ご無沙汰でござる。
終わってみれば特に何も無く、平穏だったような気もするが、なんだかとても盛り沢山だったようにも思える。
そんな風に思えるのも、今年の夏が安定感のあるどっしりとした暑さを終始保っていたからかもしれない。
しかし、そんな夏の香りが残るうちに、遅い夏休を取ろうと思っている。
知らない町で、独り。ブラブラ、フラフラ、ダラダラするのだ。
安定の内に放浪するのである。そんな、天邪鬼な旅に出よう。
思い付いたことを適当に書き記せるほど才筆があるわけではないので、ある程度の設計を元にこの日記も書き記している。
しかし、それにしては稚拙な日記だと感じる方も多いかもしれない。そう、これが私の限界なのだ。致し方ないことである。
ただ、そんな鈍才な私でも、秋の息吹を感じるこの季節には、何かを無性に書き記したくなってしまうのである。特にこの滞留した夏を終えた後の秋という季節は格別である。
秋の切なさは、死に通じる切なさなのだろう。
だから何かを遺したくなるなるのだ。
今年の猛暑を耐え抜けず、育てていた鉢植えが二鉢駄目になってしまった。両方とも良く育っていた鉢だった。
やはり酷暑だったのだ。
鈍感に現代を生きる私は、身近な生命が失われて、初めて、世界の変化に気が付く。身辺の変化は世界の変化であり、その微細な変化に気付かず、いつの間にか世界は手遅れになっている。
遅い夏休。夏の終わりの旅を終え、東京へ帰ってきた。
旅へ出ると、それまでの自分の姿が分かるようになる。いつもと違う行動や土地を通して、普段の自分の姿がよく分かってくるのだろう。
そして、旅を終えると、前とは違った自分になったような気になる。
旅の効用である。
まあ、その効用も、すぐに日常に忙殺されてしまうのだが。
しかし、今回の旅は、帰ってくるなり、東京が夏から秋へ変貌を遂げていて、なんだか、まだ、旅の続きを過ごしているようである。
旅の記録は後日公開しよう。
人の一日とは、案外、地味なものであり、人は一日では、案外、何もできない。
そんな一日でも、たまに、もの凄く劇的な一日があったりして、それはそれで刺激的ではあるのだが、すぐに、地味で何もできない一日の重力に負けてしまう。
案外、赤道直下あたりにでも行けば、回転距離も長いし、重力も少し緩和されるので、一日の感覚も変わるのだろうか。
あーもー。切なーい。
何もかもが切なさすぎる。
仕方が無いので、植物に水をやったり、金魚に餌をやったり、何かの世話をする事で、それまでの切なさを紛らわすも、その後から、また新しい切なさが沸々と湧き出してくるのだ。
切なさあまって何かが起こりそうな、良い季節である。
駅から徒歩10分ぐらいしかない家路をバスで帰る。
まあ、それぐらい疲れていると思ってもらっていい。
または、甘っちょろいと思ってもらってもいい。
しかし。
月曜日の朝っぱらから仕事は問題だらけで、有楽町駅では石破が尖閣諸島問題を種に自衛軍の演説を展開する。眼鏡男子は相変わらずの支持率を保持していて、日能研帰りの小学生達は「碇シンジ」を引き合いに友を詰っている。
SFだ。
そんな日ぐらいはバスで帰っていいと思う。
世界は夏も秋も冬も春も無く、ただただ流れているのである。おかげで、今年の金木犀は遅咲きで、異様に濃厚な臭気を放っている。
秋が変質してきている。
極楽リムジンバスで霊泉四万温泉へと向かう。
熊や鹿が戯れる土地。人界の縁から外れた冥府への旅立ちである。
霊泉四万温泉到着。驚くほどうらぶれている。
異界に踏み込んだ現実をひしひしと感じる。霊験の緊張感である。
温泉街といえば玉打ちだ。湯に浸かっては玉を打ち、玉を打っては湯に浸かる。そして、その連環が時を止める。冥府魔道の遊戯である。
スマートボール場内だけが異様な賑わいを見せていた。
修験道たちの戯れなのである。加持祈祷の掛け声が場内を木霊する。
ふらふらと歩いていると不思議な建物を発見する。
霊泉と謳われるだけあって建築物も一種異様な融合建築である。
霊妙なパワーに、居ても立ってもいられず、入泉。
霊験パワーでテンションアップ↑ タオルヌンチャクが空を切る。
また、ふらふらと歩いていると不思議なものを発見する。
「お母さんたちがたてたのです 昭和40年9月26日」
なぜ?どうやって? 母ちゃんパワーも神憑りである。
宿に到着。絶景かな。
宿でも四万温泉テンションは続く。
夜も元気に外出。呑み歩くような場所は無いので、熊に襲われないよう、電話ボックスへ。現世へ唯一繋がる場所である。
翌朝も霊験パワー持続。朝飯もモリモリ食べる。
いよいよ旅も終盤である。最後にひと風呂浸かろう。
そして、最後の入浴。私は露天風呂で河童に遭遇したのだった。
霊泉四万温泉。恐るべし。みなさんも一度行って来られると良い。
TwitterやらFacebookやら、私も仕方なく登録しているものの、サッパリである。コミュニケーションは直接に限る。ケイタイやメールでもいかん。
さて、そんな事を言っても、歳をとってくると人とのコミュニケーションが億劫になってくるものも事実。人に伝えるのも、人から伝えられるのも、重い腰を持ち上げないと儘ならない。
しかし、逆に、若い頃は絶対にできなかったようなひとり行動なども、今は平気できるようになって来た。良くも悪くも人目が気にならなくなってきたのである。
今度の休日は久々にひとりで秋のアキバでもうろつこう。
直接のコミュニケーションを求めて。
一度は誰でも思いつくファンタジックな妄想は、時に御伽話よりメルヘンに、時にメロドラマより過多な演出で展開される。
今日、私が家路の電車で思いついたものを少し紹介しよう。
いつもの時間のいつもの帰り道、いつもの電車の見慣れた夜景。金曜日、そんな夜景を肴に酒を振る舞う、都内周遊居酒屋列車。
先輩に管を巻くサラリーマンや、帰ることを許さない同僚達。電車がまわるほど酒もまわり、夜も更けていく。そんな楽しい電車の光景である。
誰もが思いつきそうな、ファンタジック妄想である。
まあ、そういう事を何とかして具現化したいものである。
もう大人なんだから。
夕暮れ時、小学生は走り出す。
夕暮れ時、小学生は歌い出す。
夕暮れ時、小学生は回り出す。
夕暮れ時の小学生の奇怪で唐突な行動はよく目撃していた。危険なのであまり近寄らないようにもしていた。おそらく、急激な成長の過程で仕方のない衝動なのだろう。
そんな小学生に対して、私などができることは、せいぜい電信柱の影から静かに見守ることぐらいだ。頑張って成長してくれ。小学生諸君よ。
気がつくと、ネットショップで多肉植物を10株も購入していた。
意識も無く、欲望も無く、クリックを繰り返していたのである。
つまり、無衝動買い。である。
今後、静かな社会問題として、静かなブームを迎えることだろう。
久しぶりに良い本に出逢った。
可愛い子と出逢った時のように、ウキウキ、ワクワク、ドキドキ、ソワソワ、イソイソ、それだけで日々の生活に彩りが出てくるような感じである。
まあ、私がいかに単純で不純な人間か。という話である。
病み上がりの煙草は苦い。秋雨のせいで、その苦味が更に増す。
今週末、都会を遠く離れ、因習に囚われた山奥の寒村へと旅に出る。場所などは何処でも良いのだ。日常に距離を置き、自らを見つめる。
旅とはそういうものである。
横溝正史よろしくの、佐清などが登場すれば、これまた一興だ。
秋の旅は良くも悪くも深みを増す。
病み上がりの煙草の苦さのように。
先月、京都へ行った際、到着当夜に呑みすぎて、翌日、酷い二日酔いに陥ってしまった。しかし、折角の遠出旅行であるのに、二日酔いで寝ているというのもアレなので、少々朦朧としながらも、河原町へ出かけた。
この河原町観光が仇となろうとも思わずに。
案の定、二日酔いの影響から、私は河原町で当て所なくトイレを探す羽目になるのだった。
こういった時、文化圏が違うと、経験則に裏づけされた勘が全く頼りにならない。東京では知らない町でもトイレなんか一発で探し当てることができるが、京都ではなかなか上手くいかないのだ。
しかし、そこは年の功、見事に探し当てたトイレにすかさず入り込み、何とか用便をたすことができたのだった。危機一髪からの脱出であった。
安堵に包まれ、洗面所で顔を洗う。
さて、これからどのようにして河原町で弾けてやろうか。どのようにして京美人と懇意になってやろうか。期待に胸躍らせ、様々な妄想を頭に過ぎらせていた。
その時だった。
私の背後で咳払いの音。すかさず振り返ると、何とも魅力的な黒髪の京美人が怪訝な面持ちで私を睨んでいたのである。
女性用だったのだ。
ある意味、河原町で弾け、京美人と懇意になった瞬間だった。
さて、羽毛布団も出した事だし、そろそろ全裸安眠の季節である。羽毛の中に裸体を埋め、めくるめく睡眠を楽しめる季節なのである。
今夜はどれほどに猥雑で淫靡な夢が見れることだろうか。私の夢日記も充実を極める。忙しくなる。
おやすみなさい。