もう9月だったのか。
さて、もう夏も終わりなわけだが、夏の日の原風景。この四季の豊かな土地で暮らしている方ならみなさん各々に持っていると思う。
私の夏の原風景はピンポイントである。
それは、夕方。夕立からの夕凪。そして、夕焼けの後の夕闇である。
夏は夕方だよな。
この夏は暑さにかまけてボーっとしているうちに過ぎ去ってしまった。
ようやくその暑さも和らいできて、なんとなく思考を取り戻しつつあるのだが、ちょっと今日の寒さは過激だ。寒いよ。
しかし、いつも夏を終えて思うことだが、俺に夏を返してくれ。もしくは、この世界から夏を消してくれ。
何も無かった夏の終わりは、切なすぎるぜ。
「世界はなんて出鱈目なんだ」と思い続けて生きてきたおじさんだが、最近、あれ?もしかして俺が出鱈目なのか?なんて、つい弱気になるおじさんである。
今まで通り、自己中心おじさんでいきたいものである。
さて、元来猫派なのだが、今、家の周りには四匹の野良猫が棲みついてしまっている。ウハウハ状態といえばそうなのだが、野良なのでまったく近寄ってこない。糞尿をあちこちにするし、勝手に餌をあげてそのままにする人もいる。
いくら猫派の私でも、飼ってもいないのに上から下まで始末をしなくてはいけないというのはなかなか不条理な気分である。いや、猫派だからこそ辛い状況なのである。
猫ってやつはまったく。
私がサンタクロースから最後に貰ったプレゼントが、革のペンケースだった。小学校最後のクリスマスの時である。
あれから20年。そのペンケースを使い続けている。
だが、さすがにそろそろ限界だ。穴はあくし破けるし。残念だけど、道具としてはちょっと使いものにならなくなってきた。
ただ、20年間使ってきたものなので、買い換えるといっても慎重になってしまってなかなか気に入るものがみつからない。これから20年付き合うかもしれないものである。納得したものが欲しいというのが人情だ。
男はつらいよ。
秋まっしぐらだ。秋が止まらない。
ここのところ、身体が季節についていかなくなってきた。
さて、うちにはテレビがない。
今や家財道具としてあまりにも当たりまえに家庭にあるものなので、「テレビがない」と言うと、政治的主張とか宗教的禁忌とか勘違いされてしまうが、購入する機会に恵まれなかったっというのが本当のところである。
オラこんなのはイヤだぁ~。 というわけでもない。
うちにテレビがないことは先に述べた。
さて、テレビがないことによる一番の弊害は時流に疎くなるということである。特にテレビの情報に流されやすい世論を持つこの国だ。テレビを見ていないことで、世間のタブーに気がつかないことだってあるし、簡単な世間話もよくわからなかったりする。
ただ、それも些細で他愛のなことである。
それに、ネットだテレビだラジオだなんて、そんなに多くの情報をカバーできるほど、おじさんはもう若くないし、その情報を共有できる友人も少ない。
遅れたおじさんは遅れたままでいいのだ。
昔から大変だ大変だといわれていたことが目の前でどんどん大変なことになっている。
エネルギーや環境、少子高齢化や経済、そして国際問題のことである。
誰か立派な人が何とかしてくれるだろうとタカをくくっているうちに本当に大変なことになってしまったのだ。そして、あらゆる問題が顕在化しているにもかかわらず、いまいち実感が乏しいのは元来の無責任さからくるものなのか。
俺もいっぱしの無責任な大人の一員になっちまった。
NHKラジオ第1放送で「きらめき歌謡ライブ」という番組がやっている。生放送の歌番組なのだが、歌謡曲といっても主に演歌が歌われる。
しかし、この番組に出てくる歌手が、どんなアイドルよりも熱烈な声援を受けている。怒声か?罵声か?というぐらいの声援である。ちょっと会場に行って観てみたいほどである。
毎週水曜日にやっているので、みなさんぜひ聞いてみてくれ。元気出るぜ。
口下手ではないが上手くもない。
私の場合、声が篭っていたり喋りがもたつくので、あまり会話向きとはいえないのかもしれないが、きちんと人の話に耳を傾けてくれる人であれば、それなりに楽しんでもらえる話はできると思う。
重要なことは、自分が楽しいと思ったことや感じたことをできるだけ詳細に楽しく語ればいいのだ。
あとは、難しいことを考えないこと。これが案外難しい。
考えるな。語れ。
最近イチジクの石鹸を愛用している。
香りもいいのだが、実際にイチジクの果肉や種が練り込まれていてイチジク好きの私としてはたまらない。
ただ、今日、その石鹸で身体を洗ってシャワーで流そうとしたら何か妙な違和感を感じた。違和感の先をたどってみると尻だった。そして、違和感に満ちた尻の溝を確認してみるとイチジクの種がごっそりたまっていたのだった。
尻から発芽したらどうしてくれるんだ。 ばかやろう このやろう。
今夜、面白い友人が東京を離れてしまった。
行き先はロスだ。
冷静な判断をするなら、まあ、そういうことになる。
蒲田の公園にはいろんな人々が集っている。
親子連れ、カップル、サラリーマン、学生、子供、中国人、タイ人、インド人、ヤンキー、浮浪おじさん、酔っ払い。
よくもまあ、こんなバラエティに富んだ人々が仲違いもせず楽しそうにしているものだ。
公園の本来の姿って、こういうことだと思う。
ピース! ピース!
最近、家に女の子がよく遊びに来る。
男兄弟で育った私にとって家に女の子が遊びに来るというのは、なかなか驚きのことである。まあ、女の子といっても妻の友人がほとんどなのだが、それでも不遇の環境に育った私にはご褒美である。
ただ、30超えたおっさんが女の子たちの会話にずっと付き合うというのもなかなか大変だし、無粋であるので、いつも少し会話を楽しんで私は中座することにしている。
でも、中座したとしても家に女の子の明るい声が響いているというのは、なかなか悪いことではない。
有楽町のマリオン。いや、今もマリオンなのか?
まあいいや。
マリオンから有楽町駅に抜ける通路を通ったら、いつになく人が多く、怒号や悲鳴のようなものが聞こえてきた。なにか事件か?と思ったら映画の公開発表をやっていたのだった。
ちょっとチビリそうになったぜ。
まあ、なんの映画だかわからなかったが妻夫木君や桐谷君や浅野忠信が見えたので、なかなか力の入っている映画なんだと思う。
ただ、あとで知ったのだが西田敏行もその場にいたらしいのだ。
気がつかなかった。
いつになく後悔している。
はぁ~。
なんの趣味もない。なんの興味もない。なんの感動もない。そんなおじさんでも年に二度だけ心躍る時季がある。
ひとつは春の沈丁花の香る頃。女の子の衣服が軽くなっていく。翠萌ゆる爽やかなな時季である。
ふたつめは秋の金木犀の香る頃。女の子の衣服が彩りを増す。まさに今。実りある趣きある時季である。
季節の間で植物の香りが豊かに香る感慨深い時季。おじさんの心はなぜか踊るのだ。
誰か。可愛い女の子よ。
心躍る俺と一緒に呑みにいかないか。
なんの趣味もない。なんの興味もない。なんの感動もない。そんなおじさんでも年に二度だけ心躍る時季がある。
春の沈丁花の香る頃と秋の金木犀の香る頃だ。
あれ?なんか?昨日も同じようなことを言ったか?
歳だから許してもらいたい。
さて、まあ、花の香りに心躍るだけならまだいいのだが、なぜだかこの時季、無性にオッパイが気になってしまう。
いい歳して恥ずかしい話だ。
しかし、興味の対象があまりにもアレなので、なるべく変な方向に考えが至らないよう、即物的で深みのない思考をするよういつも努力している。情緒的なことを考えてしまうと確実にダークサイドに堕ちてしまうのだ。
よくやるのは、胸元に目がいってしまった時、大きさだけに集中することである。詳細な大きさではなく「大」か「小」だけ。「あれはオッパイ あれはチッパイ」といった感じだ。評価だけで思考を止める。評論はしない。これが一番だ。
オッパイには罪はないのだから。
ウチの近くに古本屋がある。
胡散臭くて面倒なんだけど、気のいいおっちゃんがやっている。本の分類も面白くてふらっと立ち寄るにはいい古本屋だった。
おっちゃんに絡まれずに本を探す。ギリギリの間合いで本探しに勤しむというのもなかなかスリルがあって良かった。
その古本屋が閉店だそうだ。
古本屋が無くなるって町の損失だよな。
呑み屋の便所にはワーホリかピースボートのポスターがかなり高い確率で貼ってある。自分探しの代名詞である。
別に自分探しが悪いとは思わないし、人生のある時期にそういったものに憧れることは確かだ。
しかし、呑み屋の便所から始まる自分探しというのも、庶民らしくていいよな。