黙読。
その名の通り、声を出さず、黙って文章を読む。
一般的な読書法である。
電車などで声を出して本を読んでいたら、けっこう騒々しいので、私も普段は黙読によって本を読んでいる。
しかし、この黙読。
ただ黙って読めば良いってもんでもないらしいことを最近知った。
私は声に出しては読まないが、頭の中で文字を音声化して読んでいるし、それこそが黙読だと思っていたのだが、普通の人は頭で音声化することなく、字面だけで意味を理解して文章を読んでるらしいことを知ったのだ。
試しに、妻にそのことを訊いてみると、頭の中で文章を音声化するということが分からないようで、質問自体がなかなか伝わらなかった。もちろん、字面だけで理解しているらしく、それ以外の読み方があることが不思議そうであった。
それから、友人にも同じように訊いてみたが、私のような読み方は小学生の頃にはしてたが、その後は字面で理解するようになったそうだ。ただ、味わって読みたい時は頭の中で音声化することはあるらしい。
う〜む。
なんだか俺はすごく恥ずかしいじゃないか!
特訓だ!特訓!
二泊三日で福岡に行ってきた。初めての九州だ。
出発の一週間前に決めたので、事前準備もまったくできず、着のみ着のまま旅立った。
現地では福岡出身の友人が付きっきりで案内をしてくれたので、旬の海産物や土地の料理を堪能し、由緒ある仏閣を巡り、素敵な陶磁器のお店を訪ね、素晴らしい景色を楽しむことができた。
ありがたや。
そして、目まぐるしくも充実した旅の最後。
まだヨチヨチ歩きしかしできなかった娘が福岡空港で突如として走り廻り出したのだった。
父ちゃん辛いけん。
この冬一番の冷え込みで雪も降ると言うので、今日はセーターを着込んで出掛けた。
私はセーターが好きなのだ。
柄や編み方でいうと、ノルディックやフェアアイルなども良いけれど、素朴でシンプルなセーターが好きだ。
セーターを着込むと、いかにも冬が来たという感じがして、不思議な安心感がある。きっと母親が編んでくれたセーターの影響であろうと思う。親に庇護されていた頃の安心感だ。
最近は暖冬の影響や暖かい肌着のおかげでセーターを着込むほど寒くない。かえって暑いぐらいなのだが、いよいよセーターを着込むのに打ってつけの日がやって来たのである。
が。 やはり暑かったな。
セーターほどの庇護はもう俺には必要ないのかもな。
大人になったもんだ。
プレミアムフライデーである。
私には全く関係ない出来事なので、冷める。
さて、村上春樹が新作を発表したようだ。
賛否の分かれる作家だが、同時代に第一線で活躍している唯一の日本人作家であり、文学的にも大きな価値を持った作家だと私は思っている。
でも、そんな村上春樹の新刊本が、朝っぱらから露天の特設売り場で叩き売られていた。
いくらなんでもこんなのって無いよな。
ちょっとした遠出をする時に車を使うことが多くなった。
娘のことを考えると車のほうがいろいろと便利なのである。
運転するのは私である。車はレンタカーだ。
学生の頃はバイクに乗っていたし、車での配送アルバイトをしていたので、運転することには慣れていた。
しかし、あれから時は経ち、運転の勘や感覚は忘却の彼方である。
もちろん、最近はカーナビも使い易くなってるし、スマホで色々と調べられるので、かつてよりアシスト面ではかなり充実している。
だが逆に、その利便性が運転の勘を取り戻しづらくしている要因にもなっていて、毎回、初心者のような緊張感で、運転を楽しむ余裕などない。
おかげで、運転後はヘトヘトである。
娘よ。
早く大きくなってけろ。
娘には、隔月ぐらいの割合で、どうしようもなく不機嫌な期間がやってくる。
昼夜問わず不機嫌で、私も妻もヘトヘトになる。
その様子を注意深く観察してみると、娘は娘なりに、この世界と真剣に対峙し、その結果、時に不機嫌になりながら、自分と世界とに折り合いをつけているようなのである。
そして、その不機嫌な期間を終えると、娘は劇的な変貌を遂げているのだ。
父ちゃんもたまにはガチンコ勝負しないとな。
成長しないよな。
最近、娘が明確に発する言葉がある。
「バイバイ」
私が出かける時に「バイバイ」と手を振ってくれ。
自らも「バイバイ」と言いながら去っていく。
言葉の意味も理解しているのだろう。
しかし、初めての言葉が「バイバイ」という別れの挨拶というのも、どう理解すればいいものか。
さよならだけが人生か。