み入れたわけなんだ。駅を下りると冷たい雨。まったく嫌な出だしだぜ。コートの襟に顔をうずめて、目的の場所に走る。いつ来ても陰鬱な街だ。でも、俺は知っているんだ。こんな雰囲気の街こそ一番ヤバイんだ。でも、俺はもう1つの真実を知っている。こんな雰囲気の街こそ目当てのものが見つかるんだ。まあ、欲望と危険は隣り合わせってことだ。

そして、多くの店がシャッターを閉めはじめ、街に危険な香りが漂う頃、俺はとうとう行き着いてしまったんだ。ヤツは薄暗い店の一番の暗がりの中で無造作に転がっていた。俺が気がつかなかったら店主も気がつかなかったんじゃないか。まあ、魅力的なもんってのは、往々にしてそういう気付かれにくい所にいるもんだ。もちろん、いい女も例外じゃないぜ。

しかし、どうだい?いいアンテナだろ?

何に使うかって?そんなことは俺にだって分からない。でも、手に入れたんだから、何かには使うさ。まあ、巡り会わせってやつだ。本当にいいアンテナだろ?

は~。

11月26日(日)

現在、僕は大学生だけど、大学生であるという自覚に乏しい。もう3年も経つというのになかなか慣れない。年齢のせいもあるし、僕の通っている大学のせいもあると思う。だから、大学を出ている人とか現役の大学生とかに会うと、自分のことはさておいて「凄いな~!大学出てるんだ!」と感心してしまう。

尚且つ、僕は今通っている大学においても、在籍している自覚が乏しくて、やっぱり、自分のことはさておいて「美大生って凄いな~!」なんて感心してしまう。

まあ、何が言いたいのかっていうと、感心しているうちはいつまでたっても部外者であるってことだ。このまま何でもかんでも感心し続けていたら、鶴太郎の絵に感心するオバサンのようになってしまうだろう。感心するんだったら、僕は鶴太郎のマッチのモノマネに感心していたい。

しかし、鶴太郎の美術館はなぜ温泉町にあるんだろうか?

11月27日(月)

かつて、僕は今でいうところのニートのような生活をしていた時期があったんだ。何をしても上手くいかず、何をしても打開策が生まれず、結局、心も身体も強張って何もできなくなってしまう。ちょっとした買い物に出るのも億劫になってしまうほど、世界の全ての質量が重くなってしまって、だから、酒の力でなんとか心だけでも軽くして日々をやり過ごしていた。本当に重苦しい世紀末だったんだ。

まあ、その時は、なんとか状況を打開する道が見つかったんだけど、僕はそういう局面になると内へ内へと塞ぎ込む帰来があって、流石に、今はもう酒の持つ恐ろしいまでの底力を知っているから、酒には手は出さないけれど、その逃げ道がないぶん僕はそういう自分自身の弱みに正面から対峙しなければならない。対峙してもどうにもならないかもしれないし、自分自身のそういう弱さはどうにもならないかもしれないけれど、もうそろそろ、そういう自分と上手く付き合っていく術ぐらいは見つけなければならないと感じるんだ。そろそろこの問題にケリをつけておかないと、この先、僕にとっても、僕に関わる他人にとっても得なことはないからね。次の誕生日で27歳にもなるんだし。

で、突然だけど、人知れず、僕は、今、まさに、その重要な局面に直面していたりするんだ。今現在、僕はかつての世紀末ほどに塞ぎこんでいて、これを何とか打破する為に画策していたりもするんだ。とっても個人的なことだけど、そういう局面に立っている人を観察するのも悪くないと思うので、まあ、どこかで僕を見かけたら、そういう視点で僕を見て頂くのも面白いかも。

11月28日(火)

やはり、外へ打って出ること、その上で新しい知識や経験を取り入れること、そして、人と関わること、これ以外には何の打開も生まれないことを知った。頭で考えたことでもなく、本で読んだことでもない、もはや、これは私の経験として、事実として、認識として、本日、私の体内にインプットされたのだ。

私、真平は、本日、23時48分、レベルをアップを果たした。

意外と簡単にレベルアップしたので、また大きくつまづくかもしれないが、まあ、その時はその時だ。本質的な三位一体のレベルアップはそう簡単に崩れないことを私は知っている。たぶん大丈夫だろ。

ガンガン いくぜ~!

まあ、しかし、こうやってすぐ調子にのってしまう悪い癖の改善を今度はしなくては。

11月30日(木)

ジェニファーにベラベラとフランス語で喋ってもらい、その内容を同時通訳風にジェニファーの隣りで喋る。もちろんジェニファーのフランス語の内容は出鱈目で、日本語のほうもちょっと出鱈目。一応、正式なインフォメーションだったんだけど、普通にやったらつまらないから、そんな風にしてみた。発案は僕じゃないけど。

インフォメーションは1年生に向けたもので、一応、僕はこの出鱈目な通訳ショーから抜け落ちた正式な部分を補足するためにかり出されたんだけど、ざっと100名は超えるうら若き1年生の顔を目の前にして、ちょっとため息が出た。

まあ、1年生相手だから、これぐらいやった方がウケがいいんじゃないかと思ってやってみたことだけど、これが予想以上にウケたんだ。そして、僕は全身で感じてしまったんだ。「そうだ、これが若さだ」ってね。

僕は既に若さを忘れて久しいことすら忘れていたんだ。あの頃には戻れないんだと何度も何度も思っているうちに、その思いすらいつの間にか忘れてしまっていたんだ。僕はまだ20代だけど、やっぱりティーンエイジ達の若さとはまったくもって質が異なる。

もう、なんていうか、ぷりっぷりっしてるのね。