2018年 9月
9月1日(土)

判断力にあるのか、決断力なのか、行動力なのか、どこに問題があるのかよく分からないが、子どもの頃から、何をするにも少し遅れ気味で、気がつくと周りには誰もおらず、一人ぼっちになっていることがよくあった。

そのおかげで、大学に行くのも、就職をするのも、結婚するのも、子どもを作るのも、夏休みを取るのも、人生のあらゆる局面で遅れ気味の私である。

ただ、少し遅くなりながらも改めて周囲を見回してみると、特別に大きく差をつけられているわけではなく、手を伸ばせばみんなの背中に届くぐらいすぐ近くにいたりすることが分かったりして、ちょっとホッとする。

ただ、そもそも我々は失われた20年という災厄をなんとかくぐり抜けてきた世代なので、全体的に様々なことが遅れ気味になっていて、そのおかげで、良くも悪くも、ようやく私が付いて行けてるだけなのかもしれず、やはり、気がついたら、また一人ぼっちにいなっているのではないか、という不安に襲われる私なのであった。


みなさん。 置いてかないでね。

9月3日(月)

ちょっと用事があって、母校の高校がある武蔵小山という町に行ってきた。

三年間通った馴染み深い町ではあるが、当然ながら、私が通っていた頃(二十年以上前!)の面影は薄くなり、駅前には二棟のタワーマンションが建設中、今後も大規模商業施設の建設計画があるそうで、町の雰囲気も随分と垢ぬけた感じに様変わりしていて、なんとも寂しい気持ちになってしまった。

雨空の下、商店街に待機する夏祭りの神輿だけが、当時の下町らしさを思わせる唯一の姿だったが、担がれずにビニールシートを被った神輿というのも寂しいものである。

うぅ~む。 まあ、仕方なし。

気を取り直して、昼食にネット上で話題のナポリピザの店に入った。

素敵な内装のお店で、洒落たカップルや品の良い家族連れで賑わっていて、店員も丁寧で愛想が良く、話題以上に美味しかった。

思惑通り、食欲を満たすことで寂しさを紛らわすことに成功し、人心地がついて、あらためて周囲を見渡してみると、同じように食べ終わった客の皿には例外なくピザの耳(外縁部)が残してあった。

とうとう日本でも、ピザってそういうルールになってしまったのか。すべて平らげてしまった自分がもの凄く意地汚い者のような気がして、とても惨めな気分で店を後にした。

うぅ~む。 まあ、仕方なし。

しかし、とうとう私も、時に居場所を奪われてしまうような年齢に達してしまったんだなと、つくづく痛感する一日であった。

武蔵小山。今度来る時には、完全に全く知らない町に変貌していることだろう。さよなら。

9月5日(水)

ソーシャルメディアで「バズった」と言うと、数百から数万の単位で反応・拡散されいていることを指すようだが、私のような一般ピーポーは「いいね」が5人も付いてくれれば「今日はけっこうバズったな」と満足し、コメントが付いたりしようものなら一大事なのである。

そんなことだから、私の投稿は毎日のようによくバズる。

9月10日(月)

昔、私の弟は、よく布団にくるまって、近所で買ってきた焼き鳥(豚バラ串)を食べながら、図書館で借りてきた漫画(ぼのぼの)を読んでいた。

弟と相部屋だった私は、あまりにも卑しいその姿に憤怒して、いつも弟をぶっ叩いていたが、弟は自分の流儀を崩さなかった。

その後、弟が地方の高校へ進学し、部屋を私ひとりで使えるようになってから、今度は私が布団にくるまって、煙草を吸いながら、安ウィスキーを飲み、夜遅くまで小説を読み耽るようになり、父親からぶっ叩かれることになる。

いろいろと順序があべこべな話で申し訳ないが、まあ、このようにして、我々兄弟は、布団にくるまり、自らの嗜好を享受することで、とても至福な時間を過ごしてきたのだが、今後、我々(おそらく弟も)には二度とその至福の時間はやって来ない。

なぜなら、我々が父になってしまったからである。

9月11日(火)

「まさか 父ちゃん ウンチした?」

先日、娘から唐突に尋ねられ、私は飲んでいた麦酒を吹き出した。

「いや してないけど」

私がそう答えると、娘は笑って頷いた。

「もしかして 父ちゃん ウンチした?」

暫くして、また娘に尋ねられ、私は読んでいた新聞を破り捨てた。

「いや してないから!」

私がそう答えると、娘はふたたび笑って頷いた。

最近の娘は言語の発達が新たな段階に入ったようで、副詞を用いた修飾表現を使用するようになってきているのだが、なぜか「父ちゃんがウンチをする」ことを執拗に修飾するので困っている。

父ちゃんは予期せぬウンチなどしない! (たまにする)小声

9月22日(土)
プサン・シンドローム:序

少し遅めの夏休旅行から帰ってきたところである。

今年の夏休旅行は娘の成長度合いに合わせ、クルーズ旅行という選択をした。イヤイヤ期真っ只中で、主張も好奇心も強く、縦横無尽に動き回る娘を連れ回るのに、一番ストレスの少なく済む旅行を妻が提案してくれたのだ。

そして、目論見通り、クルーズ船内では熟達したスタッフと親切な乗船客の余裕ある対応により、娘の傍若無人ぶりも気にならず、とても充実した快適な船旅を満喫することができる筈だったのだが、事件は寄港地のひとつである釜山で起こるのだった。



釜山は生憎の雨模様で、当初計画していた街歩きは取り止めることにした。港からすぐの釜山駅近くで至極のケジャンを食べ、そこからほど近い草梁洞という町のアーケード付きのローカル商店街に行き、妻は土産を買い、私と娘は別行動で露店を冷やかして回っていた。

見慣れぬ野菜を売る八百屋、立ち食いの天ぷら屋、とうもろこし茶のスタンド、魚屋、乾物屋、金物屋、靴屋などなど、日本とも似ているが何かが微妙に違った町の風景を、面白がりながら見て歩いていると、商店の人々が気さくに声を掛けてくれ、娘には飴をくれる。おまけに一緒に写真も撮ってくれる。

イイな!

クルーズも正解だったが、期せずしてこの異国の商店街に娘と一緒に来れたのも良かったな、などと、しみじみと感激しながら、妻が土産物を買いに入ったスーパーに向かおうとした、その時、手を繋いで歩いていた娘が突然勢いよくしゃがみ込み、その拍子に繋いでいた娘の右腕の肘がわずかに「コキッ」と鳴った。

マズい!

嫌な予感が過ると同時に娘が泣き叫んだ。ちょうど半年前、全く同じ状況で、娘は右腕の肘を脱臼していたのである。

娘は派手に泣き叫びつづけるが、腕に大きな負荷がかかったわけではなかったので、今回もおそらく脱臼で間違いないだろうと目星をつけるも、ほぼ手ぶらの状態で街へ出てきてしまった我々が、不案内な釜山の町で病院を探して彷徨ったり、救急車を呼んでどこだか分からない病院へ連れて行かれるより、まずは近くのクルーズ船に戻り、船のメディカル・センターでプロに対応して貰うのが一番の早道だろうと判断した。

イケる!

とにかく急いでタクシーを拾ってクルーズ船に向かうも、タクシーはどんなにお願いしてもクルーズ船の接岸している桟橋まで着けてくれず、だいぶ手前のターミナルで降ろされてしまった。それでも、泣き叫ぶ娘を抱きかかえ、ターミナルから船までの500㍍ほどを走り抜け、なんとかメディカル・センターに到着する。

これでようやく一安心かと思われたのだが、更なる失望と混乱と困難に直面しようとは、その時の我々は想像もしなかったのである。



つづく。

プサン・シンドローム:破

前回のあらすじ。

少し遅めの夏休クルーズ旅行の寄港地である釜山にて、娘の右肘脱臼か!? クルーズ船のメディカル・センターに駆け込むが。。。



泣き叫ぶ13㌔の娘を抱いて500㍍を疾走、イミグレをパスし、汗だくでクルーズ船のメディカル・センターに駆け込み、受け付けのスタッフ(日本人女性)に事情と容態を説明する。待ち合いの患者はなく、診察と処置を待っていると、今度は別のスタッフ(白人女性)が出てきて再度事情説明し、再び待つ。更に別のスタッフ(黒人女性)が出てきて、医療用のゴム手袋を膨らませたもので娘をあやし始めるも、痛みを訴える娘に効果がある筈もなくすぐに引っ込む。

う~む。

スタッフはそれなりにいるようだし、設備も整っているようだが、何かが微妙にズレている。そして、それからしばらく何の説明もなく、ただいたずらに時間だけが過ぎてゆく。

う~む。

苛立った私と妻は、今、私たちは何を待っているのか? ここでの処置が難しいようなら釜山の病院を案内してくれないか? できることなら接骨や整復の知識がある乗船客がいないかアナウンスしてくれないか? などを要求したが、今はレントゲンの準備をしているとの返事。

う~む。

埒のあかない対応に嫌な予感を感じ、妻には船のレセプションに掛け合いに行ってもらうことにした。苛立ちと不安の中、娘をなだめながら待っていると、黒人スタッフがガーゼを持ってきて娘の腕を固定しはじめた。このメディカル・センターに着いて40分強、ようやく処置らしき対応をされた瞬間である。

その後、白人スタッフもやってきて、娘の患部の触診をはじめるが、素人の私から見ても不慣れな手付きで、娘は痛みを訴え大泣き、本当に医療スタッフなのか? と訝しく思うも、ネームプレートを見ると " Doctor " の文字。

こりゃ ダメだ。

現在時刻18時。クルーズ船の出向時刻21時半。あと3時間半の猶予しかないが、乗船できないことも覚悟して、船を降りて釜山の病院に行く決意を固めた瞬間だった。

そして、白人医師が引っ込んだ際、日本人スタッフを呼んでもらい、いくつか確認の質問した。

娘の処置をするのはあの白人医師なのか?
→ " Yes. "

レントゲンで状態が分かったとして彼女(白人医師)に処置が可能か?
→ " I don't know. She has never diagnosed a child. "

" Ok... "

私たちはこれから船を降りて病院に行くことにするので最善を尽くして欲しい。
→ " I got it. I'll do my best. "

それから少しして妻が戻るも、レセプションからの積極的な対応は得られず、結局、たらい回しにされただけだった。そして、このメディカル・センターで唯一の処置として、3人がかりで娘に痛み止めが処方された。

最後の頼みの綱として現在シッピング・エージェントに救急病院の手配を依頼しているとのことだったが、その手配もどうなるか分からず、怪我の娘を連れて異国の土地にまた放り出されるのかと思うと、不安ばかりが募るのだった。

だが、しかし、この直後、シッピング・エージェントのMr.パクの登場により、思いもよらない事態を向かえることになろうとは、その時の我々は想像もしなかったのである。



つづく。

プサン・シンドローム:Q

前回までのあらすじ。

夏休クルーズ旅行の寄港地である釜山にて娘の右肘が脱臼。クルーズ船のメディカル・センターに駆け込むが、小児対応の経験が少ないスタッフに不安を感じた我々は、船を降りて救急病院に行くことを決意する。しかし、なかなか病院が見つからず、出航時間だけが迫ってくるのだった。焦りと苛立ちと不安の真っ只中にいる我々の前に現れたのは。。。



痛み止めが効いてきて娘の様子が少し落ち着いてきたので、妻に抱っこを交替して貰う。娘を抱いていた部分は汗でびっしょり濡れていた。

このまま、もし船に戻らない場合を考えると、部屋から持ってきたいものは色々あったが、先の心配をするより、まずは娘のことだよな、なんてことを考えていると、揃いの黒いユニフォームを着た逞しい二人の男性が現れた。

上司であろう年かさの男性がメディカル・センターのスタッフと遣り取りをはじめ、部下であろう若めの男性が電話をしながら、逐次、年かさの男性に報告をしている。年かさの男性は報告に対してすかさず指示を与える。

スタッフと一通り話を終えた年かさの男性が我々の方にやって来て流暢な英語で簡単な自己紹介と現状の説明を始めた。

「はじめまして。シッピング・エージェントのパクです。先ほど、釜山の大学病院に問い合わせましたが現在とても混雑しているため、小児対応ができる他の救急病院を当たっているところです。取り急ぎ、タクシーの手配をしてあるので、タクシーに向かいながら話ましょう」

むむっ!

彼がMr.パクであった。私より少し年上だが大柄で筋肉質で私よりはずっと爽やかで若々しい印象の男性だ。説明内容が丁寧で分かりやすく、こういった自体に慣れているのか、とても落ち着いている。Mr.パクの隣で逐次電話のやり取りをしている部下から再度報告が入る。

「今、救急病院の手配ができました。英語を話せるスタッフがいる事も確認していますので、到着したらそのスタッフが対応に当たります。タクシーで病院に向かって下さい。処置後はこちらの手隙の車を回します。英語ができる運転手を付けます」

うむっ!

そして、再度イミグレへ到着するも帰りの乗船客で窓口は混雑していた。ここで暫し足止めかと思っていたが、Mr.パクが職員と話をつけ、手続きを省いて入国できることになる。

「緊急なので出入国の手続きはとりあえず省きます。出航時間までに無事に帰ってこられれば特別な手続きは必要ありません。もし間に合わず、下船しなければならない場合は正式な手続きをしてもらいます。申し訳ありませんが、特別な措置なので一時的にパスポートは預からせてもらいますが、大丈夫、心配しないで。私を信頼して下さい」

ななっ!

正直、外国でパスポートを手放すことには戸惑いを覚えたが、Mr.パクの一連の対応や人柄を信じて再び釜山の地に舞い戻った。

「さあ、早くこのタクシーに乗って下さい。行き先は既に運転手に伝えてあります。クレジットカードは持っていますね? タクシーも病院もクレジットカードで支払いは対応できます。」

Mr.パクは我々を促した。妻と娘が先にタクシーに乗り込み、続いて私も乗り込もうとした時、何かを思い出したようにMr.パクが私に近づいてきた。

「実は、私にも同じぐらいの子どもがいるんです。気持は良く分かります。でも心配しないで。きっと大丈夫」

そう言って、Mr.パクは自分の連絡先を書いた名刺と5万ウォン札を私の胸ポケットに優しく差し入れた。

ええっ!

「何かあったらすぐにこの番号に連絡して下さい。そして、少ないですが、何かあったらこれを使って下さい。」

わぁ~ん!

こうして、Mr.パクの的確で親身な対応により、病院に行く手筈が滞りなく整ったのであった。Mr.パクと出会ってから10分足らずの出来事である。

我々はすぐにタクシーで港を出発した。しかし、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったのですぐに渋滞にぶつかってしまった。娘の怪我もどうなるか分からず、船に戻れるかも分からず、まだまだ不安は拭いきれなかったが、こんなに迅速かつ的確で、しかも誠実で優しさに満ちた対応を受けたのは生まれて初めての経験で、もしもこの町に置いていかれたとしても、Mr.パクのような素晴らしい人がいる町だ。商店街の人たちもとても親切だったし。そう。きっと大丈夫。

渋滞でまったく動きをみせないタクシーだったが、坂道で入り組む釜山の美しい町並みを車窓から眺めながら、私は不思議と落ち着いていた。

とにかく今は病院だ。



つづく。

プサン・シンドローム:||

前回までのあらすじ。

クルーズ旅行の寄港地である釜山にて娘の右肘が脱臼。クルーズ船のメディカル・センターに駆け込むが、スタッフの対応に不安を感じた我々は船を降りて救急病院に行くことを決意する。出航時間が迫る中、我々の前に現れたシッピング・エージェントのMr.パクの尽力により無事に病院へ向かう手筈が整ったが、病院へ向かうタクシーは渋滞に巻き込まれるのだった。。。



18時30分。港からタクシーで出発。クルーズ船の出航予定21時30分。残り3時間。

病院へ向かうタクシーが幹線道路に出たところで渋滞に巻き込まれてしまった。事故渋滞のように絶望的に動かないわけではなかったが、焦りや不安によって気持ちばかりが先走る。

なかなか進まない状況に苛立っていると、膝の上に抱えている土産袋に目が止まる。こんな時にこんなものを。思わず失笑。娘は痛み止めのおかげで妻の腕の中で静かにしている。徐々にタクシーも進み始める。

19時10分。渋滞を抜けると坂の中腹の救急病院にすぐに到着した。Mr.パクの言った通り、英語を話すスタッフがタクシーに駆けつけ素早く対応してくれる。

待ち合い患者がいなかったので、すぐに処置室に案内される。処置室のベッドは様々な患者でほぼ埋まっていた。昔、救急病院で一晩祖父に付き添ったことを思い出す。救急病院の処置室の独特の雰囲気はどの国も変わらないのだ。

若い男性の医師に簡単に状況を説明するが、事前に状況が伝わっていたらしく、すぐにレントゲン撮影をすることになる。ここでもMr.パクの手腕が見え隠れする。

レントゲン室に向かう途中、なぜか私は猛烈な便意を催しトイレへ駆け込む。トイレで用を足しながら、洗面台にシャワーが付いていることに気が付く。なんであんな所にシャワーが付いているんだろうか? 韓国だからか? 病院だからか? などと素朴な疑問を感じつつ、韓国は確かトイレットペーパーは流しちゃ駄目だったよな、などと、病院のトイレで文化の違いを感じるぐらいに余裕を取り戻す。

トイレから戻ると、娘もレントゲン撮影を終えて処置室のベッドに戻っていた。ほどなくして医師がやって来て、骨折ではなく脱臼であると説明される。

そして、医師は注意深く娘の右肘の具合を確認し、慎重に肘を支えながら二度ほど屈伸をさせるようにゆっくり関節を動かした。医師は納得したように軽く頷いてから「이제 괜찮습니다(もう大丈夫)」と言って、私たちに微笑みかけた。

19時20分。実に呆気なく、実に簡単に処置は終了し、娘の右肘の関節は元のあるべき場所に収まったのだった。娘は処置の際の痛みと驚きで、また大泣きをはじめたが、それまで動かさなかった右腕を大きく動かしながら泣いていたので、我々もようやく胸を撫で下ろすことができたのだった。

その後、医師から丁寧な諸注意を受ける。それが終わると会計待ち。待っている最中は英語で対応してくれたスタッフが娘をずっと構ってくれていた。スタッフは片言の日本語で「もう痛い無いですよ。泣く無いですよ」と娘を励ましてくれた。それに対して「カムサムニダ」としか言えない自分の韓国語の貧しい知識が情けなかった。

医療費の会計はMr.パクの言ったとおりクレジットカードで済ませることができた。スタッフや医師にお礼を言って病院を出ると、Mr.パクの手配したワゴン車が既に待機していて、私たちをクルーズ船の停泊する港まで送ってくれた。

19時40分。私たちを乗せたワゴン車は、渋滞にも引っかからず、すぐに港に到着した。港ではMr.パクが笑顔で出迎えてくれ、私たちにパスポートを返してくれた。感謝し尽くせない思いをなんとかMr.パクに伝えたかったが、私の語学力では不可能だった。そして、Mr.パクは手続き上の確認を簡単に済ませると、自分はそれほど大した仕事などしてないよといった感じで、実にあっさりと私たちの前から立ち去ってしまった。

19時50分。21時30分の出航予定まで1時間40分の余裕を持ち、無事に家族三人で乗船。すぐに自室に戻り、シャワーを浴び、ベッドに横たわる。私たちは思った以上に疲れ果てていた。

部屋のデッキから釜山の美しい夜景を眺めていると、汽笛が鳴って船が動き始める。レインボーカラーに映える釜山港大橋を越えるとすぐに外洋に出る。

釜山よ。また必ず来るからな。



おわり。


その後、クルーズ船での3日間、家族水入らずで実に平和で豊かな時間を過ごすことができたのだが、帰国後、私は原因不明の腹痛と下痢に悩まされ、余っていた夏休暇を寝て過ごす羽目になるのだが、それはまた別の機会に話すことにしよう。 え? そんな話は聞きたくないって?