2008年 2月 3月 4月
2月2日(土)

昨晩、22時50分、じいちゃんが死んでしまった。

現在、6時12分、僕は病院から帰ってきた。

とりあえず、報告までに。

2月3日(日)

22時30分に病院から連絡がきて、レンタカーで八王子の病院へ向かい、23時50分に病院に到着した。病院の玄関に到着したときは、僕もまだ希望を持っていたけど、いつもは朗らかな看護師さんたちの妙に厳かな対応に、ああ、駄目だったかと悟った。やはり、僕らが到着する1時間前に、じいちゃんは息をひきとっていた。

手を握っても、肩をゆすっても、頬を叩いても、まぶたをこじ開けても、まったく反応が無くて、ただ、温かく、柔らかく、寝息もたてず、寝返りもうたず、じいちゃんはきちんとベッドに横たわっていた。試しに「じいちゃん!ご飯だよ!」と言ってみたけど、ウンともスンとも言わず、ただただ、ひっそりと横たわっているだけだった。

じいちゃんが霊安室に運ばれても、ばあちゃんは「もう駄目なのかい?」としきりに言っていたけど、ばあちゃんに問いかけられるたび、僕はじいちゃんの呼吸や鼓動や脈拍を確認し、そのどれもが無いことにくびを傾げることしかできなかった。ばあちゃんの問いかけに僕も戸惑ってしまうほど、じいちゃんは本当に自然に横たわっているだけだった。

じいちゃんはおそらく死んでしまったのだろう。医者が言っていたのだから。でも、あれから、まるまる2日経ったけど、まだ僕にはじいちゃんが死んだのかよく分からない。

2月6日(水)

みぞれ混じりの雨が降る中、じいちゃんは真っ白な骨だけになった。こんな寒い日には「うぅ~!さみぃ!さみぃ!」なんて言って、布団の中からずっと出てこない堪え性のないじいちゃんも、もう、カラカラの骨だけになってしまった。

じいちゃんはバラを育てるのが趣味だったけど、バラはこまめに手入れをしてあげないとうまく花をつけない。じいちゃんが倒れてから、誰もバラの手入れをしていなかったから、この1年間、まったく花を咲かせなかった。

でも、そのバラが、なぜだか一輪、くびをもたげてひっそりと、小さな小さな花をつけていた。真っ赤な花だ。たいした意味はないけれど、その小さなバラの花と一緒に火葬してもらったら、じいちゃんの真っ白な遺骨に真っ赤な花の跡がついてしまった。

バラの跡なんかつけちゃって。じいちゃん。最期まで憎いぜ。俺もじいちゃんみたいな生涯をおくれるよう、頑張ってみるよ。

これで、じいちゃんの話はおしまい。

2月17日(日)

いやはや。御無沙汰です。

なかなか、どうして、私情とはまったく関係なしに、世間というものは巡り巡っているのだなと感じているところではありますが、まあ、その流れの中に身を任せることが、今は逆に心地よかったりもしているわけで、なんというか、いやはや。

さて、私は酔った際、暴言や奇行や奇癖の塊となるわけだが、純粋にその事をネタとして語ることができればまだ良いが、その為に失敗してきたことは数々。今、思い出しても悔やまれる事。数々。最近ではその一切の行動を憶えていないといったことも多いので、酒に関してはかなり自重をしている。

ただ、まあ、どうしても呑みたいという時はあって、そういう時は気の置けない、そして、懐の深い人と呑むようにしている。又は、私のような悪酔いをするような友人達と。

さて、そんな私のどうしようもない酔っ払いの中の、それまた暴言の中で、著しく相手の見解が相違、又は、軽薄だった場合に、私は相手に対し「馬鹿じゃない?」とか「死んでしまえば?」といったことを言う。

まあ、「馬鹿じゃない?」というのはお互い馬鹿なのだから仕方がないが、「死んでしまえば?」というのは、酔ったとしても、どうかと思う。

よく「嘘でも『死ね』なんていったらいけない」と言うモラリストの人もいるが、私は思う。人はみんな死ぬのだ。人が死ぬことは嘘でもなんでもないのだ。私もあなたもその辺をウロウロしているネコちゃんも。私が「死ね」とか「死んじゃえば?」なんて言わなくても必ず死ぬのだ。

つまり、そんな言葉は無意味なのだ。私たちはそのうち必ず死ぬ。だから、他人に対して「死ね」なんて言うことはもちろん、自ら死ぬことも、誰かに殺されることもないのだ。

2月26日(火)

昨夜、寝ぎわに水を飲もうと、台所の水道の蛇口をひねったが、ウンともスンともいわない。仕方がないので、洗面所へいったが、こちらも無反応。はて?

水は諦めて、冷蔵庫にあった牛乳で喉の渇きをやり過ごしたが、爽快さはいまいち。結局、家のすべての水道を確認したが、すべて駄目だった。便所も流れない。はて?

まあ、急な入用でもないので、明日になれば何とかなるだろうと、昨夜はそのまま寝たのだが、今朝、家じゅうの蛇口からいっせいに流れる水の音で、目を覚ました。う~む。

でも、そんな朝、なんだか湿った南風が街全体を覆っていて。そうか、もうすぐ春なのだ、と思い知らされるのである。おまけに、夜から降りはじめた雨にずぶ濡れになるのだった。う~む。

もうすぐ春なのだ。

2月27日(水)

私は、ずっとサブカルチャーといわれるものに憬れてきたきた。なぜなら、私はサブカルチャーからはほど遠い、メインストリームの中で生きてきたと思ってきたし、そのメインストリームから脱落したとも思ってきた。

サブカルチャーにしか自分を見出せなかったのだ。

厳密に言えば、私が生きていた過程はメインストリームではなかったかもしれない。いや、そもそも、メインストリームなんてあるのか?でも、私はそういった幻想の中で生かされてきたし、そう思い込んでもきた。

つまり、断水がないとされる世界の中で生きてきたが、実は断水はあるのだ。ただ、断水が起こった場面で、特に違和感を感じない自分がいたりして、はて?これは?といったわけなのだ。

でも、結局、それだけのことなのだ。

最近では、そのサブカルチャーも、どうやら自分の即す場所ではないと思う今日この頃でもある。

だったら、どうするんだ?というわけである。

3月7日(金)

オルタナティブ音楽やミニシアター映画。インディペンデントなファッションブランドや憂鬱なSFアニメ、漫画。今思えば、どこに魅力があったかと言われると、少し考えこんでしまうが、とりあえず、それが私の青春時代、90年代後半を取り巻くサブカルチャーだった。

1997年。17歳だった私は、そんな様々なサブカルチャーに翻弄され、没頭し、陶酔していた。当の本人は先行き不透明のプータロー、不毛な童貞少年だったのだが、いや、むしろ、その私の状況とサブカルチャー全体を取り巻く世紀末的な浮遊感がうまく合致していたのかもしれない。

あの曖昧で甘美で退廃的な世紀末。そう、私は世紀末の寵児なのだ!

臆病者の20世紀末少年なのだ!

3月8日(土)

一応、私はまだぎりぎりで美大生である。卒業式には行こうと思っているが、諸々の事情が故、まだ分からない。

さて、そんな私にとって、この美術大学生時代のサブカルチャーはフーコーやユングや中沢新一やサルトルやハイデッガーやマッハやラカンやロランバルトやフロイトやソレルやサイードや浅田彰やベルクソンやラカン、つまり、近代の西欧思想・哲学の学者達が私にとってのサブカルチャーだった。

ただ、そもそも、そういった思想・哲学が私の美術学生時代においてサブカルチャーだったことは大変疑問に感じる。なぜなら、こういった思想・哲学が美術大学においてサブカルチャーであるわけがないのだ。

なぜなら、セザンヌからはじまるピカソ、デュシャン、ボイス、ダイン、ジョーンズ、アンセルモ、ポロック、ワッツ、パーカー、ウォーホール、リキテンスタイン、ガボ、タウト、エリアソン、ロリー、ソフィーからなる近代美術は、むしろそういった分野に思慮深く、且、門戸を広く開いている筈なのだ。だからこそ私は年甲斐もなく美術大学への合格を真摯に受け止め、入学を決意したのだ。

しかしながら、私の予想と反し、美術大学はそういった思想・哲学に応えることはなかった。むしろ、そういったものは、一種の特殊性の中に追いやられ、メインには経済と産業の渦中にある造形造詣論が大半を占めていたように思える。

もちろん、少ない私の学友や教授の中にはそういった分野に造詣の深い人もいたが、それはごく少数でしかなかった。共感こそすれ反論には値しないような、そんな人のほうが多かったように思える。まあ、そんな偏狭な枠を取り払ってしまえば、実に愛すべき友人ばかりだったことは言うまでもないが。

つまり、結局のところ私自身がサブカルチャーでしかなかったのだ。

もうちょっと言えば、私自身の軸が少しずれていたのだ。

ただ、そんな中、あの奔放で御転婆で無軌道な南仏育ちのジヌーさんが実に思想・哲学に明るかったことは意外であった。そういった意味では、フーコーやラカン、そして、デリダに深く共鳴するのである。浅墓ではあるが。

3月9日(日)

日曜日の終電車はとても赴き深い。

最近の都内の終電車は終日人でごったがえしている。昔だったら、終電車が混むのは金曜日や給料日といった、朗らかな賑わいの彩に包まれていたものだが、最近は違う。終末的混雑とでも言うべきか。まさに最終電車なのだ。殺伐としている。

ただ、そんな中、唯一、日曜日だけは、かつての終電車らしい趣を携えて、私の家路を豊かに包み込む。

前に、この日記でも書いたと思う。

終電車。車内には向かいに座る女の子と私の二人だけ。女の子は車窓を眺めながら鼻歌を口ずさみ、私はその鼻歌に聞き入りながら小説のページをめくる。全く知らない間柄なのに、どことなく親近感を覚えてしまうような、特別な場所。それが終電車なのだ。

まだ都内には、そんな終電車が日曜日の夜だけ走っている。

もし、そんな終電車が都内から消えるなら、私は声高に叫ぼう。私達のささやかな営みさえも奪うのかと。

3月11日(火)

ウィローモスという水苔をご存知だろうか?アクアリウムにはうってつけの、繊細で美しい植物だ。私は先月からこの水苔を育成し始め、地道にレイアウトしながらその成長を首を長くして待ち望んでいたのだが、春を目前に、いよいよ彼らは新芽を芽吹きだし始めたのだった。

いや~ん。

手をかけたものが健やかに成長してゆく過程を眺めるというのは、なんというか、うむうむ、なんだか、とっても感慨深く、愛おしいことなのだ。これから、いかなる成長を遂げるのか、今から楽しみで仕方がない。繊細であればあるほど、その健やかな成長が喜ばしいのだ。

いや~ん。

ところが、「ブリシュケト」と「ナナシ」の金魚暴漢コンビが。新芽を。あの健やかに背を伸ばし始めた新芽を。一晩にして。まるでその時を見計らったように。奴らは無残にも喰い散らかしたのだ。

もちろん、その暴漢コンビも私が丹精こめて手をかけた慈しむべき奴らだが、それにしても、それにしても、、、

もう、いや~ん。

4月24日(木)

「話せば分かる」

その言葉を最期に、殺された首相がいると云う。実際にそうだったかは定かではない。その言葉の意図も分からない。

でも、なぜだか私はその「話せば分かる」という言葉を、どこかで信頼している。犬養の語りとは別に、その台詞を、どこかで信奉している。

ただ、うっすら私も知っている。話して分かり合えるのなら、みんな愚直に話している。根も葉もなく、ざっくばらんに、大らかに。世の中に「話せば分かる」と云う場面で、話し合えた例がない。むしろ、話して分かる事のほうが稀有に均しいのだと。

だから、その自身の仄かな信念と期待のせいで、色々な痛い目にも遭ってきた。相手や周囲に有らぬ誤解を与えたり、多大な迷惑もかけている。

しかし、そんな風に、世の中が、本当に話しても分かりあえないようなところならば、その中で、私は私の原因と結果だけを自己中心的に語る傀儡人形でしかない。周囲にしてみれば、なんと傍迷惑な話だろう。

それならば、信念よりも良心に従って、死んだように黙すべきなのか。いや、それ以前に、そんな信念は棄ててしまえばいいのだろうか。

ともかく、結果というものは、そこで全てが解釈される。「話せば分かる」などと考えている私が甘いのだろう。

甘く切ない加齢気味の春である。