2007年 12月
12月3日(月)

先日のオフ会の話だが、まあ、いたって個人的な記念日なので、私自身がオフラインでこの6年間を振り返る会にしようと考えている。

いや、参加してくれる奇特な方がいらっしゃれば大歓迎したいところではあるが、まあ、はっきり言ってしまえば、こんなホームページのオフ会に参加してくださる方がいらっしゃるのか、私には自信がない。

ただ、万が一、万が一にも参加してくれるような奇特な方がいらっしゃらないとも限らない。そこで、実は密かにいくつかのお楽しみ企画を考えている。とっておきの企画だ。

もう一度確認しておく。

「ホームページ開設6周年記念 一人飲み明かしオフ界」

   ~お深い時間までとことん呑むかい? 07 ~

日時 2007年12月8日(土) 21:30~翌朝

場所 大井町駅東口和民

会費 当日実費を割勘

当日の予定

21:30 私より挨拶

21:45 各自自己紹介

22:00 歓談

23:00 お楽しみ企画

00:00 歓談

01:00 お楽しみ企画

02:00 歓談

03:30 私より挨拶

04:00 終宴(二次会の予定もあり)

12月4日(火)

私の机の上には4匹の羊がいる。当初は5匹いたのだが、ある日、忽然と1匹が姿を消した。後日、ばあちゃんの部屋の飾り棚から発見されたが、まあ、そのことは問題ではない。

羊は東西を問わず、重要な意味づけがなされてきた動物であり、御伽話や神話・伝承といった物語で語られることはもちろんのこと、文字や道具や食といった文化の面でも大きな象徴性を持った動物だ。

残念ながら、日本には元来羊がいなかったため、独自文化として発展させたようなものはないが、大陸からの文化流入において、干支や漢字の中に記号的な羊の姿が見てとれる。

さて、そこで「美」という漢字に注目していただきたい。

そう、羊がいるのだ。

「美」とは羊と大との合字という説と、「美」自体が羊の全形を示すという説とあるのだが、どちらにしろ、神[天]に捧げる供物としての羊。その肉体的・造形的な美しさを指す。

そうすると、「美」から派生する「美術」とは、供物としての羊をいかに捕らえ、育み、捧げるか。そういったプロセスを指す言葉であり、その最終目的は羊に帰属する。

ベェー。

しかし、「美術」と訳された「art」は、ラテン語の「ars」のそのまた起源であるギリシア語の「techne」から端を発する。この「techne」は「美術」とはまた別のプロセスを表わしているのだが、その説明はここでは端折る。文字の形状的な違いからみても、この両者が同じ意味を成すとは考え難いと思う。

そこでだ。

「羊」文化も持たない、ましてや「techne」すらよく分からない我々日本の美術学生は、「美術」においてどんなプロセスを採用するのかって話なんだ!

12月5日(水)

SやMの性質の二分化が一般的に語られるようになったのはつい最近のことのように思う。メディアの影響なのか時代の選択なのかは分からないが。

サディストとマゾヒスト。18世紀から19世紀にかけて実在したサド侯爵とマゾッホ男爵の品行や彼らの小説に書かれた性倒錯から作られた言葉であり、本来的には変態的性嗜好を意味する言葉だ。

私が認識していたサドやマゾといった概念も、シュールレアリズムや遠藤周作、澁澤龍彦らの神秘主義的概念として、沼正三や団鬼六などの背徳的特殊性向のサブカルチャー的概念として認識していた。

つまり、SだのMだのは、一般的に語られるような類いの言葉ではなく、語るにしろ、相当な覚悟を持って語らなければならない質のものだと認識していたわけだ。

ところがどうだ。

今や巷にはSだのMだのが溢れかえっている。ドSやドMを自称する者までいる始末だ。

前から言っていることだが、現在のSだのMだのという性質判断にしろ、血液型による性質判断にしろ、人間はそんなに単純な棲み分けで語りつくせるものではない。SやMといった概念にしても、元々は人間の語りつくせぬ部分を補完するために出てきたものだ。

つまり、何が言いたいのかというと、根も葉もないものに依拠して己を語ることが、いかに私たちをつまらない存在に貶めていることか。ということなのだ。

そこまでSだのMだの言うのなら、実際にやってもらおうじゃないか。

ちなみに、私はSでもMでもない。そういった意味では全くのノンケだ。

12月6日(木)

髪の毛が伸びきっている。切らなくてはと思いつつ、既に2ヶ月が経ってしまった。ボサボサというよりはヌメヌメだ。なぜか私は髪の毛だけが脂性なのだ。色艶が良いとも言えなくもないが。

高校生の頃、知り合いの美容室のカットモデルをしていた。「○日に来てね」という連絡がポケベルに定期的に入るので、学校帰りによく切ってもらいに行った。もちろんカット代は無料だ。写真を撮られるのは嫌だったが、無精者で金も無い高校生の私にしてみればこんなに好都合なことはなかった。

しかし、その経験によって、髪を切ることに金を使うという概念が抜け落ちた。自発的に髪を切りにいくという行為も抜け落ちた。そして、知り合いが美容室を移ってしまって以来、私は必要に迫られないと髪を切りにいくことができない身体になってしまったのだ。ううぅ~。

サイヤ人だったら良かったのに、とつくづく思う今日この頃である。

12月7日(金)

山道のカーブを何度か曲がっているうちに、私は霧の世界に迷い込んでいた。ヘッドライトをも反射するほど濃密な霧だ。目前に現れる白線だけを頼りに何度もハンドルを切る。いつまで経っても霧は晴れない。助手席に座るつれあいはぐっすり眠っている。静寂に満ちた世界。どこまでも続く真っ白な世界。

ナイター。チラチラと舞っていた雪がリフトを降りると吹雪に変わっていた。滑っているうちに仲間を見失う。吹雪はどんどん強くなる。一寸先も危ういほどに視界をさえぎる雪。ゴーグルで閉ざされた視界をさらに閉ざす。雪の上を滑る感触だけが唯一の世界との繋がり。どこまでも続く真っ黒な世界。

何もかもが閉ざされた時、僕らは広大な空間を目の前に感じる。怖ろしく果てしない、怖ろしく身近な空間。実のところ、そんな空間に僕らは生きているのだ。

12月10日(月)

「ホームページ開設6周年記念 一人飲み明かしオフ界」

   ~お深い時間までとことん呑むかい? 07 ~

21:25
到着。オフ会の仕度を始める。

21:30
いよいよ開始時間。ドキドキ。

21:35
誰も来ないので段取りをおさらい。

21:50
誰も来ないのでとりあえず乾杯。

21:55
誰も来ないので一気。

22:05
誰も来ないので段取りの練り直し。

22:30
誰も来ないのでボトルを入れる。

22:32
誰も来ないのでシェイク。

22:35
誰も来ないので緑茶割り。

22:40
誰も来ないがウマイ。

22:50
誰も来ないがウマイ。

23:00
誰も来ないが企画開始。

23:30
誰が来ないが呑む。

24:00
誰が来ようがとにかく呑む。

24:30
誰も来ないうちにつぶれる。

根本的なところで課題が残るオフ会であった。

12月11日(火)

以前、職場の喫煙室で休憩時間中に一人で煙草をくゆらせていたら、後から入って来た同じチームの女の子から

「真平ちゃん。そういうの良くないよ。」

と指摘された。何の事だかサッパリ分からず、自分自身の姿勢やら、身だしなみを確認したが、特に指摘されるようなことは無い。色々とその日の業務の事を思い直してみても、やはり指摘されるようなことは無い。はて?

考えあぐねていると、彼女はおもむろに僕のライターを手に取り、まじまじと見つめた。

「こういうの、良くないよ。」

何の変哲も無い100円ライター。やはり、歳相応にもう少し立派なライターを持つべきなのか。いや、抜け駆けして一人で先に煙草を吸いに来たのがまずかったか。すると、彼女は

「キャバクラ?ラブホ?」

キャバクラ?ラブホ?ん?何を聞かれているのか分からない。

「何ですか?」

本当に何のことだがまったく分からなかったので、僕は尋ねた。

「このライターってキャバクラ、いや、ラブホのライターじゃない?」

彼女の手の中のライターに印字されているアルファベットを確認する。そう、それは確かに昔利用したラブホテルの名前だった。何なんだ?なぜ?霊視?

彼女が言うには、そもそも、ライターに店の名前を印字するのは風俗店やキャバクラ、ラブホテルぐらいしか無いそうなのだ。そんないかがわしいライターを堂々と職場に持ってくるのは「良くない」。そして、それを女の子の前で堂々とひけらかしているのはもっと「良くない」。更に言えば、そんなライターを持っていたら、女の子を口説けないそうだ。

う~む。確かに。

なかなか世間ってやつは複雑だ。色々な知識や経験、そして、それをふまえた洞察力が無ければ生き抜いていけないのだ。

知らなかった男子諸君!気をつけるように!

12月12日(水)

久世光彦の「花迷宮」を読んでいる。幼少時代の自身の体験をつづった自伝エッセイ集だ。

久世光彦は以前友人から「一九三四年冬-乱歩-」を借りて、ちょこちょこと読み始めるようになった。去年、久世光彦が他界してからは、なぜか、その存在を忘れていたのだが、先日ふと立ち寄った古本屋で、この「花迷宮」に目が止まった。

金木犀の香りに溶け込んだ幼少時代の甘く妖しい記憶の断片。柔らかく包み込まれた曖昧な記憶の世界。まさに「花迷宮」という名にふさわしい夢現の記憶を彷徨う物語。

そんな「花迷宮」を読みすすめていると、思春期の少女になってしまったかのように、うっとりとしていることがある。27歳の乙女である。ぞっとする。

しかし、ぞっとすることも含めて、私は今、花迷宮にどっぷりと迷い込んでいるのだ。もしかすると、27歳ぐらいの男こそが、最も乙女的なのかもしれない。世の中というのは案外グロテスクなものなのだ。

12月19日(水)

風邪をひいた。

年々、風邪の症状が重くなっているような気がする。それに加えて治りも遅いような感じがする。

ただ、その分、その柵から解放された時の清々しさといったらない。その快感のために、私は全身全霊を持って耐え抜こう。

12月20日(木)

寒かったので、エクセシオールカフェに入った。最近ではタバコの吸える店も少ない。温かいメープルロイヤルミルクティーを頼んで席に着く。温かく甘い茶と苦く香ばしい煙草が身体に沁みる。至福のひと時。

私 「ふ~ うまい」

隣席 「50人なんて・・・最初は・・・途方も・・・しれませんけ・・・・」

私 「は~」

隣席 「自分・・変えたい・・・っている人・・・いっしょにやっ・・・」

私 「ん?」

隣席 「とりあえずはふ・・・うちのパーセントが・・会員として・・・」

私 「なんだ?」

隣席 「商売とか・・・ではなく・・自分の人生にと・・真剣にか・・」

私 「マルチじゃん!!」

私の憩いの場所はこうしてどんどん少なくなってゆく。そういう類いの勧誘は他の場所でやってもらいたい。本当に。

12月24日(月)

イヴである。今夜、多くの子供達が期待と希望をその小さな胸に秘めて眠るのだろう。気持ちが高ぶりすぎて、変な夢をみないようにと願うことだけが、唯一、私のできることである。

肺炎を患っていたじいちゃんもなんとか峠を越したようだ。

異国の文化ではあるが、皆さんメリークリスマス。おやすみなさい。

12月25日(火)

みなさんお気づきだろうか。アクセスカウンターが6万アクセスを超えた。栄えある6万番目をどなたが踏んだのかは分からないが、踏んだ憶えのある方は名のり出て頂きたい。実は、こっそり記念品を作っていたのだ。是非、進呈させて頂きたい。

今のご時勢、個人的にホームページを立ち上げている人は少ないが、6年間で6万アクセス。日割りで単純計算すると1日27人弱のアクセス数はブログやミクシーなどの組織化された世界で言えばごくごく日常的な数字である。しかし、それはブログやミクシーの話だ。私のホームページなどそれらに比べれば完全なスタンドアローン状態なのだ。

その完全孤立の私のホームページが6万アクセス。快挙ではないか!6万人も集まれば、武道館でコンサートぐらいできるじゃないか!などと脳裏を過ぎったが、先日のオフ会の惨事を思い出し、泣いた。

しかし、6万アクセスもみなさんの奇特なクリックの賜物であります。どうもありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

12月26日(水)

先日、秋葉原へ行った。クリスマスやら年末やら週末やらが重なって、街全体が大変な賑わいだったが、ここのところ停滞気味の私にとっては良い刺激だ。

つれ合いがカメラ用品を買いたいというので、ヨドバシカメラのカメラ売り場へ行き、つれ合いが用事を済ませている間、私は人でごった返す店内をウロウロと徘徊していた。

欲しくても到底手の届かないカメラやレンズ。指をくわえてショーウィンドウを見ている私の横で、高価な商品が飛ぶように売れてゆく。金銭を媒体とした需要と供給のサイクルに全く入れない。

う~む。

その時だった。私のすぐ隣に目の覚めるような美しい異国の女の子が立っていた。ウールのスパッツにロングニットというかなり奇抜な出で立ちで熱心に何かを探していた。

う~む。

世の中には手の届かないものが多すぎる。ただ、世の中で手に入れたいと思えるものは少なすぎる。

12月27日(木)

こないだ学校の友人から連絡が来た。卒業旅行にヨーロッパに行く予定なので、去年、留学でゼミに来ていた御転婆フランス人のジヌーさんの連絡先を教えて欲しいとのことだった。

そうか、卒業旅行か。

完全に忘れていた。というか、端からそんなイベントは私の頭に無かった。

う~む。

しかし、卒業制作を目前に、皆、卒業旅行の費用などどうやって捻出するのだろうか。ヨーロッパ旅行など、結構な費用がかかることだろう。今年一年間、皆、計画を立てて貯めていたのだろうか。

う~む。

私などは年末年始の交友を切り詰めているのにもかかわらず、当面の卒業制作の費用や、卒業式後の謝恩会の費用すらどうしたものかと悩んでいるのに。大学生と言うのも、なかなか難しいものだ。

う~む。

12月28日(金)

今日、品川のアイリッシュバーで飲んでいた。仕事納めということもあって店内はかなり混雑していたが、年内の仕事を終わらせてきた人々の、なかばやけっぱちな大らかさと、若いオーストラリア人店員のきびきびとした働きぶりに、私は心を良くしていた。

まあ、そんな大らかさのおかげもあって、私は隣席の客に1パイントのビールをばっさりと浴びせてしまった。故意ではない。事故だ。陽気になると私は思考と行動にずれが生じてくる。そのずれによって生じた事故だ。酔っているとも言う。

今日の場合、完全に私に非がある。見も知らない隣席の人にビールを浴びせるなどというのは、完全に私が反省すべきであり、そこで生じた一切の責務を私は負わなければならない。

ただ、幸いなことに隣席の人は寛容な方で、その事故の一切を「気にせんでいいよ」と許してくれた。

私はごく些細なことでも気に病むほうではある。いくら相手が寛容であっても、どんな些細なことであっても、私なりに反省し罪を償うことが道理だと考えている。

ただ、今日、それは私自身の個人的なうしろめたさによるものであって、そのジャッジはごく曖昧であり、逆に言えば、その審判は自らの選り好みに拠るかなり恣意的なものでもあると痛感した。

今回の事故を例にあげれば、私は完全に落ち込み、反省し、気に病む事例だったことは間違いがない。ただ、私はこの事故のある一点において自らの反省や責務を一切放棄した。被害者の発した第一声。

「これ、どうリアクションとれっつうねや!」

ただ、それだけだ。

行為に対する良し悪しではなく、言動に対する好き嫌いの世界で私は生きているのだ。恥ずかしながら未だに私は今回の事故を全く気に病んでいない。私はどこまで偏見の塊なのだろうか。

私は、明日、12月29日で28歳になる。三十路前だ。今まで色々な経験や知識を蓄えて来たが、まだまだ悔い改めねばならないことが多すぎる。若輩者だ。

12月29日(土)

私。誕生日である。

以前、恋人の誕生日を忘れてしまって、かなり相手を失望させてしまったことがあるが、そもそも、私自身が自分の誕生日にそれほど思い入れがないのだから仕方がない。

ただ、誕生日に思い入れがないからと言って、自身の「生」に思い入れがないわけではない。むしろその逆で、こんなふしだらな「生」ではあるが、日々、この「生」に必死にしがみつき、未練たらたらで生きている。そして、この「生」を与えてくれた両親や、この「生」を育んでくださった多くの人々に心から感謝をしている。

つまり、日々、慎ましく、必死で生きている私にとって、誕生日などという特別な記念日は必要ないのだ。日々の「生」に日々感謝している私にとって、毎日が誕生日と言っても過言ではない。

そんな私が、たまたま今日生まれただけってことだ。これからも、もがき苦しみながら、楽しく生きていこう。

12月31日(月)

29日は、沢山のご祝辞、プレゼント、ケーキによる生誕祝。本当にありがとうございました。こういうことがあるからこそ、このどうしようもない日々を私は乗り越えてゆけるのです。

本当にありがとうございました。

そう言えば、去年は去年でフランス人とフィンラド人の女の子と一緒に過ごして、かなり楽しかったなぁ。本当に。

まあ、辛いことや、悲しいことや、不安なことが世の中には蔓延しておりますが、時には楽しいこともありますし、頑張ってゆきましょう!

良いお年を!