寝覚め酒
連絡もなし
寝正月
今年は年末よりも年始の休みが短く、正月を存分に堪能することができなかったようにも感じるが、これ以上のんべんだらりと過ごすのも自分の怠惰な性が露呈するようで恐ろしい。
年内にしっかり大掃除をし、年の瀬の自身の誕生日も楽しむことができ、そのぶん年明けをのんびりと過ごすことができたので、まずまずの正月であったと思う。
さて、今年は何が起こることやら。
ここ最近、贔屓の野良がいる。
鼻のあたりに筆で書かれたような黒い模様のある白黒斑の可愛いやつだ。気弱なところも可愛い。
近年、野良に関しては様々な意見があって、難しいこともあるようだ。もちろん、やつらの勝手気ままな糞尿や喧嘩や発情、人間による敷地内での勝手な餌やりなど、我が家でも困ったことはあるのだが、所詮は猫にまつわることである。ある程度の寛容さをもって対応している。
このこどこのこぬっこぬこ。
卯月の列車に揺られるうちに皐月の列車は空いてくる。
桜と満員列車は春の風物である。
春の浮ついた喧騒に雑然と揉まれるうちに、人々や物事はしだいに落ち着くべきところへ落ち着いてゆく。黄金週間をすぎた頃には肩透かしを食らったように世の中は整然としていたりする。
それはそれで、季節の風物である。
幼児、少年、青年、そして中年。
私などは今まさに中年期真っ盛りか。
それぞれの年齢期には印象深い原風景があるものだが、中年期にはあまり無いようにも感じる。
原風景とは体験の記憶というか、感情の想い出のようなもので、案外その記憶は幼ければ幼いほど鮮烈で生々しかったりする。幼いころの脆く、鋭く、敏い感受性ゆえの独特の感情が影響しているからかもしれない。
最近、うちに子猫が遊びにやってくる。生後1~2カ月ほどの茶虎の雌猫だ。「あきな」と名づけた。あまり人慣れはしていないのだが、危険を顧みない彼女の好奇心を目の当たりにすると、己の失われた幼き頃の衝動や感受性について思い返したりして、ちょっと寂しくなる。
夏も終わりだにゃ~。
久々に二日酔いのない休日。良い朝だ。
爽やかな初秋の朝風を感じつつ、最新のウルフカットヘアーにするため、はりきって朝一で馴染のサロン(床屋)にやって来たところ、満員御礼。17時以降しか空いていないそうだ。
う~む。秋のトレンドをものにするのも一筋縄ではいかない。
秋のお洒落は後回し。気を取りなおして神保町でも行くか。
読書の秋さ。
狙う書籍は食関連本。
食欲の秋さ。
しかし、いい朝だ。
二日酔いがないと、休日の選択肢が広がるな。
俺の秋の休日はこれからさ。
ぼくは飽きている、おそろしく飽きている。
真実や幸福をさがすことにも飽きている……
というのは、カミュの一節だが、俺だってこの世界の大いなる意味性にはだいぶ前から飽きている。
まったく。飽きあきだぜ。
だから酒を飲む。肴を食う。煙草を吸う。惰眠を貪る。
せめてもの暇つぶしさ。
そういえば、今日は伸びきった庭木を切らなければならなかったんだ。エアコンの掃除もだ。衣替えもしないとな。
まいったな。
飽きてもいられないこの世界。
今日は所用のため仕事を午前中休ませてもらい、少し空いた時間に庭の掃除をしていたら、外から「おい!」っと声がかかった。
今の住まいに越してきて4年程になる。
地域に全く知り合いがいないというわけではないが、地域の活動にも参加していないし、子供なんかもいないし、親しく声を掛け合うような人間関係はあまりない。
それなのに。
俺に声をかけるのは誰だ? 訝しい奴である。
それは小学校からの旧友だった。
旧友は私の家など知らず、たまたま仕事で通りがかったのだ。そして、私もたまたま半休で家にいて、たまたま外に出ていたわけなのだ。
なんというか。変な縁である。
しかし、町を歩けば知り合いがいて、声を掛け合って、時には窮屈に感じる時もあるかもしれないけれど、隣近所に気安さがないと、それはそれで窮屈だったりする。
都会に住んでいると、そんな気安さはどんどん遠のいていくけれど、旧友との突然の出会いは、そういった気安さや、妙な居心地の良さ、そして、素直に喜びを感じた。
住んでいる場所に気安さを感じられないというのは良くない。
今の私の地域的な気安さは野良猫のナオミぐらいにしかない。
これからはきちんと地域と人間に向き合おう。ナオミとマタタビを酌み交わしたように、地域の人たちとはきちんと酒を酌み交わし、気安い住処にしていこう。
私はよく道を尋ねられることがある。道端でボケッとしているから声をかけやすいのかもしれないが、不思議なのは国内外所構わずよく尋ねられる。アジア圏ならまだ分かるのだが、欧米圏でも尋ねられたことがある。謎である。
そういえば、昨日、近所の西友で買い物をしていたら米国人カップルに「この柿の値段は1個の値段か?それとも1キロの値段か?」と尋ねられた。「残念ながら1個の値段だ」と答えると、カップルは非常に残念そうに売場を去ろうとしたので、心ばかりではあるが、柿を1個買ってプレゼントした。
カップルはお礼を言って帰っていったが、その時、私はハッとした。
心ばかりとはいえ、なぜ1個なのだ!せめて2個にしてあげるべきだったのだ。美味しい柿の取り合いになって喧嘩になったらどうする!まったく気の利かない俺である。
皆さんも、誰か見知らぬ人に声をかける時は気を付けよう。私のように気の利かぬ人間だったら大変だ。
思春期には思春期特有の意識の強さと精神の弱さがあって、それは少々厄介で、努力や根性で克服できるわけではないのだけれど、歳を重ねていくと割合簡単にどこかに消えてしまう。
それもまた厄介ではある。
でも、そうした思春期の厄介ときちんと向き合った、というか、きちんと悩まされた人って、自分の思春期の頃をとてもよく覚えていて、今の自分に意識的というか、そのおかげで様々な方面でうまく自分の魅力を発揮していたりする。
残念ながら私は、そうした厄は厄介払いしてしまった方なので、こんなんなってしまったが、今、そして、これから、こういった厄介ごとに巻き込まれる方は、どうせすぐに消えてしまうので、きちんと向き合ったらいいと思う。
とても大切なことだ。
ネットがいつでもどこでも気軽にアクセスできるものではなくて、簡単なプログラムとテキスト情報が細々と行き交っていた14年前の今日。まだまだ未発達のネットの狭間で、ある一人の青年が誰に向けるわけでもなく自身の呟きを綴り始めた。
そう。今日はこのサイトの誕生日なのである。
かつて青年だった私は中年となり、日々の呟きは激減してしまっている。でも、年齢に比例して失われる自身の感情や体験の記憶をできる限り此処には残せたらいいと思うのだ。
これからもよろしくお願いしマッスル。
今年も終わりだ。
一般的には忘年会や大掃除や年賀状や仕事納めや、あれやらこれやら。いろいろと皆さん忙しかっただろう。
私もこのサイトの記念日、自身の誕生日、結婚記念日、出産と大忙しだった。
そう出産。
先日、女の子を授かった。
私は父になった。
まったく困ったもんだ。
また師走に面倒ごとができてしまった。
嬉しい面倒ごとである。
皆さん良いお年を。