2006年 12月
12月2日(土)

何というか、疲れている。明日もアルバイトがあるのでゆっくりもしていられない。いや、むしろ、アルバイトがあるからなお忙しいのだ。はぁ。

そういえば、今、写真家であり、うちの大学の教授でもある新正卓先生の退任記念で展示会が学内で行なわれている。僕の友人なども照明デザインに携わっているので、いつか行こう、いつか行こうと思っていたのだが、なかなか思うように自由になる時間がなく、結局、今日、たまたま午後に少し時間が空いたので観に行ったのだった。

まあ、個人的には写真の展示会なんて退屈なものしかないと思っていたし、所詮、大学でやることだし、たかが知れている。大変失礼ながら、今回のこの展示会も、写真目的というよりも照明目当てで見に行ったようなものだった。

そして、案の定、写真の方は、なかなか、どうして、なるほど、まずまず、こんなものかと見ている内に、僕は自分でも信じられないほどの大粒の涙をこぼしていたのだった。

こういった質の感動をおぼえたのは、これが初めてだ。

12月4日(月)

は~。またもやお疲れである。うむ。

疲れているので、今日はちょっとした話題をひとつ。

今、パン業界(あの加工食品のパンである)では素材や作り方にこだわり抜いた、とても高価なパンがかなり売れているらしい。ただ、その裏で、多少粗末ではあるけど、とにかく経済的に優れたパンもかなり売れているらしい。だから、パン業界は相反するその二つの価値観に的を絞ったパンを売り出そうとしているらしいと、どこかのラジオで聴いた。

この話を聴いた時、格差社会の中で生まれる当然の結果ではあるが、僕には思うところがあった。それは、安価なパンを苦虫を噛むかのごとく選択せざるを得ない格差社会の低所得層の中でも、その現実から目を背け、無理をしてでも高価なパンを購入している層が少なからずいるのではないかという予感である。いや、必ずいるのだ。

しかし、我々はその苦虫のようなパンを齧り、我々が置かれている現実を直視しなければならない。いや、むしろ、その苦虫パンを通して我々の置かれている矛盾に体当たりしなければならないのだ。我々はいとも容易く到達するであろう。その矛盾を放出している根源に。そして、その怒りの矛先に。

現在、世界は目に余るほど、格差の二分化が進んでいる。もし、誰もが苦虫パンを噛み砕き、その現実をも噛み砕いていたならば、世界はこれほどまでに酷いことにはならなかっただろう。つまり、先人達は苦虫パンを避けて通ってきたのだ。どんなに大口を叩いていても、彼らは柔らかく豊潤なパンを貪り、現実から目を背けていたのだ。

我々に苦虫パンを!

まあ、パンを通して見えてくる、ひとつの真理である。

あ~、疲れた。美味しいパンが食べたい。

12月21日(木)

どうも、お久しぶりです。真平です。

いやいや。さてさて。今まで生きていて、忙しいと思った経験は多々あるけども、今回ほど忙しさに翻弄されたことはなかったのではなかろうか。あらゆる忙しさにおいて何かしらの達成感や到達感があるものだけど、今回ほど結果の伴わなかったこともなかったのではなかろうか。

何もかもが無駄になり、何もかもが失敗に終わった。ある意味、貴重な体験ではあるが、それを経験したあと味の悪さといったら、それは二日酔いの口の中のように気持ちが悪い。学校もようやく冬休みに入り、忙しさから解放された今でも、私はこのあと味の悪さを引きずっている。

こんな私を、誰かスッキリさせてくれ。

12月22日(金)

あらためて言う必要もないけれど、僕らにとって、やはり、死というものは、揺るぎようのない辛さと、悲しみを与えるものである。だからこそ、死に対する恐怖は一生僕らに付きまとうし、この先、何百年、何千年経ったとしても、この厳然たる最上級の苦難の呪縛からは、僕らは逃れられないのだろう。

しかし、今の僕は、その辛さや、悲しみすらも通り越して、もう、何がなんだか訳が分からない。なぜ、そんな理不尽なものが存在するのか?誰がそんなことをしているのか?何の理由で?何でそんな事にならなくてはならないのか?何なんだ?本当に何なんだ?

死に憤慨している。死が憎くてしかたない。

できることなら死を殺してやりたい。

12月27日(水)

どうも。流石に心も身体も財布の中身にも限界が見えてきた真平ですが、本日を持ちまして、ようやく仕事納め。ホッと息つき、日記をしたためている次第であります。

さて、学校が終わればどうにか落ち着くかと思いきや、気付けば世間は師走、息つく間もなくせかせかと小走りに走り抜けてきたわけで、今月の更新は御覧のありさまとなってしまいました。真平ファンの皆さまには大変ご迷惑おかけしました。

しかし、今まで生きていて、今回のような忙しさは本当に初めてで、忙しいと言っても、普段なら最低限の衣食住の時間は確保されていたものの、今回はそれも無い。飯食う時間があるのなら何かやり残した事がないか確かめ、一服している時間があるのなら返事をしていない連絡に返信をし、風呂に入っている暇があるのなら手付かずの作業を進め、寝る暇があるのならとことんまで作業を進め、朝は寝坊をする。そんな毎日。そんな毎日でも、やり残したことが散在し、日を追うごとにその量が増す。

しかし、そういう生活の中で私は気が付いてしまった。

これは性に合わん。と。

とにかく明日から6連休。今まで実益の為に一ヶ月間突っ走ってきたが、今度は無益の為に6日間を過ごすぞい!

なぜ人間はこの世に生を享けたのか?そして、これから我々はどこに向かって行くのか?

なんて無益な問いなのだろう!無益な6日間を過ごすには打ってつけである!部屋に篭って考え抜くぞい!

12月28日(木)

予定の無い年の瀬の昼下がり。カーテンを開け放ち、部屋に4つある窓を全開にする。池上通りから聞こえてくる大型自動車の廃棄音に紛れて、掃除機の音、布団を叩く音、子供達の歓声。ベッドに横になり、煙草に火をつけ、枕もとに置いてあった気の抜けたコカコーラをひと口。ゴドーを待つウラジミールとエストラゴンに思いを馳せる。

ウラジミールもエストラゴンも浮浪者で、いや、浮浪者だからゴドーを待ち続けられたのか?いや、そもそも二人は浮浪者なのか?とにかく、ゴドーはやって来ない。だから、二人は今でもずっとゴドーを待ち続けているんだ。

では、ウラジミールとエストラゴンは何のために待っているのか、いや、何のためとかではなくて、それはもう信念だ。信念において待っている。だから、おそらくゴドーは信念の何かだ。そして、僕は新年と信念の音の類似からゴドーに辿りついたんだ。

理路整然と思考ができる者。理路整然と認識ができる者。それが人間だと、つい最近まで思っていた。もちろん、それは僕以外の多くの人が思っていることだろうし、今でも揺るぎない真実として認知、いや、信じこまされている。そう、人間は信じこむことのほうが得意なんだ。

でも、僕は信じない。例え、信じることで理路整然とした思考や認識ができるようになったとしても、僕は信じない。ウラジミールとエストラゴンが信念というゴドーを待つのなら、僕は新年を待とう。そこに理路整然とした意味は無い。あるのは音の酷似だけだ。むしろ、人間はそういうところに敏感に反応するものだ。

冷えてきた部屋の中で、ベッドに横になりながら考える。無駄な。本当に無駄な思考の旅行。そう。こういう事なんだ。僕が愛してやまないのは。

12月31日(日)

別に、表立って書くような事では無いけれど、今月は本気で二度泣いてしまった。一度目は何の前触れも無く涙がこぼれ落ちた。感動の涙だ。二度目は人目もはばからず大声をあげて泣いた。悲しみの涙だ。

27歳を迎え、否が応でも心の琴線に触れるようなできごとが増えてくる。ただ、だからと言って、涙を流せばいいことでもないし、泣きたい時に所かまわず泣けるわけでもない。全てはバランスだ。誰が決めたわけでもないバランス。ただ、そのバランスすらも忘れて、今月は泣いた。

まあ、そんなわけで、今年はおしまい。

実生活サイドではまだまだやらなくてはならない事が山積していて、本当に年が越せるのか?なんて焦っているけれどいるけれど、とにかく、今年の真平のホームページはおしまい。じゃあね。

みなさま、良いお年を。