明けました。
さて、今住んでいる家のトイレにはウォシュレットが付いている。
最初は好奇心半分、探究心半分で使い始めていたのだが、気が付けばウォシュレットから抜け出せなくなってしまっているではないか。
ウォシュレット地獄である。
気をつけろ。あれはアナルを洗浄するだけのものではない。
便意も無いのに便器に誘われているのだ。
昔、現金がなかったので、クレジットカードで生活していた事がある。
クレジットカードの恐ろしさも知らず、いい気になって高級食材を買い込み、たらふく美味しいものを作り、食べ、飲み、排泄していた。
残ったのは利息のついた支払だけである。まあ、多少は料理の腕前と段取ぐらいは身に付いたかもしれない。
しかし、あの時、もっと変なものに金を注ぎ込まなくてよかったと思う。
本当に。
今朝、満員電車の中で思い出してゾッとしたんだ。
なんかゲロ臭い。 俺か?
久々に吐いたな。
しかし、吐くというのは善いことだ。
何もかもが、自分自身から抜け落ちるようである。
みなさんも吐け。
しかし、俺は成長しない。
ただ、吐くと思ってお茶を多めにつくっているぶん成長か。
むずい。
最近マッド的な画像の掲出が多かった。
気分を害された方も多いことだろう。
私個人の不満の表れだ。
白紙に戻そう。
最近、満員電車を満喫しているおじさんである。
むちゅむちゅ。
さて、常に日常とは若輩者にとっては唾棄すべきものであり、老輩者にとっては遵守すべきものである。
つまり、日常とは時代によって揺蕩っているものであって、むしろ、恒常しているのは若輩者と老輩者なのである。
日常を舐めんじゃねぇ!
あぁ。もう駄目かもしんまい。
最近、劇場にあまり行っていない気がする。
映画なんかぜんぜん見てない。
どなたか『ヒミズ』を観た方はいるだろうか?
週末あたりにでも観に行こうかと思うのだが、どうだろう?
所要があったので久々に実家に帰ってきた。今夜は実家泊まりである。
実家の部屋のベッドにゴロンと横たわり、おもむろに煙草に火をつける。
この一ヶ月。充実した新婚生活ではあるが何かもの足りないものを感じていたのは事実だ。しかし、その風穴が何なのかそれまで分からなかった。
まさにこの寝煙草状態。
これだ。
寝煙草最高!
近頃の芥川賞は受賞基準を変更したのだろうか?
まあ、昔から受賞基準が問題視されている文学賞ではあるが、ここのところキャラの立った作家が多く見受けられる。なかなか面白い。
しかし、今回、円城塔氏が受賞したのは驚きだった。
個人的に円城氏には注目していたので、田中氏のパフォーマンスばかりに注目が集められてしまって残念だが、まあ、このことで石原慎太郎が芥川賞の選考委員から抜けるきっかけになるのなら良いことだと思う。
さぶぅ~いぃ。
さて、専門店などにも何度か行ったことがあるが、人生で一番旨かった「おでん」は友人の家でふるまって貰ったものだ。
今夜あたり挑戦してみっか。
添える酒は熱燗か。
いや、焼酎お湯割りか。
今期。個人的注目アニメ。
「偽物語」
3話目にしてようやく物語がドライヴを始めた。あらゆる階層のエロ要素(萌え・蕩れ)をしっかり織り込みながら、我々世代にグッとくる様々なモチーフが鏤められていて、色々と伏線も多い。前作「化物語」同様、楽しみ満載の視聴者想いの善作の兆しである。次話が非常に待ち遠しい。
さて、話変わって。
向上心は無いが、反抗心はあるおじさんである。しかも、後悔はするが、反省はしないおじさんでもある。そして、この寒さ。
おじさんは蒲団から動けない。
ずいぶん前にも書いたと思うが、湯船はやはり3日目が最高だ。
色合いといい、ほの臭さといい、ほの蕩さといい、申し分ない。
実家の頃は、婆ちゃんが毎日湯を抜いてしまっていたので実現することができなかったが、ようやく今夜、3日間よく寝かした湯に浸かることができた。
独り暮らし以来なので5年ぶりぐらいになるだろうか。
外は雪である。
雪は音を吸収するという。
静かだ。
今朝、職場の通常打ち合わせで妙な報告が挙がった。最近、社内の特定の便器がトイレットペーパーによって何度も詰っている。故意なのか悪意なのか過誤なのかは分らないが、注意するようにとのこと。
過誤なら私の可能性は充分にあり得る。何しろ私は下の管理が疎かだ。
注意せねば。
連日寒い。寒すぎる。
さて、世の中では禁煙や分煙が叫ばれて久しいが、私の職場でもとうとう喫煙所の閉鎖。社内全面禁煙ということで話が進みつつある。
喫煙における様々なネガティブソースを展開し、良心的に我々喫煙者を篭絡するという手段も出はじめているが、これは愛煙家に対する弾圧以外の何ものでもない。
私は断固としてこの弾圧に抵抗する所存である。
遊撃戦、ゲリラ戦、情報戦。あらゆる戦略をもってしてこれを粉砕する覚悟だ。
しかし、寒いな。
寒い。ほんとうに寒い。
やれやれだぜ。
さて、知識とは絶対量である。つまり記憶の力だ。
よく日本の教育は詰め込み教育で、解答を導き出す力が足りない。応用の力が足りない。などと言われることがある。ただ、解答だろうが応用だろうが、その到達への思考のドライブには一定の記憶の力が必要だと思う。
例えば、こんな下らないWEBを作るにあたっても、最低限のプログラムやマークアップやネットワークの知識がなければ話にならない。もちろん、それ以前に言語や数学などの知識も必須だ。逆に、そうした知識はあればあるだけ実現性や可能性は増える。
つまり、知識の絶対量そのものが解答や応用に結びつくのである。
それはどんな分野でも同じだと思う。
あと、知識を増やす過程。記憶を維持させる過程。つまり、暗記のための方法論に到達するというのは、まず何事においても重要なことだと思う。
暗記の方法とは十人十色だ。自分なりの暗記の方法への到達。どのようにすれば自分の中に物事を取り入れることができるか。それが、まず始めの一歩だと思う。そうすると自分のこともよく分かるしね。
ただ、昨今の世の中をみていると、知識が報われないね。
報われる場も少ない。
つまらないね。
自分の常識が世の中の非常識であり続けたい。
そんな遥か遠き日の夢をみている変なおじさんである。しかし、変だろうがなんだろうが、おじさんになるということは、やはり建前だけでも常識的に振舞わなければならない時がある。
変なおじさんのくせに、大人ぶらなくてはならないのだ。変なのに。。
ぜんぜん関係無い話なのだが、ようやく「1Q84」の1巻を手に入れたので、今さら読み始めている。
青豆たん萌えぇ~。
ふかえりたん萌えぇ~。
取り急ぎ。