2009年 2月
2月1日(日)

あれからもう一年が経つ。時間の経過というよりは、その部分だけ時間が止まってしまっているような感じだ。

見るもの全てが異質で、どこか余所余所しい、そんな部屋だったからそう感じるのかもしれない。

ただ、その部屋は常にどこかに繋がっている。その繋がりは決して優しくも温かくもない。緊急性を要する強固な繋がり。

2月1日。そんな部屋で、じいちゃんは一人、旅立っていったのだ。

2月4日(水)

最近、うまく眠れない。眠れたとしても、嫌な夢を見て変な時間に目が覚める。おかげで、疲れがなかなか取れない。

私の場合、正の循環よりも負の循環、連鎖と言ってもいいのだろうけど、そういうものに陥りやすい。今、思い返しても、良い事ばかりが続くような正の連鎖の体験なんて、数えられるほどしかない。一方、負の連鎖は数限りない。しかも、正の連鎖のことを考えると、ただ調子に乗っているだけのことなのだ。

重力に従って、スパイラルとは、常に下方向なのだ。

慣れるしかない。

2月6日(金)

今日、街で核兵器廃絶のアピールポスターを見かけたのだが、そのポスターに麻生久美子さんが賛同者として名を連ねていた。浅墓ではあるが、私は更に麻生久美子さんを愛してしまった。

麻生久美子さんを愛し始めたのは、今村昌平監督の「カンゾー先生」という映画だった。映画のクライマックスは広島に核爆弾が炸裂するシーンで締めくくられる。戦時中の話しながらも、喜劇的な要素の色濃い映画なのだが、その最後の場面は、高校生ながら、かなり衝撃的だった。

必見である。

そんな映画に麻生久美子さんは破天荒ながらも魅力的な役柄でヒロインとして登場していた。映画にもさることながら、私はそんな麻生久美子さん扮する「ソノ子」に完全にお熱になってしまったわけだ。単純な高校生だったのだ。

まあ、しかし、何はともあれ、人類史上最高にして最悪の大量殺戮兵器である核爆弾の惨禍を体験した我々日本人は、頑なに核兵器廃絶を求めていくべきだと切に感じる。私が愛する麻生久美子さんも賛同者の一人であるし、私も心から賛同するものである。

そして、私個人においては、国家、文明、文化、宗教、民族、経済などのあらゆる局面において、武力による問題の解決を痛烈に批判するものである。

「 俺の批判が怖いなら 武器を使うな 」

そういう事である。

「 正々堂々 拳でこい 」

って訳ではないので、注意。

2月8日(日)

シンプルすぎるこのホームページではあるが、立春も過ぎたことなので、ささやかながら模様替えをしてみた。

いかがでしょう?

さて、他人がそれほど気にしていない、ごくささやかな事なのに、変に気にしてしまう人がいる。服装や髪型や価値観や人生訓まで。

ありとあらゆる事を他人と比較して、気にして生きている人がいる。

とても面倒臭い。

ただ、逆に。何にも気にせず、とにかく我が道を突き進むという人もいる。

それはそれで、なかなか面倒臭い。

自分がどんなコンセプトで生きていくのかを決定することはとても大変で難しいことだけど、まあ、なんつうか、そんなに迷うほど、我々に決定権があるとも思えない気もする。

そんなことを考えていると、生きていること自体が途方も無い限られた取捨選択の集積であるような気がして、なんだかとても面倒臭い。

2月9日(月)

昔、街角でボーっとしていたら、ラテン系のおにいちゃんに「20セント持っているか?」と尋ねられたことがある。

電話代か電車賃かで困っているのかと思い、理由も聞かずに私はポッケの小銭から20セントを差し出した。

すると、ラテン系のおにいちゃんは私の差し出した20セントと自分の持っていた小銭を足して、目の前のキヨスクでスピードくじを買い求めた。

しかし、そのくじがハズレだと分かると、道端にくじの紙屑をほうり捨て、こちらの事など気にもせず、口笛交じりにさっさとどこかへ行ってしまった。

理不尽ではあるけれど、すごくワイルドな光景だった。それまでボーっとしていた私は、ようやくニューヨークにいることに気付いたのだ。

気付くというのは、つまりそういう事なのだろう。

最近、私は気付いていない。見えないベールに包まれまくりだ。

2月10日(火)

どんなに虚勢を張ろうとも、どんなに詭弁を奮おうとも、どうしようもなく我々は世界と関わってしまうのだ。完全孤立の存在など、残念ながら、この世には存在しない。

ただ、それでも詭弁や虚勢で立ち向かうなうならば、とことん私はあなたの相手をしよう。なぜなら、私もあなたの同類であるからだ。

2月11日(水)

みなさん祝日は堪能しただろうか?え?私?もちろん、私は十二分に堪能させて頂いた。今日は「チェ38歳別れの手紙」という映画を観て来たのだ。共産主義者にして世界的英雄であるエルネスト・ゲバラの末路を辿った映画だ。

さて、そんな映画を観たから影響されたというわけでは無いのだが、来月辺りに少し長めの休暇を取って海外旅行にでも行って来ようとかと計画している。別に革命を起こしに行くわけではない。お金も無いのでアジア圏内で、暖かかくてのんびりとした所へでも行きたいと思うのだ。

完全な一人旅というのは国内海外も含め、今回が初めてだ。20代最後の記念の旅になることだろう。良い機会だ。この旅を契機に、もしかしたら私もゲバラのように革命に目覚めてしまうかもしれないし。

まあ、海外経験豊富な私の友人ならば、どこか良い所を知っているだろう。ここの掲示板でもメールでも電話でも飲み屋でも何でもいいので、とにかく助言頂きたい。

ちなみに、あまりワイルドな所は勘弁ね。

2月12日(木)

今、ウチの金魚達が病気にかかっている。

金魚に限らず、観賞魚一般は、身体が小さいため直接投薬ができないので、水槽の水に薬を溶かし込んで病の治療をする。業界用語では、これを薬浴と言う。正に薬漬けの治療をしなければならないのだ。

ただ、この薬というのがなかなか面白い。

私の持っている観賞魚用の薬は、青、黄、緑、など、鮮やかに水の色が変化する。基本的に魚用の薬は殺菌や滅菌の効果を主とし、我々人間の生活の中では染料として使われているものが多いらしい。

つまり、薬浴後の金魚は、赤ではなく、青だったり、黄色だったりと、染色されてしまうのだ。

病気が治るのも良いことだが、ちょっと違った色の金魚を眺めるのもなかなか楽しい。まあ、無事に治ってくれればの話なのだが。

頑張ってくれ。金魚達。

2月14日(土)

なんだか生温い!

こんなことでは、せっかくのチョコレートも融けてしまうではないか!

私はチョコレートはヒンヤリパリパリ派なのだ。

地球温暖化!

必ず食い止めなくてはならない。

2月18日(水)

植物や動物を育てていると、短期的な時間認識で対応していてはなかなか上手くいかないことが多い。特に植物の育成においては月、いや、年単位の時間認識の中で対応してゆかなければならない。

つまり、その日その時さえ万事収まれば良いといったような、超短期的な、言わば、現代的対処法では植物の育成は不可能なのだ。

もちろん、自分の好みの色や形や種類の植物を店頭で買ってくれば何も問題はないだろうが、正にその行為、その対処法こそが超短期的時間認識と言えるだろう。

まあ、植物を育てる気が無いという人には関係ない話なのだが。

ただ、世の中、何もかもが本当に超短期的と言うか、一過性と言うか、先を見据えていないと言うか、そういうものが多すぎる。そう思いませんか?未来を考えていないものに未来はない!

植物に水をやりながら、そんな事を考えている、侘しい29歳。

「黄麗錦」という多肉植物が、今日、完全に枯れました。

2月19日(金)

昨晩、溜まりに溜まった仕事をそのままに、大学時代の友人達と飲みに行った。1年ぶりの再会だったのだが、こう見えて、実は私、案外、美大生だったのだと、実感する再会となった。

というのも、再会した友人は各々に、自らのファッションブランドを立ち上げ、コレクションの準備に追われていたり、画家としての腕を磨くためニューヨークへ渡る準備をしていたりと、なかなかの美大卒業生っぷりだったのだ。

そして、そんな其々の事情も抱えつつも、一緒にコラボレーションをして、コンテンポラリーアートの展示会を企てようとしているのだから、もはや表現が有り余って仕方ないのだろうといった感じだ。

しかし、私も一介の美大卒業生。猥雑な現実に晒されながらも、表現の源泉は今もしっかりと、清らかな水を湛えている。

ということで、そのコラボレーション展に私も密かに参加しようと画策しているところである。もし私も参加できるようであれば、皆さんも是非見に来て頂きたい。私の魂の叫びをとくと御覧に入れましょう!

なんてこと、酩酊状態で企んでいたら、案の定、新宿の街角で尿意に耐えられず、公衆の面前で放尿してしまう私なのでした。気分が高揚すると、どうやらそういうことになるらしいことが分かりました。実にけしからんことです。

ただ、美大を卒業しておいてなんですが、個展って初めてなんですね。

これが。

2月25日(水)

「かもめ かもめ かちん かちん」

「なにそれ?」

「今のやつ、ちょっと 『か』 を抜いて言ってみて」

「ん? もめ? もめ? ちん? ち! きゃ~!」

なんていうのは、代表的な幼少時代のセクハラのひとつである。どの年代でも、いつの時代でも、男子たるもの、可愛い女の子から注目されたいものである。

ただ、そんなことを思い出しながら、今の私なら、女子一同から注目を集めるには、どのような手法を取るだろうかと考えていると、ふと、ある言葉が頭を過ぎったのである。

「 ほ う に ょ 」

「 きゃ~ ! 」

どの年代も、いつの時代も、可愛い女の子から注目されたい男子たるものは、女子一同から一目も二目も距離を置かれる定めなのである。