明けましておめでとうございます。
本年も皆さまのご活躍をお祈り申し上げます。
さて、年始から子育てである。
今のところまだ新生児なので凄く大変なことがあるわけではない。うちに来る野良猫の方が動き回るし散らかすし。よっぽど大変だ。
とは言っても、産後間もない妻と、地球来訪間もない新生児の面倒をみるのは思っていたよりも大変だ。世のお母さんに脱帽である。
まあしかし、こんなこともあろうかと、世のお父さんの僅か2%しか取らない「育児休業」というやつを申請しておいたので、2月いっぱいは育児と家事にゆっくり専念できる。
超少数派父ちゃんとして頑張りたいと思う。
連日連夜、主夫である。
ハウスハズバンドってやつだ。
さて、家庭生活とは朝起きてから眠りにつくまで、果てしなく繰り返される辛く険しい営みである。やらねばならないことは限りなく、サボろうものなら後で必ず自分に返ってくる。資金や資材調達から保存や製作管理まで、あらゆる能力を能動的に発揮させなければ立ち行かない。しかも、誰に評価されるわけでもなく、何処かで結果が出るわけでもない。まさに鍛練の場である。
正直、仕事に行っている方が楽かもしれない。
そんな私の唯一の楽しみは、台所での飲酒である。
くれぐれも料理酒には手を出さないようにしよう。
訃報が届いた。私にとってスターでありヒーローであったデヴィッド・ボウイの死である。
90年代初頭。中学生の頃に友達から借りたアルバム「Ziggy Stardust」がデヴィッド・ボウイとの初めての出会いだった。
それまで音楽なんて歌謡曲や流行歌ぐらいしか知らなかったし、それほど興味を持っていなかったが、その当時からして20年も前に作られた「Ziggy Stardust」の音楽性、物語性、実験性にはド肝を抜かれた。架空のロックスター? こんなことがアリなのか? でもカッチョイイ! と。
その後は、とにかくデヴィッド・ボウイについて調べに調べ、聴きに聴いた。それからデヴィッド・ボウイを足がかりに、音楽をはじめ芸術や映画や文学、様々なカウンターカルチャーについて興味を持つようになっていった。
デヴィッド・ボウイは私に初めの道を開いてくれた大師匠なのである。
デヴィッド師匠。
弟子は悲しいです。そして寂しいです。
先日、デヴィッド・ボウイへの私なりの追悼を寄せた。
世間的にも大きく報道されていて、これほど多くの人たちがデヴィッド・ボウイに心寄せていたのかと改めて驚かされる。哀しいながらも嬉しいことである。
さて、私にはもう一人、師と呼ぶべき人がいる。
同じくデヴィッド。デヴィッド・リンチ。映画監督である。
デヴィッド・リンチとの初めての出会いは、かの有名な「ツイン・ピークス」である。海外テレビドラマ人気の走りとして日本でも放映された(劇場版ではデヴィット・ボウイも出演している)が、視聴者置いてけぼりの壮絶な最終話にはド肝を抜かれた。小学生ながら映像表現の果てしなさに震えたものである。
その後、私はリンチの作品を貪るように見た。そして、全く意味のわからない物語ながらも、そのよくわからない魅力に取り憑かれた。それからデヴィッド・リンチを足がかりに、映画をはじめ芸術や音楽や文学、様々なカウンターカルチャーについて興味を持つようになっていった。
この二人のデヴィッドは私の世界の拡張を導いてくれた、まさしく師匠なのである。
デヴィット・リンチもデヴィッド・ボウイと奇しくも同じ歳である。くれぐれもお身体には気をつけていただきたい。
今、こうして仕事から離れ、地道で質素な生活と対峙していると、生きることとは何なのか考えさせられる。
残念ながら私は親や友人や世間や社会から称賛されるような上手い生き方はしてこなかったが、確かな生き方というものは分かり始めてきたような気がする。
確かな生き方。それは自らの手の届く範囲のことは自らの手で確実に熟せるようになることなのだと思う。
都会生活では身の丈以上のものが金を出せば何でも手に入るし、本来自らやらねばならぬ事を省略することもできる。
確かな生き方とは決して面白いものでも興奮するようなことでもない。報われるものでもない。しかし、それを差し置いて道楽に感けたり、欲しいものを買い漁ったり、仕事に没頭したりというのは、少しズレているように思う。
身の丈の生き方。それが確かな生き方なのだと思う。
今日は雪。雪の日は無理をしないで休む。
これでいい。
雪解けの見事な冬晴れの朝。
まずは娘を風呂に入れてから、汚れ物を洗濯機に放り込み洗濯開始。洗濯機が回っている間に朝食の仕度をしつつ部屋を暖める。ゴミを出しに行くついでに回覧板を隣の家に届け、帰りにポストの中から朝刊を取ってくる。朝食が温まったら盛り付けて家族に食べさせていると洗濯終了のブザーが鳴り響く。冬の乾きは遅いから空かさず洗濯物を干しに行く。ついでに今日は布団も干そう。ベランダから戻ると少し遅れて私も朝食をとる。食べ終わったら流しに溜まった洗い物を片付け食べ残しを的確に処理する。
ようやくここで一服。
外に出てタバコを吸う。寒い。家が駅のすぐ側なので家の前を通勤する人々が忙しなく行き交う。そんな光景を眺めながら溜息のように煙を吐き出す。誰も私になど目もくれない。家の前が駐車場になっていて、停めてある軽自動車の下から猫が餌をねだりに出てくる。今日は彼女連れか。よしよし。しかし、寒い。さて、掃除でもするか。
というのが、ここ最近の私の朝の一幕である。
充実しているといえば、そう言えなくもないが、本来、生活というのはこいういうものなんだと思う。でも社会から隔絶されているようでチョッピリ不安も感じたり感じなかったり。