2009年 1月
1月1日(木)

さて、昨年末、あるひとつの企画の告知をしていたのだが、気がつけば、酔っ払って帰宅した夜の歯磨きのように、手付かずのまま年を越してしまっていた。

なんと言うか、酔っ払ってしまって歯磨きをしないで寝た翌日の、二日酔いで目覚めた朝のような心地の悪さを、今、私は感じている。

まあ、そんな感じで始まった2009年。のっけっから、だらしなさ抜群の私ではありますが、今年もどうぞよろしくお願いします。

初志貫徹と言う言葉があるが、20代最後の年である2009年のこの初志を貫徹できるような年にしたいものである。

ちなみに、ぜんぜん関係ないが、麻生久美子さんは今年も可愛い。

可愛い過ぎる。

1月2日(金)

人生には、好き、嫌い、といったような、素質より、才能よりも、過酷な状況の中で、何かしらを選び取る能力が、この時代、必要なのではないだろうかと思い、新年から実践しているのだが、これがなかなか難しい。

ちなみに、ぜんぜん関係ないが、麻生久美子さんは今年も可愛い。

私は麻生久美子さんが好きだ。これもひとつの選び取る能力だ。

1月4日(日)

前回はよく分からない日記を書いてしまったが、とどのつまりは、麻生久美子さんが好きだという表明である。

さて、明日から仕事始めという方も多いとは思うが、この年末年始、私は実家でのんべんだらりと過ごすことに心がけた。いわゆる、寝正月である。

ここ10年ほどは、忘年会だ、誕生日だ、初詣だ、新年会だ、と、年末年始は連日連夜呑み歩く日々が続いていたが、30歳を目前にして、さすがにそろそろ伝統的な正月の醍醐味を味わおうと、今年は寝正月という趣向で過ごしてみたが、はっきり言って、寝正月とは暇なのだ。

そこで、暇つぶしに「時効警察」及び「帰ってきた時効警察」という麻生久美子さんがヒロインのテレビドラマシリーズを全巻、13時間半をかけて制覇したところ、完全なる麻生久美子ファンになってしまったのである。

つまり、寝正月とは一種のロマンスなのである。

1月7日(水)

先日、知り合いが、私の目の前で、いとも容易く、デジタル一眼レフカメラを購入した。私も多少気にかけていた機種である。

実は、この1年ほど、私はデジタル一眼レフカメラを買おうかどうしようかでずっとムニャムニャしていて、店頭でパンフレットを貰って来ては、どうしようかと悩んでいたのである。

しかし、そんな私の目の前で、あっさりとカメラは知り合いの手の中へ落ちて行った。よっしゃ!買ってやろう!という感じでも無く、その場でカードを作り、店頭支払など無しに、なんと無しに、パッと買ってしまったのだ。

まさに衝動的購入。

ちなみに、最近私が衝動的購入したものは、リーバイスの古着のブラックジーンズである。ただ単に、安かったから買った。2000円。

衝動の出方で、器が知れるというものだ。まったく。

1月12日(月)

先日、衝動的購入の事を書いたが、今、私が購入したい製品の中には、アンプやエフェクターやエコライザーといった音楽系の電気製品もある。

ただ、それらは、あったら少し生活に彩が出るだろうというようなものであって、言ってみれば、趣味のものなのである。

そして、趣味という曖昧な欲求と、製品自体の案外高価な値段との折り合いがつかずに、それらの製品は、確固たる動機に恵まれることなく、購入の憂目も見ずに、そのまま放置されているのが現状である。

つまり、先のデジタル一眼レフカメラと同じで、不毛で曖昧な購入意欲の狭間の中で、結局のところ、断念されている製品なのである。

しかし、私は気がついた。

音楽系電気製品であれば、自作の情報交換も盛んで、キットも豊富だ。経済的にも優しく、趣味としても、なかなかではないか!と。

と言うことで、今週末は秋葉原へ行って来る。

まずはアンプから。

秋葉原を震撼させた、あの忌わしくも悲しい事件にも追悼してこよう。

1月13日(火)

日常的な時間帯とは異なる、深夜帯や徹夜明けの早朝などに、一人で仕事などをしていると、人は思惟の存在となる。

虚脱した肉体と精神の狭間で、まるで夢を見ている時のような思考の連関が、日常では忙殺される思考の源泉が、頭の中で運動を始める。

私は何をしているのか?

私は何をしたかったのか?

私はこれからどうなるのか?

私は何者なのか?

私とは?

しかし、純粋なる思惟の存在とは無力なもので、瞬きほどのささやかな仮眠によって、仄かな朝日の輝きによって、その思惟は脆くも崩れ去り、更なる虚脱の日常へと回帰するのである。

昔、ルパン三世のアニメーション映画にマモーという悪のキャラクターが出てきたが、私の思惟は差し詰めフモーと言ったところである。

下手な駄洒落から何から、悪よりも手に負えない。

1月14日(水)

私は本当に関西が苦手だ。特に関西弁というのがどうにも苦手なのだ。ただ、だからと言って、忌み嫌っているわけではない。単に、好感を持つまでに至らないだけなのだ。

しかし、そんな得手不得手とは別に、私には関西出身の愛すべき友人が何人もいる。関西一般は苦手だが、個別に見ればそんなことはない。まあ、少々癖のある人が多いようにも思うが、それもまた面白いものだ。

さて、そんな事から思うことがある。イスラエルとパレスチナの事である。文化や宗教が違うのだから、無理に仲良くする必要は無いが、殺し合う必要は更に無い。武力行使だけでも止められないものだろうかと。

1月15日(木)

血液型による性質判断について、私は全くあてにしないということは以前にも言及したが、今日、本屋の業界紙に目を通していたところ、面白い記事が出ていた。

昨年から今年にかけて注目を集めている本で、人間の血液型4種類に対して「~型 自分の説明書」という本が出ているのだが、その4種類の売り上げランキングが面白いのである。

1位 「B型 自分の説明書」

2位 「O型 自分の説明書」

3位 「A型 自分の説明書」

4位 「AB型 自分の説明書」

B型とO型の人気は拮抗しているらしいのだが、ちょっと間が空いてA型、それからだいぶ間が空いてAB型、という人気らしい。

日本における血液型の人数割合からするとA型>O型>B型>AB型という順になるので、血液型の割合からすると、このランキングにはそぐわないのだが、血液型と性質を関連付けて考えている血液型の順位として見ると、なるほどという感じになる。

つまり、血液型性質判断に完全にスポイルされ、決定論的に限定されてしまった受難の血液型というのがB型やO型ということになるのだ。血液型性質判断の最大の被害者である。なんとも。

ただ、血液型云々以前に、こんなトンデモ本を買って一喜一憂しているよりも、もっと面白くて役に立つ本が世の中には沢山あるのだから、そういう本こそ売れるべきですし、読みたいものですよね。本当に。

1月19日(月)

自分を知るというのはなかなか難しいことである。主体である自らを客観的に見なくてはならない。客観的っぽく見ることはできるが、客観的に見ることはなかなか難しいのだ。

ただ、過去の自分であれば客観的に見ることができる。特に、こういった日記などを書き記していれば尚のことだ。

ついさっきも、私はこのサイトの昔の日記を読んでいて、過去の自分を知り、恐怖した。もしかしたら、今現在の私も恐怖の存在かもしれないが、とりあえず、過去のことは反省しておく。

自分を知るということは恐怖なのだ。そして、日記とは自分が記されている恐怖の表現なのだ。他人に見せるようなものではないのかもしれない。

1月20日(火)

先ほど、21時半頃、大学時代の学友から連絡があった。

「馬場で呑んでいるから来なさい。」

連絡が来る時間も、呑んでいるロケーションも、突然ながら半強制的な誘い方も、何もかもが、大学時代を彷彿とさせるもので、私は少しほっとしてしまった。持つべきものは友である。屈託無く付き合える友なのだ。

しかし、そんな学友からの誘いに対する私の答えはこうだ。

「遅いし、遠いから行かない。」

わぁ~!

1月21日(水)

先日、音楽系製品の自作が云々と書いたと思うが、知識も経験も乏しいので、とりあえずオペレーションアンプを使ったお手軽なヘッドホンアンプの製作を始めることにした。

ただ、知識も経験も乏しいせいで、かなり根本的な過ちを何度か犯してしまった。

まず、徹夜明けで土曜日の秋葉原へ行ってしまったことだ。

ただでさえヘロヘロなところ、秋葉原のあの特殊なテンションに当てられて、更にヘロヘロになってしまったのだ。そんな状態で、細かな電子部品など的確に選べない。

次に、デートで電子部品を買いに行ってしまったことだ。

最近では女性のオタクも増えているらしいが、まあそれはアニメやゲームの話であって、いわゆる技術系の女性オタク層はまだまだ薄い。確実に恋人を退屈させてしまった。

そして、それら二つの過ちによる衰弱と焦燥によって、ステレオアンプを製作するはずだったのに、モノラルの部品を買い揃えてしまったことだ。

うぅ~。

まあ、しかし、そんな様々な紆余曲折を経ながらも、なんとか部品が揃い、本日、それらの部品を組んで、試運転をしてみた。高音が少し硬い感じもするので、手直しは必要だが、まあ、とりあえず良好良好。

計画し、失敗し、悩み、また計画をし直しながらも、手を動かして何かが徐々にできていくというのは、なかなか、これ、楽しいものである。

失敗は成功のママであり、ミルキーはママの味である。

1月22日(木)

週末も近づき、疲れも溜まった木曜日の終業時間。家へ帰っても、取り立ててやるべき用事も無く、仕方ないので、少し残って急ぎでもない仕事を済ませてきた霧雨の木曜日。侘しく惨めな家路。

職場を出てしばらくすると、交差点の信号に引っかかったサラリーマンの一群に埋もれる。立ち止まると、それまでなんとも無かった脚がどっと重くなる。まるで重力に従って疲れが脚先から蓄積されているようだ

なんとなく脚先に目をやると、側のガードレールの影で何やらモコモコと動いていることに気が付く。じっとモコモコを観察していると、そのモコモコがサラリーマンの一群をするするとすり抜けて私の足許まで来て止まった。

すると、モコモコはブルブルっと伸びをし、ひとつ欠伸をした。まさか、霧雨の中、お前はこんな騒々しい交差点で寝ていたのではあるまいな?そんな事を思っていると、モコモコが私を見上げ「にゃー」とひと鳴きし、私の足にしきりに擦り寄ってきた。

むむ!

こんな多くの人がいるのに、なぜ俺に!?仕方ないので頭や背中を、ひと撫でふた撫でしていたら、サラリーマンの群集がしゃがみこんだ私とモコモコを避けてぞろぞろと移動を始めた。信号が変わったのだ。

モコモコをそのままに、慌てて群衆の後を追ったが、途中、モコモコが付いて来てはしていないかと、横断歩道の真ん中で振り返ると、向う岸でモコモコはきちんと座って、見送るようにこちらを見ていた。

う~む。。。モコモコ。。

ただ、その後、駅のホームで電車を待っていて気が付いた。不思議なことに、木曜日の侘しさや、惨めさや、疲れが、綺麗さっぱり消えて無くなっていたことに。

モコモコ。。

1月23日(金)

混同してしまって、少し間を置かないと理解できない単語がある。

例えば、私の場合、「エレベーター」と「エスカレーター」がそうだ。

私がその単語に直面した際は、音として濁った方が吊り下げ式で、透明感のある方がスライド式であるという事を、あらかじめ自分に言い聞かせてあるので、音を一度確認してから理解に至る。

それよりひどい例は、「レフト」と「ライト」である。

一般的な表記としては、「L」と「R」表示されているので、それをまず、「Left」と「Right」とに直すまでに、まずは発音から入る。上前歯に舌を付けて発音するのが「レフト」、少し舌を巻いて発音するのが「ライト」という認識から入り、野球のポジションのキャッチャーに自分がなったとして、レフトは左側、ライトは右側、というような空間認識までしてから、ようやく理解に至る。

さて、そんな理解の遅い私ではあるが、今、フォイエルバッハ(1804‐72)という人の「キリスト教の本質(上)」(岩波文庫)を通勤中に読んでいる。所謂、キリスト教に対する箴言の書ではあるのだが、なかなか面白そうなので古本屋で買ってみた。

この本の第一章「人間の本質」の冒頭において、人間と動物の本質的な区別が何であるのかという提起に対して、それは「意識」であるということが定義されるのだが、その論証のちょっとした一文を紹介しよう。

「最も厳密な意味での意識はただ、自己の類・自己の本質性が対象になっているところの存在者のところにあるだけである。」

なるほど。はっきり言って、チンプンカンプンだ。

もちろん、この一文の説明もこの後にされているのだが、この調子なので何も分からない。何がどれで、どれが何なのか。全くつかめないのである。一重ですら私には理解に時間がかかるのに、二重、三重、とされると、全く到達できないのだ。

抽象絵画の方が私にとってはよっぽど分かり易い。

ただ、チンプンカンプンながら、私はこの「キリスト教の本質」の読破を目指そうと思う。なぜならば、私はキリスト教の本質を少しでも知りたいからである。知れるかどうかに関しては自信が無いが。

1月27日(火)

29歳といえば、一般的に「いい女」という枠に入るであろう。私の中学の同級生の女の子たち。いや、女性たちと言った方がいいだろう。容姿端麗で、キャリアも持ち、私などは到底及ばない、魅力ある方々ばかりだ。

そんな方々と一緒に、一人ぽつんと、しかし、紅一点、男一人で入り込む機会があった。

一般的に、男の原理、女の原理、というもの中で、その場に男女が一人でも入り込むと、お互いの男女の意識から、性別的というよりは社会的な立場としての男女の話になりがちではあるが、私などは、男性からも、女性からも、あまり相手にされていないので、そういった原理性が曖昧なゆえに、間違って女性だけの場に呼ばれたりすることがある。

そして、まあ、そんな間違いが、たまたま今日あったのだ。

ただ、そんな場で、私が一番触発されるのが、実に、私の見えざる乙女心であったりするのである。男の友人と話しているよりも、女性達と話しているほうが、よっぽど共感できるし、反発もできる。いつも思うことなのだが、女の子たちといると、つくづく女性で生まれるべきだったと思うのだ。

しかし、まあ、それはそれで、かなり拗れている29歳、オジサンの図である。男性女性、どちらの立場からしてみても、まあ、キモイとしか言いようが無い。

1月28日(水)

家から駅までの道に、何の木なのか分からないが、小さな紫色の木の実が落ちている場所があって、冬に実をつける木もあるのだなと驚かされている。

その木の実は道一面に落ちていて、よく雀や椋鳥なんかが啄ばんでいるのだが、私はその実を踏んだ時の、足の裏でプチプチと実が爆ぜる感覚がたまらなくて、いけないと思いながらも、毎朝、その実を踏み散らかしてしまっている。非常に子供っぽい。

しかし、人がそういった感触に対して持つ選り好みというのは一体どんなところから来るのだろうか?感触に対する好き嫌いの根拠はどこにあるのだろうか?なんてことを考えていると、人とはなんとも奇妙な生き物だという思いに至ってしまう。いや、むしろ私が奇妙なのか?

1月29日(木)

人間、年相応に老けてゆくものだが、私などは精神年齢が低いせいか、なかなか年相応に見てもらえない。困ったものだ。

ただ、年齢が若く見られるからと言って、そんなもの、何の気休めにもならい。人間は必ず老けるのだ。だから、なるべくなら、後で変に老けるよりも、年相応、順調に老けてゆきたいものである。

さて、しかし、外見的な老いはともかく、世の中には、価値観や人生観やその他諸々の感覚が、高校生ぐらいで止まったまま、年を重ねている人がいたりする。

まあ、「世の中には・・・」と言ってしまうと御幣があるので、ここ最近、私がそういう人によく出会うと言った方が良いだろう。

むろん「精神年齢は高校生の頃とあまり変わっていないよ」なんて思っていたり、言ったりする人も多いが、本当に高校ぐらいから変わっていない人というのは、そんな客観性を持っていなかったりする。つまり、逆に、そういった発言ができる人は、相応に年を重ねているのだ。

外見的なものはどうしようもないが、せめてそういった内面的な部分はしっかり年を重ねてゆこうと思うものである。なぜなら、未だに高校生っていうのも、かなり傍迷惑だと思うからだ。私はそんな感じの人に明日会わなければならない。本当に困るのだ。

久々に愚痴を書いた気がする。