2007年 8月
8月2日(木)

アニメ。 「日刊YouTube」という、アニメ動画を紹介しているサイトを職場の方から教えてもらったのだが、なかなか、これが、ハマってしまう。懐かしきあのアニメやら最新のこのアニメなんかを見ているうちに、気がつけば寝る間も惜しんでアニメに没頭している自分がいるのだ。完全なるアニメ中毒者だ。

最近では、これはちょっと、いわゆる「ヲタ」なのか?と思ってしまうようなテリトリー(作品名はあえて伏せる)にまで領域を広げつつ、私のアニメ経験値は日増しにレベルを上げている。

しかし、このアニメの世界に身を委ねる心地良さ、非現実の世界に邁進する気軽さ。まさに「ヲタ」の境地に心酔してゆく、崇高な「ヲタ」の聖地へ没入してゆく、そんな私は、いわゆる、ひとつの、立派な、アキバ系じゃないかっ!と、気がついたのは、ついさっき、あるアニメのキャラクターを見て「ドキッ☆」としてしまった時だった。

嗚呼。

こんな私を皆さんは好きか?

私は自分にあまり自信が持てなくなってきてしまった。 おふくろ、ごめんよ。

8月6日(月)

美しき日出処。 その美しさを蔑むならば死を厭わず立ち上がり、その尊厳を危険に晒すものは排除して然るべき。そんな論調のことをごく身近な友人からも耳にする昨今。

だが、私は思う。本来、美しいと思われるものを蔑むものがあるだろうか?本来、美しさとはそんなに排他的な性質のものだろうか?百歩譲って、その美しさを蔑んだり、危険に晒す何ものかがあった場合、そういったものの目線や立場に成り下がり、同じ土俵に上がることが、はたして美しいことなのか?

昨今、声高に叫ばれている美しさとは、とても軽薄で危険な美しさだと、私は思う。そして、そんな美しさを、私は美しいとは思わない。むしろ、悍ましい。

8月9日(木)

喪失。 最近はかなりモ識Iに注意しているのだが、如何せん、無意識の状態にあるので、そうなってしまったら最期、もはや為す術は無い。

酒の話だ。

酔っ払って暴れるとか、酒癖が悪い(まあ人並みには悪いが)とか、そういうことではないのだ。ただ、記憶が欠落する。アルコールを一定量以上摂取すると次の日は綺麗サッパリ何も覚えていない。記憶喪失だ。もちろん、相当量のアルコールを摂取しない限り、そういう状態にはならないが。

とは言っても、私はとてもチャーミングに酔っ払うので、記憶が無い時に何か致命的な事件を起こすようなことは無いとは思うのだが、やはり、自分の行動を記憶で確認できない時間が存在するというのは不気味なものだ。私の知らないもう一人の自分を抱えているような、そんな気分だ。

だから、ここ最近は飲んでもたいして害のないビールやサワーを飲むようにしたり、アルコールの量自体もセーブするようにして、なんとかそういう状態に陥ることを回避している。ごくたまに、そういった事情を理解している気の置けない友人達と飲む場合に少々深酒になってしまう事もあるが、それでも、なるべく気を遣って飲むようにしている。

ただ、昨晩はそれでもちょっと飲み過ぎた。ブレインウォッシュされたように私の記憶は何も残っていない。

冬のソナタのように、失った記憶がとても美しく、掛け替えのないような質のものなら、あえて知る必要もないが、ハードボイルドな私としては酔えば酔うほどチャーミングになってしまう自身の行動をできる限り把握しておく必要があるのだ。

皆さんも協力頼む。

8月10日(金)

相談。 私などは刺身醤油の皿ぐらいの器量しか持ち合わせていないので、他人の相談にのるようなことはあえてしなかったし、他人もそういった事情はよく心得たもので、そんな私に相談などを持ちかけなかった。ただ、そんな私でも、年に数回、真面目な相談を得てして受けてしまうことがあって、つい先程も、稀に見る、しかも、恋愛相談を受けていたところだった。

相談の内容はプライバシーに関わることなので書くつもりは無いが、いわゆる恋愛についての典型的な相談だ。

ただ、そんな相談に対して私は特に倦怠感や嫌悪感を抱くことなく、むしろ、とても興味深く対応すること、いや、対応と言うとおこがましいが、相談に対する接し方というものが少し分かったように思うのだ。倦怠感とか嫌悪感とか、ちょっと極端に表現したが、以前の私はそれだけ相談されることに対して上手く接することができなかった。むしろ、接し方を誤っていたのだ。

まあ、私の器量も醤油皿から御猪口ぐらいにはなったのだろう。 相談求む!

8月13日(月)

嗚呼。 昼休み。ひんやりと冷やされたオフィスビルから灼熱の街へ。灰色に汚れたビルの隙間から真っ青な空が輝く。夏はあらゆるもののコントラストがュすぎる。昔はその振り幅が心地好かったが、最近はその振り幅が堪える。長袖のYシャツを肘まで捲くり、胸ポケットから取り出したタバコに火をつける。

ふぅ~。さて、今日は何を食べようか。

その時、私の脳裏に危険な記憶がフラッシュバックした。r それは、爽快かつほろ苦い、夏のコントラストに絶妙な。er いや、それ以上考えるんじゃない。eer 嗚呼。beer

夏の禁断の果汁。

8月14日(火)

コントラスト。 夕闇迫る職場からの帰り道。盆休み中で都内の道路は閑散としている。いつもよりスピードを上げながら、線路沿いの緩やかに湾曲した道路をバイクで駆け抜ける。車線の先に他の車両は見えない。遥か前方の信号機が黄色から赤に変わる。真夏のゴーストタウン。束の間のクールダウン。信号待ちでタバコに火をつける。

一服。

信号待ちの私の側を15両のりんかい線が追い越してゆく。車内の人影は疎らだ。りんかい線の轟音が遠ざかって行ったかと思うと、前方からサイレンの音が近づいてくる。視線をサイレンの方へやると対向車線を救急車がこちらに向かって来ていた。その救急車が私の横を通り過ぎる、その一瞬間だった。フロントガラス越しに、奥の処置スペースで力なく視線を落とす女の子の姿が見えたのだ。

そうだ。ウチのじいちゃんが最初に倒れたのも、去年の暑い夏の事だった。

夏のコントラストは強い。生命力の輝きが濃密な分、その影は更に濃くなるのだ。その漆黒の影に取り込まれないよう、なんとか、なんとか、と、経験者として願うものである。

ウチのじいちゃんは八王子でなんとか元気にやっている。 その節は、みなさん御心配ありがとうございました。

夏のコントラストは、やはり厳しい。

8月27日(月)

真骨頂。 「ゆれる」という映画がある。オダギリジョー主演の映画だ。今までのすかしたオダギリジョーのイメージからすると、ちょっと特異な役柄だが、むしろ私は、こういった役こそオダギリジョーの真骨頂なんじゃないかと思っている。オダギリジョーフリークの女子も、そうでない女子も、オダギリジョーを更に好きになる事だろう。必見だ。

俳優には、必ずハマリ役がある。ブラッド・ピットは目の前で奥さんが死ぬ旦那の役を演じさせたら抜群だ。泥棒の役なんてもっての他。トム・クルーズは全力疾走で逃げ惑う役を演じさせたら右に出るものはいない。御曹司のボンボン役などは鼻につき過ぎる。ブルース・ウィリスは孤高の悪徳警官。良い警官では渋さが死ぬ。ジュード・ロウは猟奇殺人者。ガエル・ガルシア・ベルナルは男娼。オーランド・ブルームはエルフ。ダニエル・ラドクリフはハリー・ポッター。と、まあ、それぞれの俳優がそれぞれの良さを持っているし、そういったハマっているキャスティングの映画はそれなりに見ごたえあるものが多いし、その逆だと、いまいちな場合が多い。

まあ、そんなところから言えば、私などはさしずめ、何事にも逃げることで収拾を付ける卑怯な男の役がハマっているのだろう。ちなみに同じハマリ役を持っているのが妻夫木聡君だ。

悪くない。

8月28日(火)

嵐。 闇夜の空が音も無くザザッと点滅を繰り返す。テレビの放送終了後の砂嵐のような空。カミナリ?にしては音が無い。幻想的ながらも、妙に凶々しく、何かが込みあげてくるような空。あの空の向こうで今晩行われる月蝕がそうさせるのか?

しかし、それは単なる兆しでしかなかったのだ。

午後7時30分。そう、月蝕の始まる時刻。環七と第二京浜がぶつかる松原橋の交差点。信号が青に変わるのとほぼ同時。身体の芯を貫くような轟音と閃光。目の前が見えなくなるほどの豪雨。高鳴る鼓動。

嵐の。始まりだ。

迷わずスロットルを全開に。リアタイヤが空転する感触を確かめ、フロントブレーキを放す。雨で濡れたアスファルトの道路を滑るように急発進。久々の嵐のランニングに慣れないせいか、マシンがなかなか安定しない。地面を濡らす水の皮膜をタイヤが危うく噛み締める。

ふらつきながらもマシンは加速してゆく。豪雨なのか、カミナリなのか、風なのか、エンジンなのか、耳元に轟音がまとわりつく。目の前を眩く歪んだ色とりどりの光が通り過ぎ、豪雨と暴風の壁を無理やりかきわけて俺は疾走してゆく。この巨大な都市を包括する環状の道路を、今、俺は疾走している。今、俺は、空間を、移動している。

空間移動は、危うく、脆く、だから、楽しい。

こうして、俺の「ひと夏の・・・」は始まり、8時30分、まるで月蝕の終焉に呼応したかのように静まった嵐とともに、終わりを告げた。

さよなら嵐。さよなら月蝕。そして、さよなら夏の日。

8月29日(水)

退屈な日常。 若かりし時代。身体の成長にともなって生じるある種の熱っぽさは、時に鋭い刃を剥いて、目の前に横たわる自身の不断の生活に向けられる。

なんてちっぽけでなんて意味のない なんて無力な

じゅぅうごぉのおよぉぉぉるぅぅぅぅぅぅぅうっ!

そう、それは決して日常が退屈なわけじゃない。劇的な変化の途上にある僕らの目には、日常という時間経過がとても退屈なものに映ってしまうのだ。そう、まさに僕らはあの頃、相対性理論を体現していたのだ。時空連続体を劇的に移動する存在。それが思春期だ。

ちなみに、近頃、私は日常が楽しくて仕方がない。 果たして、これは何を意味するのだろうか?